亡くなった師匠のことが、今朝なぜか急に思い出された。
年末の一時帰国の間、両親の住む田舎に戻ったら、
お線香をあげに行こう。
私は師匠不孝者だ。
生まれ故郷の北海道小樽市を去ったのは13歳。
「内地」のとある県に越してから、その地になじめず困惑した。
5歳から続けていたピアノを一時中断しなくてはならなくなったのはその頃。
音の世界に自分の将来はもうないと思いつつ、慣性の法則のように(愛しくない)借り物のピアノに向かっていた。そこから漏れ出る音を聞いた近くのお米屋さんが、師匠と私を結び付けてくれた。15歳のころ。
十代前半にあって、3年間の中断を埋めるように、レッスンが始まった。今所持している(大変に愛しい)ピアノを母と一緒に買いに行ったのもその頃だ。自宅でピアノが弾ける。そして、レッスンらしいレッスンを受ける。とてもうれしかった。今思えばしかし、師匠のレッスンは厳しくはないし、何かとりわけ新しい指導をされたわけでもなかった。ただそれでも「この人に付いていけば今は安心なのだ」と思わせる人だった。師匠はそのころ還暦を迎え、ロマンスグレーの髪に低音ボイス、そしていつもジーンズだった。バイクに乗ったり、スキーをしたり、おいしいものを食べるのが好き。遊ぶこと大好き。そんな師匠のことを、私はちょっとかっこいいと思っていて、こっそり「ダンディー」と呼んでいた。
そもそも人前で演奏することが苦手(大嫌い)な私に、舞台上でショパンのスケルルォ2番とか、バッハのパルティータ一番丸ごと全部とか、やらせたのはこの人だった。何度受けても通らなかったオーディションが、ダンディーの指導の元では通った。
教科としての英語が大好きだった私は、(ありがちだけれど)「アメリカに高校留学をしてみたいので、ピアノやめます」と、ある日ダンディーに話してみた。当時の私としては、それなりに将来設計なんかをして、よく考えた上での報告だったのに、あっさりダンディーに覆されてしまった。
「語学は手段としてやるべきものだ。目的にするもんじゃない。そんなに英語やりたいなら、英語で音楽やりなさい。国立しか行けないのなら、藝大の楽理科に行きなさい」
ガクリカってなんですかぁ~?という高2の春休み。とりあえず死ぬほど英語勉強せよと言われ、好きな英語と音楽をやればいいのね、という感じで受験を考えることにした。アメリカ留学よ、さようなら。
ダンディーは強い人で、県下の音楽業界を牛耳っていた。ダンディーの政治力に対する外部からの声が入ることもあって、私にはそれが閉塞的に映ったし、小さな県の権威主義的な体制がうっすら感じられると、「かわいがってもらっている」師匠に対し、密かな疑念も抱いたりしていた。とはいえ十代の弟子である私は、無邪気に師匠にひれ伏していればいいだけだったので、ある意味気が楽だったし、師匠に「可愛いがってもらっている」感覚もあった。十代の弟子の「可愛がられ方」なんて、なんの政治性とも無縁だから、ただ楽しかったし。
受験に向けて、ピアノだけのレッスンから、楽典や和声、聴音、新曲、作文・・・と、一時は全てを彼の元でやっていたから、週に3回くらい通うこともあった。終わると教室の下にあった焼き鳥屋さんに連れて行かれ、ときにはイタリアンを食べに行く日もあった。そういえば「すしは箸をつかうな、手で食べよ」と教わったのもこの人からだった。なぜかドライブに一緒に行き、ときどきファッションの話までした。ダンディーには愛娘がいて、彼女もピアノを教えていたから、ジェネレーション的には私は孫のように可愛がられていたのだった。
とはいえ。私は腹黒い。密かに、彼の指導だけでは聴音が伸び悩んでいること、作文が一向に書けるようにならないことから、聴音は別の先生に自ら移り、そして独自に動いて「藝大楽理科一直線」ともいえる私塾へのルートを見つけ出した。
そしてその後、私の東京上野での音楽生活が、結局10年以上になることになった。
外へ外へ向かって音楽を勉強することで、私は小さな県に渦巻く音楽界の政治性からぐんぐん逃れることができると感じていたし、東京で目からウロコが何枚も剥がれ落ちた。そして空気感として「私のいるべき場所はここです」と思ったりも。
