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65歳からの起業!大成功をおさめたカーネル・サンダース、その人生を覗いてみよう!

2011年07月19日 | 事例の紹介

一冊の本から、偉大な人物の足跡をおってみよう!その本とは、

カーネル・サンダース―65歳から世界的企業を興した伝説の男

ハーランド・デーヴィッド・サンダースHarland David Sanders 1890年9月9日インディアナ州ヘンリービルに生まれる。

■7才 母子家庭で貧しかったカーネル。母が働くため、弟と妹の面倒をみなければならない。もちろん料理もつくる。初めて焼いたパンだったが、周囲の大人から大好評をえた。どうも調理について天性の才能があったようだ。

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■14才 母が再婚、義父との関係がまずくなり家出。農場を手伝いながら数年間過ごす。最終学歴は小学校卒となるが、通信教育で勉強はつづけた。

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■16才 年齢詐称で、軍に入隊。キューバ内乱を平定するため航路出兵する。しかし、キューバまで船酔がつづき体重は10kgも激減。そのうえ内乱はデマという話しに。

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■16~22才 思いが空回り、職を転々と変える。

・鉄道機関士。組合運動で目立ちすぎて会社からクビの通告。

・弁護士。アーカンソー州のリトルロックでのこと。訴訟相手が裁判官と裏取引をしていたため一旦は敗訴する。しかし、納得がいかず州議会に提訴しなおす。裁判に勝つには勝ったが、その後仕事がこなくなり廃業する。

・保険外交員。会社のトップセールスとなるも、仕事のやりかたで会社と揉めてしまう。

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■22~29才 さらに空転はつづき、転職の日々。

・フェリーボートを共同経営(インディアナ州ジェファソンビル)

・商工会で秘書となる。

・ガスランプを製造販売。しかし電気が普及し、全財産を失う。

・タイヤの営業マン。成績は常にトップ。しかし工場自体が倒産。

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■30才 乗用車による大量輸送時代が幕開け。ケンタッキー州でガソリンスタンドを始める。他にないサービスで評判をとる。経営はもちろん絶好調。

※おこなったとされる「サービス」は!

その1、営業時間は、朝5時開店深夜2時過ぎまで。

その2、かならず車の窓を拭いてあげる。(この頃、他ではやっていない)

その3、ラジエターの水も無料でチェック。(同上)

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■39才 大恐慌の影響で、最初のガソリンスタンドを閉じる。

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■40才 一人息子を病気でなくす。同じケンタッキー州の田舎町コービンに移住、もう一度ガソリンスタンドを始めた。

ガソリンを入れに来るお客にもっと喜んでもらうため、GSに隣接した物置(15畳)をでテーブル1つ椅子6脚の『サンダース・カフェ』を開く。調理から給仕まで一切をひとりでこなす。

料理は、どこにでもあるシンプルな「フライドチキン・豆・ハム」などを使ったものだが、味にこだわり丁寧に作られていたため、評判を呼んだ。気分をよくして、24時間営業をするようになる。そして、GSは手放し、カフェ業に専念しはじめた。

■40~45才 サンダース・カフェが順調に売り上げをのばす。”最高のサービスをする者こそが、最大の利益をえる”をスローガンにビジネスに励んだ。それが認められて、ケンタッキー州からカーネルという名誉称号をもらう。

■47才 「美味しい食事を、旅行者に提供する!」で大成功。今度は「安心して泊まれる場所を旅行者に提供する!」でモーターホテル”サンダース・コート”建てた。

・このモーテルでも、絶対的なサービスをおこなった。荷物の持運び・朝夕の新聞配達・雨天は傘をさして車まで出迎え、従業員はノーチップでよいなどなど。

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■49才 カフェとモーテルとも、火災ですべて失う。

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■51才 コービンに、手持ち資金のすべて使い、サンダース・カフェを再建。客席142だった。『ホテルは1日1回利用。だが、レストランなら3回利用してもらえる』

これが、カフェに資金を集中した理由。当時、これだけ大規模のレストランは米国でも珍しかった。カーネルの経営の基本コンセプトは次の3つ。「質:クオリティ(Q)」「サービス(S)」「清潔さ:クリーンネス(C)」。この「Q・S・C」は、今でもファーストフードの基本理念になっている。

