週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

#229 -’15. 不作為を恨み

2015年07月20日 09時31分33秒 | たわごと(少し硬派に振って)
痛ましい出来事がまたまた発生した。
前途ある若い中学生が自ら短い人生に幕を閉じた。
岩手県矢巾町の中学二年生の村松亮君がいじめを苦に自殺した。
実に痛ましく嘆かわしい出来事である。


子供たちの小さな胸に秘めた苦しみから発する救いの叫び声は両親に発しない事が多い。
子供は親に良い子であると思ってもらいたい。
いじめに会っている事を知られたくないのである。
親を悲しませたくないのか、自分自身をそこまで丸裸にする事が出来ないのかもしれない。
一番近くに居る人であるからこそ、自己の救いの主とする事が出来ないようだ。

自殺する人は必ず最後の救いを求める意思表示をする。
人は誰しも未来に希望が持てて、今現在の黒雲を晴らしてもらいたいと、その心の底からの助けを求めるのである。
その助けを求める声も担任の先生には届かなかった。
亮君にとっては命を絶っても現在存在する場から逃避したかったのである。
でも、担任は何ら現実を認識していない。
実際は認識していたが、時が解決するとの思いで時の流れるままにしていたのだろうか。
それとも、本当に事の重大さを認識していなかったのであろうか。
ノートに書かれた内容に返事を書く事で事態は好転して解決するとでも思っていたのだろうか。
返事も問題解決に向かう趣旨では無い事ははっきりしているが。

何もしないこの教師に殆どの人が抱くであろう気持ち。
不作為は許されるのであろうか。
教師は只の通りすがりの人ではない。
日々、生徒たちと向き合い勉学も人間性も磨く立場にある有能な人であり、人格者だと思っている。
聖職者とは言えない現在の教育者であっても、不作為は許されないと思うのだが。


少し話題を変えて。
アメリカの航空機の事故調査の為にアメリカ連邦航空局(FAA)はパイロットなどの過失を咎めずに真相究明を図ると聞いた事がある。
航空機の事故は統計にもよるが45%~70%が操縦士、管制官、整備士などの人的ミスにより発生するとの事。
パイロットなどの過失によるミスを咎めるとボイスレコータ&フライトレコーダを解析しても真の航空機事故の原因が解明できない事がある。
今回の航空機事故を教訓として、将来のヒューマンエラーに基ずく事故を防ぐべく対策を採る為である。
人間工学的に誤操作しやすい、計器の変更や誤りを防ぐ教育・システムを構築するのである。
航空機は落ちる物である事は紛れも無い事実であるとの認識に立つのである。
この認識に立ち、墜ちる事、事故る事を限り無く0%に近づける努力をしているのである。
墜ちないなど、事故らないなどとの虚勢は張らず現実を見つめて対策を立てているのである。
綺麗ごとを言い現実の世界から目をそらし、何の対策も採らない何処かの国とは違うのである。


何事においても安易な性善説に立つ考え方は嫌いである。


亮君の担任の不作為を自分は許す事ができない。
教師たる者聖職者であるとは思わないが、未成熟の人間を育て教育する人格者では有ってもらいたいし、必要条件だと思っている。
教師となり人を育てる事は素晴らしい職業だし、そこから得られる充実感も満足感も何にもまして心を温かくしてくれる筈である。
大学&大学院進学率が高くなった現在であるから、必ずしても教師自体がエリートで人格者であるとは限らないのかもしれない。
それでも、教師としての最低限度の資質は持っていて欲しいと願ってしまう。
今回の教師はこの資質が欠けていたのだと思う。
この教師が今回の事態に適切に対応できていれば、いじめられた亮君の命も救えたし、加害者の子供たちを加害者としての烙印を押させる事も無かったはずである。

しかし、個々の教師を指弾するのでは、解決は図れない。
航空事故と同じく、とことん原因を究明して何故に今回の教師が正しい対応が出来なかったのか解明しなければならない。
教師の中に一人でも、今回の亮君の担任が運が悪かったと思うなら(自殺者を出すほどのいじめの存在するクラスを担当したと言う事。)永遠にこの問題は解決しない。
亮君のクラス担任になった事が運の尽きと思う人が居ない事をお切に願う。
その為にも何故に正しい対応が出来なかったのか解明しなければならない。
人を指導する資質に欠ける人を選択・採用してしまうシステムなのか。
採用後の教員養成に問題があるのか。
はたまた、大学の教職課程を有する学科の教育に問題があるのか。
何も問題意識を持たない教育員会に問題があるのか。
先に述べた、事と重複するが、イジメが存在しているのに知らなかった、存在していなかった。
それらの行為はわが校には存在しないなど。
性善説に立つ事が良い事の如くの腹黒さ。
罪の軽重は会っても、教師にも教育員会にも養成機関である大学にも、親を含む社会にも責任はある。

小学生でも中学生でも、いじめをする事が人間として卑怯者で人であれば忌み嫌う行いであるとの社会的価値観の共有。
平たく言えば、子供でも弱いものイジメする事、乃至は多数で少数をイジメる事は卑怯者のすることであるとの社会的通念の構築。
小学生や中学生の心理でも卑怯な行いであるとの心への植え付けが重要なはず。
TVのバラエティー番組などでも、弱いものイジメをして笑いを取るような番組が存在する。
そのような行為は卑怯であり、許されるべき行為ではないとの社会の価値観が必要である。
イジメはいけない事なのだと心底か思うような社会にならねばならぬ。