なので、「可愛がってくれた」師匠のことを折に触れて思い出しても、時に彼の周辺からの不自然な便りや、学閥的な話なんかが流れてくることもあったりして、自ずと距離をとり続けてしまった。師匠ダンディーと弟子の私の間には、おじいちゃんと孫みたいな関係が成立していたけれど、大学を出て大人になってから県に関わったらば、きっとロクなことにならないと感じさせる何かがあったのだ。
なので、年々距離を置いていった。
2年くらい前に、突然ダンディーの音楽教室から発表会のプログラムが届いた。娘さんの挨拶文があって、ダンディーの後継ぎとなって今後もがんばります、みたいなことが書いてあった。「故」という文字を見て、頭が真っ白になり、声が出なかった。取り返しの付かないことをしたような気持ちになった。
亡くなったという知らせはないまま、それから幾らか時を経てから突然発表会のプログラムを送ってこられたご遺族の行動は、私をただただ謝りたい気持ちで一杯にさせたのだった。冷静にならぬうちに、何年もかけていなかった番号に電話をして、娘さんに何度も何度も何度も泣きながら謝り続けてしまった。「最後まであなたのことは気にかけていたのよ」と聞いて、また殴られるような思いをした。
人と人との距離というものについて、よく考える。昔から。
だけど私は失敗ばかり。
大切な人を、純粋に、その事象だけで、大切にしていくことは、どこまで可能なんだろう。
来月の一時帰国中に、本当に何年ぶりかに田舎で数日を送る。
電話をかけて、お線香をあげたいと言ったら、ご遺族はあまりいい気持ちはしないだろう。私が彼らの立場だったらやっぱり「何を今さら」と思うかもしれない。
それでも。
今ある私を今ここに、最初の道標を示してくれたその人に、今こそ心からありがとうと言えるかもしれない。「少しずつですけれど、英語で音楽やっています」と報告できるかもしれない。
勇気を出して、まずは電話だ。帰国してからのやりたいことが、一つ増えた。
年末の一時帰国の間、両親の住む田舎に戻ったら、
お線香をあげに行こう。
私は師匠不孝者だ。
生まれ故郷の北海道小樽市を去ったのは13歳。
「内地」のとある県に越してから、その地になじめず困惑した。
5歳から続けていたピアノを一時中断しなくてはならなくなったのはその頃。
音の世界に自分の将来はもうないと思いつつ、慣性の法則のように(愛しくない)借り物のピアノに向かっていた。そこから漏れ出る音を聞いた近くのお米屋さんが、師匠と私を結び付けてくれた。15歳のころ。
十代前半にあって、3年間の中断を埋めるように、レッスンが始まった。今所持している(大変に愛しい)ピアノを母と一緒に買いに行ったのもその頃だ。自宅でピアノが弾ける。そして、レッスンらしいレッスンを受ける。とてもうれしかった。今思えばしかし、師匠のレッスンは厳しくはないし、何かとりわけ新しい指導をされたわけでもなかった。ただそれでも「この人に付いていけば今は安心なのだ」と思わせる人だった。師匠はそのころ還暦を迎え、ロマンスグレーの髪に低音ボイス、そしていつもジーンズだった。バイクに乗ったり、スキーをしたり、おいしいものを食べるのが好き。遊ぶこと大好き。そんな師匠のことを、私はちょっとかっこいいと思っていて、こっそり「ダンディー」と呼んでいた。
そもそも人前で演奏することが苦手(大嫌い)な私に、舞台上でショパンのスケルルォ2番とか、バッハのパルティータ一番丸ごと全部とか、やらせたのはこの人だった。何度受けても通らなかったオーディションが、ダンディーの指導の元では通った。
教科としての英語が大好きだった私は、(ありがちだけれど)「アメリカに高校留学をしてみたいので、ピアノやめます」と、ある日ダンディーに話してみた。当時の私としては、それなりに将来設計なんかをして、よく考えた上での報告だったのに、あっさりダンディーに覆されてしまった。
「語学は手段としてやるべきものだ。目的にするもんじゃない。そんなに英語やりたいなら、英語で音楽やりなさい。国立しか行けないのなら、藝大の楽理科に行きなさい」
