おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。
前々から読みたいと思っていた「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を、やっと図書館で借りることができました。
上巻だけ借りることができたので、まだ途中なのですが、「自然」についての興味深い説明がありました。
以前、このブログで自然について書いたものがあります。2016年12月30日のエントリー【会津野】日本人にとっての自由です。そこでは、布施松翁(1725-1784)による、自然とは全部「からくり」であるという機械論的宇宙論をご紹介しました。
さて、サピエンス全史では、「男女間の格差」という論のなかにこういう記述があります。
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実際には、「自然な」と「不自然な」という私たちの概念は、生物学からではなくキリスト教神学に由来する。「自然な」という言葉の神学的意味は、「自然を創造した神の意図に一致した」ということだ。キリスト教の神学者は、手足や器官のそれぞれが特定の目的を果たすことを意図して、神が人間の身体を造ったと主張する。もし私たちが、手足や器官を神が思い描いていた目的のために使えば、それは自然な活動だ。神の意図とは違う形で使えば、それは不自然だ。
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日本の機械的宇宙論では、存在するものはからくりで、その存在そのものが自然なんだという。
キリスト教では、神の意図に沿うものが自然なんだという。
逆説的に「不自然」を考えると、機械的宇宙論ではすでに存在していないものを造り上げるとそれは不自然で、キリスト教では神の意向に合わないものが不自然となる。
いつだかのSNSのやりとりで、「自然」という言葉は「nature」を日本語訳したもので、明治期にはじめて日本へ入ってきていたという説を聴いたことがあります。
現在の日本人は、自然と言えば「もともと存在しているもの」という感覚が強いと私は思いますが、今使っている「自然」という言葉が外国から輸入されたものならば、輸入された「神の意図に沿うもの」という言葉を機械的宇宙論に置き換えてしまったことになる。
今年から、我が宿の真ん前の田んぼで直播(直蒔き)による米作りが行われています。
この風景を見るお客様は、口々に「自然がきれいですね」とおっしゃる。
水田に種を蒔くことは、自然なように感じるけれど、いままで、苗を育て田植えすることを自然に感じていたので、直播は不自然に感じる。
神は、穀物栽培についての自然とは、どのような意図があったのだろうか。
自然に生息した植物を採集して食すことに留めておいた方が良かったのか、それとも、農耕社会で食料を育てることが意図に合う自然なのか。
この本では、農耕社会の勝者はヒトではなく、小麦であったとの考察も出てくる。それは、狩猟採集民が食料捕獲に費やしていた時間より、農耕民族が食料生産の労働に費やした時間の方が長く、幸福感は狩猟採集民の方が高かったとの指摘と、小麦の遺伝子複製が大成功したとのことによる。
だとすれば、神は、ヒトに多くの労働を求めることと、幸福な人生を過ごすことと、どちらの世界を創造したのだろうか。
神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする、カルヴァンの予定説のようなこともあるのだろうか。
ものすごく思考にふける本を読み始めてしまった。
「ちょっと不自然なんだよな~」、良く使う言葉だけど、これはなかなか難しい言葉なんですね。
今日も素敵な一日を過ごしましょう。
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