何が担任に当事者として、今回の事象に正面から向き合うことをさせなかったのか。
イジメが存在することは、教師としての汚点なのだろうか。
無能な教師だからクラス内にイジメが蔓延るので有るとの思いが有るのなら問題である。
自分も担任を許すことが出来ないと言っているが、イジメはどこにでもあると思っている。
と、言うより三人集まればイジメは必ず存在する。
イジメ存在しないし、イジメに気が付かなかったなど大本営の発表である。
性善説の如きイジメがクラスに存在したいのではなく、性悪説の如くいじめは何処のクラスにも必ず存在するのであるとの認識がひつようだ。
蔓延しているイジメを如何に解決するかが問題なのである。

教師を管理監督する校長や教育員会などいじめが存在しないなど真っ赤なウソをついているのである。
自己の保全、組織の保全に走っているからこの問題は無く成らないのである。
何事も大過なく過ぎ去れば良いとの問題意識の欠如した校長・教育委員会に、こそ問題があるのである。


いじめは必ず存在するとの認識に立ち親も大人も教育者も教育員会もそのような行為が行われないよに対処する。
一個人の教師に、解決策を押し付けていては決して無く成らない。
システム化した対処方法を教師も教育委員会も考えねばならぬ。
このシステムの構築には養成機関としての大学などが大きな力を発揮できる筈である。
教師の資質によらず、このようないじめの時はこのように対処して、こちらのようないじめの時はこのように対処すべきとシステム化するべきである、と。
それでも、人の心を動かすのは心と心のつながりである。
いじめに合っている子供を救えるのも、いじめている加害者を更正させるのも対応している教師である。
それでも、最後に言える事は人の心を掴み、人の心を動かすのは教師である。
そのことを認識して人を育てる素晴らしい職業に就いてもらいたいものである。






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本題と離れているのですが (まろう)
2015-07-20 11:54:23
何かお困りですか?と言う言葉があります。余計なお世話 という顔をされることがあります。何もしない みないふりをした方が良かったかと思うことを身をもって体験しています。大いにおせっかいをしよう!と何かで読みましたが おせっかいをするのも良く考えてから と戸惑いながら行動しなければなりません。ブログの本題とは離れているのですが そんなことを思いました。
大きなお世話 (原村)
2015-07-20 16:10:29
まろうさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。

本題と離れていても全く問題はありません。
自分も小さな親切大きなお世話が大好きなです。
今、ジムから帰って来る時に車椅子に乗った方と言葉を交わしました。道路の真ん中を車椅子で歩いていると言うか走っていました。
以前にも歩道に上がるのに難儀していたので押して上げた方です。
今回は後ろから「何かお手伝いする事ありますか?」と自転車に乗ったまま声がけした。
そのかた「大丈夫です。」自分が自転車で通り過ぎるとき。その方が「本当にありがとう」と。
既に通り越して前を向いて自転車を漕いだまま、大きく手を振って「気を付けて」と。
ただ、それだけですが、日本人に対しても外国の方に対しても小さな親切大きなお世話が大好きです。
100人の内の一人の真に困った人の手助けができれば良いと思っています。
イジメのあるクラスは教師にとって汚点 (ろこ)
2015-07-21 22:30:33
 こんにちは。
 イジメのあるクラスは担任の能力が劣っているとみなされている傾向があるようです。そこでクラス外に漏れないよう、担任が自分だけで処理しようと思ったのでしょう。そこに問題点があると思います。そうした学校全体の教職員の問題点。SOSを切ないまでに発しているノートを毎日見ながら、お見当はずれの答えをノートに記す担任に、亮君は絶望したのでしょう。
 それ以前に双方に意見をしたという担任の、生徒への対処の未熟さが問題点だと思います。
 イジメは今に始まったことでなく、昔からありました。異端への反発、弱いものいじめ。大人から子供まで、ママ友から異教徒排斥まで。さざまなところで、異なった形でイジメは存在します。子供ころからそうしたいじめの下地をなくす運動や教育を徹底することが必要な気がします。学校全体、地域全体、教育界全体、日本全体、世界全体と「イジメをなくす」ことが広がるといいですね。
汚点 (原村)
2015-07-22 21:33:44
こんばんは、ろこさん。
コメントありがとうございます。

イジメが有る事が担当教師の汚点となるんですね。
この考え方を変えない限りイジメは無くならない気がします。
どのクラスでもイジメは必ずあり、担当教師だけではなく学校全体場合によっては父兄も巻き込み地域全体で解決するぐらいの体制が必要だと思います。
問題が有るのに問題に蓋をしてイジメが無いもの乃至は解決したものととらえるのはこのためなんですね。
臭いものに蓋をして、イジメの有るクラスを担当したことが不運だったとのことでは絶対に無くならないですね。
日本だけでは無くどこの国でも存在しますが、日本は特に個人個人の個性を抑える傾向が有るので、イジメが生じやすい国民性かと思います。
以前に書いたスレッドで§単一性(没個性)の記事でもそんな感じします。
時間があったらこちらも覗いて見てください。
http://blog.goo.ne.jp/akagera63363556/e/aab62bf2e1c81f88604b1e310007d9e6

最低限度、イジメは担当教師の責任では無く、学校全体で解決をとの共通認識を持ってほしいと願っています。

執筆ご活躍のこと、暑い日が続いています、ご自愛のほど。

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