ガクリカってなんですかぁ~?という高2の春休み。とりあえず死ぬほど英語勉強せよと言われ、好きな英語と音楽をやればいいのね、という感じで受験を考えることにした。アメリカ留学よ、さようなら。
ダンディーは強い人で、県下の音楽業界を牛耳っていた。ダンディーの政治力に対する外部からの声が入ることもあって、私にはそれが閉塞的に映ったし、小さな県の権威主義的な体制がうっすら感じられると、「かわいがってもらっている」師匠に対し、密かな疑念も抱いたりしていた。とはいえ十代の弟子である私は、無邪気に師匠にひれ伏していればいいだけだったので、ある意味気が楽だったし、師匠に「可愛いがってもらっている」感覚もあった。十代の弟子の「可愛がられ方」なんて、なんの政治性とも無縁だから、ただ楽しかったし。
受験に向けて、ピアノだけのレッスンから、楽典や和声、聴音、新曲、作文・・・と、一時は全てを彼の元でやっていたから、週に3回くらい通うこともあった。終わると教室の下にあった焼き鳥屋さんに連れて行かれ、ときにはイタリアンを食べに行く日もあった。そういえば「すしは箸をつかうな、手で食べよ」と教わったのもこの人からだった。なぜかドライブに一緒に行き、ときどきファッションの話までした。ダンディーには愛娘がいて、彼女もピアノを教えていたから、ジェネレーション的には私は孫のように可愛がられていたのだった。
とはいえ。私は腹黒い。密かに、彼の指導だけでは聴音が伸び悩んでいること、作文が一向に書けるようにならないことから、聴音は別の先生に自ら移り、そして独自に動いて「藝大楽理科一直線」ともいえる私塾へのルートを見つけ出した。
そしてその後、私の東京上野での音楽生活が、結局10年以上になることになった。
外へ外へ向かって音楽を勉強することで、私は小さな県に渦巻く音楽界の政治性からぐんぐん逃れることができると感じていたし、東京で目からウロコが何枚も剥がれ落ちた。そして空気感として「私のいるべき場所はここです」と思ったりも。
なので、「可愛がってくれた」師匠のことを折に触れて思い出しても、時に彼の周辺からの不自然な便りや、学閥的な話なんかが流れてくることもあったりして、自ずと距離をとり続けてしまった。師匠ダンディーと弟子の私の間には、おじいちゃんと孫みたいな関係が成立していたけれど、大学を出て大人になってから県に関わったらば、きっとロクなことにならないと感じさせる何かがあったのだ。
なので、年々距離を置いていった。
2年くらい前に、突然ダンディーの音楽教室から発表会のプログラムが届いた。娘さんの挨拶文があって、ダンディーの後継ぎとなって今後もがんばります、みたいなことが書いてあった。「故」という文字を見て、頭が真っ白になり、声が出なかった。取り返しの付かないことをしたような気持ちになった。
亡くなったという知らせはないまま、それから幾らか時を経てから突然発表会のプログラムを送ってこられたご遺族の行動は、私をただただ謝りたい気持ちで一杯にさせたのだった。冷静にならぬうちに、何年もかけていなかった番号に電話をして、娘さんに何度も何度も何度も泣きながら謝り続けてしまった。「最後まであなたのことは気にかけていたのよ」と聞いて、また殴られるような思いをした。
人と人との距離というものについて、よく考える。昔から。
だけど私は失敗ばかり。
大切な人を、純粋に、その事象だけで、大切にしていくことは、どこまで可能なんだろう。
来月の一時帰国中に、本当に何年ぶりかに田舎で数日を送る。
電話をかけて、お線香をあげたいと言ったら、ご遺族はあまりいい気持ちはしないだろう。私が彼らの立場だったらやっぱり「何を今さら」と思うかもしれない。
それでも。
今ある私を今ここに、最初の道標を示してくれたその人に、今こそ心からありがとうと言えるかもしれない。「少しずつですけれど、英語で音楽やっています」と報告できるかもしれない。
勇気を出して、まずは電話だ。帰国してからのやりたいことが、一つ増えた。