会津の重ちゃん日記

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戊辰150年 その4

2018-05-15 19:30:14 | 地域情報
2018年5月15日(火)晴 27.9℃~8.9℃
「幕末における会津藩」

 一般的には明治維新150年といっているが、会津では戊辰150年という。この機会に記念シンポジウム「それからの会津」や「鳥羽伏見の戦いと山川浩」の歴史講座、会津美里町と戊辰戦争」などの歴史講演会が開催されている。どれも興味のあるものばかりだ。また、新しい資料がでてきて、今まで読んだり聞いたりしていた幕末における会津藩のことがより深く知ることができた。まだまだ知りたいことがたくさんある。いろいろな講演会や展示会に出かけたり、新書を読んだりしたい。

1.京都守護職
尊王の会津がいつの間にか朝敵とは?納得いかない。
 京都の治安の乱れは、意図的に仕組まれていたのではないか。この治安維持のために会津が京都守護職を引き受けることになった。
どの藩も引きうけない。

 春嶽と慶喜はしつこく、手練手管を尽くして説得にかかった。
 そもそも、会津と京都は遠い。移動するだけでも大変なこと。
 こんな役目を絶対に引き受けてはいけないと、容保もわかっていた。
容保は顔面蒼白になって断りますが、会津藩の「家訓(かきん)」を持ち出された。
「君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」
(徳川将軍家に対しては、一心に忠義に励むこと。他藩と同程度の忠義ではいけない。もし徳川将軍家に対して逆らうような藩主がいれば、そのような者は、我が子孫ではない。そのような者に従ってはならない)
この家訓を制定したのは、江戸期の名君として名高い保科正之でした。
 生真面目が取り柄の容保としては、引き受けざるを得なくなったのである。 西郷頼母等家老が江戸の行った時には間に合わなかった。
 
2.財政的に余裕がない
会津藩は、蝦夷・樺太、江戸湾、房総の警備に駆り出されており、財政難に苦しんでいた。 
 そもそも海のない東北の藩では、財政改革にしても限られており、金に余裕などあるわけがない。
 京都では会津藩士は全体的に生真面目で、純朴でした。才略に長けた公卿や、西南諸藩の武士とやりあうことなど不得手としていた。
 それは、京都住民からの反応からも見て取れる。
  会津戦争の戦費を賄うために、西出丸では開戦後に貨幣を鋳造していたと、『会津戊辰戦史』に記録が残る。
 「城中西出丸に鋳造所を設け、該金工等をして二分金及び、其(そ)の他を鋳造せしめ、
 其の鋳造高の二分の一を上納せしめたるが、上納額六十萬両に達し、おおいに守城前後の金融を圓滑ならしむることを得たり」

 ※会津藩だけでなく幕末の偽造通貨は薩摩・長州・土佐をはじめとして新政府側の諸藩、仙台藩その他多くの藩で贋金を鋳造していた。

3.軍備と戦い方

  長州藩は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ4カ国の連合艦隊と戦った。下関戦争をしている。
  薩摩藩は、イギリスと薩英戦争をしている。
  西軍はこれらの戦争を経験し、武器、弾薬、軍艦などの必要性を知り、早くから準備し、軍事訓練をしていた。
  鳥羽伏見の戦いでは、人数では幕府側が多く、薩摩・長州・土佐を上回ってが、戦争の経験はない。装備は新式でなく数もそろわない。
  戦を仕掛けたものの会津藩などを中心とした寄せ集め、装備も古く大敗してしまった。
 その上十五代将軍松平慶喜は松平容保公を連れて江戸へ戻ってしまった。
  指揮官のいない寄せ集めの幕府軍は、統率された軍隊でないので一方的に敗北。敗北となる。
  孝明天皇崩御の後に、朝敵の薩摩や長州が官軍となり、会津藩・桑名藩などの幕府軍がなぜ朝敵とされたのだろうか。
 徳川御三家や親藩大名が恭順するものが多くなり、討幕の勅暑(偽?)や錦の御旗(密かに作る)がその後の戦いに役だった。

4.情報入手と分析・対策

  ・孝明天皇の崩御の後の朝廷。公家の動き、薩摩・長州・土佐の密約など。
   会津藩では秋月悌次郎が京都でその任にあたっていたが、藩内の事情で北海道へ左遷。薩摩の動きを知る手がかりを失ってしまった。
   秋月悌次郎については次回にアップします。  
  

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