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■62才 福祉・慈善事業にも力をいれた。

・頻繁に孤児院を訪問し、子供たちにお菓子をプレゼント (孤児院の窮状を知るや、全財産を超える金額の小切手を書いて寄付) ・アルコール依存症の人たちを、自分のホテルにを泊まらせ社会復帰をさせる

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 ※カーネル・サンダースとピート・ハーマン 【1954年6月撮影】 カーネルの身長が173cmだから、この写真でみると、ピートは190cm近くあるのだろう。

■65才 『レストランを破格の16万4千ドルで買い取りたい』という申し出があったが、カーネル断った。しかし、後で後悔することに。

ハイウェイ建設ラッシュで、高速道路75号線がコービンの町を迂回してしまう。客足はぱたっと止まり、サンダース・カフェはみるみる業績不振におちいる。

年金生活を考えたが、月額105ドルしかもらえないことで考えなおすことに。

徹底的に考えたぬいた末、フランチャイズの仕組みを思いつく。代理店となったレストランに、カーネル独自製法のフライドチキンを置いてもらう。そして、そのチキンが1ピース売れる毎に、売上の数パーセントをもらうという仕組みだった。ただし、秘伝のスパイスの製法だけは、秘密を守るという意味で、自らが調合したものを、代理店に渡すという方式。


※カーネルの考えたもう一つのポイント。

カーネルの知人で、数多くのレストランを経営していたピート・ハーマンへの売り込み。フライドチキン自体は、珍しい食べ物ではない。どこにでもあるモノ。だから、ピート本人に食べてもらわなくてはならない。ピートの自宅に押しかけ、調理させてもらうことを申しでた。了解してもらうも、4時間もかかってしまう。しかし、その味を一口で気にいることに。そして、ピーとは一言。「ケンタッキー・フライドチキンという名称にしよう」だった。もちろん、ピート・ハーマンが、このフランチャイズ契約の第一号となってくれた。

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■70才 全米各地をまわり、契約店舗数200を到達。

・代理店が手を抜いてカーネルとは違う製法で作っていた場合があった。そんなときは、すぐに徹底指導をおこなった。

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■73才 娘マーガレットの提案により、フライドチキン・テイクアウト専門店ができる。レストラン数は、600店に。そして、米国最大のフランチャイズチェーンとなる。

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■74才 1964年1月ジョン・ブラウン・ジュニア(その後ケンタッキー州知事に)とジャック・マーシーに、KFCの経営権をゆずる。ただし、ピート・ハーマンのテリトリーと、娘のテリトリーとしてフロリダ・カナダなどを除いた。ジョンとジャックは、辣腕をふるい、KFCをさらに大きく発展させた。

なお、売却額は200万ドル。そして生涯にわたり年間4万ドルの報酬。また、KFCビジネスの発展に携わるという条件付きだった。しかし、7年後の1971年、2億7千万ドルでペプシコに売却されている。

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■90才 アメリカンドリームの体現者として会社の広告塔となる。結局、トータル5つの大学から名誉学位が与えられる。通信教育で地道に勉強をつづけた結果だった。肺炎のため逝去したこの年、KFC加盟店は全世界48ヵ国、6,000店舗に広がっていた。

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SUMMARY  ※カーネルにとっての「ビジネスの肝」とは何だったのか?(1) 事業を、フランチャイズ一本に絞ったこと。(2) 65歳という年齢を苦にもせず、不屈の精神で粘りぬいた!(3) キーパーソンに果敢にアタック。ピート・ハーマンが最初で最大の支援者となる。(4) 過酷な全米行脚。しかも、加盟店の条件を高くして、誰でもOKにはしなかった。(5) 自分の発明品、つまり独自製法のフライドチキンに絶対の自信をもっていた。(6) ビジネスや人々にたいする真摯さ!(7)困ったときでも、自分のビジネスを安売りしない!という徹底した考え。

これらは、起業家にとってたいへん参考になる「ポリシー」ではないだろうか。最後にカーネルの残した金言を紹介しよう。

私はけっして特別な才能を持っていたわけでも、とくに運に恵まれていたわけでもない。

私がしてきたことは、毎日毎日、眼の前にある自分に与えられた役目、人を喜ばせること、人を勇気づけることに全力で取り組み、精一杯生きてきただけだ。

 

 

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