グリーンブレーカーズ by 高木肥料店

農業の現場の おはなしなどなど。

あれが旧知のさかなくん。

2015-12-15 15:25:02 | Weblog
あれが旧知のさかなくん。

目の前ひろがる錦江湾。そして、桜島。

そんな美しく雄大な風景を眺めることができるのが鹿児島県垂水にある 
「道の駅たるみず湯っ足り館」です。


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ここでの楽しみは、なんといっても桜島をゆっくり眺めることができる
こと。日本いちの長さがあるという足湯に浸かりながら、流れる時間と
ともに刻々とその色合いを変化させていく桜島の姿を鑑賞できるのは、
せいぜい1年にいちど来る程度のフォーリナーにとっては]まことに
至福のよろこびだといえます。

そんな湯っ足り館にくる、もうひとつの楽しみ。
それは さかなくんに 会えること。

目が大きく、笑顔が素敵で、元気がよく、もちろん海のことやサカナの
ことにくわしく、そしてなんといっても帽子がトレードマークのさかな
くん。

そんな 垂水のさかなくんのお姿は こちら ↓ 。











のののさかなくん。1

ちなみに垂水のさかなくん。

お仕事は、足湯の宣伝です。のののののさかなくん2
この施設・湯っ足り館が できたときから、がんばってます♪


◎ この湯っ足り館のまえを通って、まいにち居世神社に
  お参りされていたという、宇喜多秀家公。
  その秀家公も、毎日この風景を眺められていたのだろ
  思うと、感激ひとしお。

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg 「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜




サツマイモを伝えた甘藷翁(からいもおんじゃ)。

2015-12-09 18:41:30 | Weblog
サツマイモを伝えた甘藷翁(からいもおんじゃ)。

全国のサツマイモ生産量の約4割・・・といいますから年間約50万トン
を生産するという日本一のさつまいも王国、鹿児島県。 その鹿児島県で
甘藷翁(からいもおんじゃ)として尊敬されているのが前田利右衛門です。

このかたが、琉球(沖縄)から唐イモ(サツマイモ)を持ち帰り薩摩の国
での栽培を広めたといわれていますよ。

ときに1705年(宝永2年)のことでした。これ以降、薩摩で大規模栽
培に成功したサツマイモは、その後

 カライモ → リュウキュウイモ → そして サツマイモ

と、その呼び名を変えながら、日本の全国区の作物へと普及していったと
いうわけです。
ということは、この甘藷翁(からいもおんじゃ)なくして、その後の救荒
作物[飢饉時のありがたい食物]としてのサツマイモの活躍はなかったこ 
ととあいなります。

そう、いまに伝わる

  1713年  瀬戸内(大三島)における 下見吉十郎
  1715年  長崎(対馬)における 原田三郎右衛門
  1716年  京都における 島利兵衛
  1733年  島根(大森)における 井戸正明
  1734年  東京(江戸)における 青木昆陽

などの、サツマイモで有名な方々の活躍[サツマイモを救荒作物として各
チで普及に努めた
]もなかったはずなのです。そうなれば、1732年の
享保の飢饉・1782年の天明の飢饉・1832年の天保の飢饉の際には、
もっともっとたくさんの人命が失われていたにちがいありません。
そしてそれ以降も[第二次大戦前後にいたるまで]前田利右衛門は、ほん
とうにたくさんの日本人を飢えから救ったことになりますよね。

もちろん飢饉のときだけではありません。

もしなんらかの歴史のいたずらで、このときにサツマイモが伝わらなかっ
たと仮定すれば・・・ひょっとすると現代に生きるあなたが普段たべてい
るヤキイモやチップスはもとより、ボタモチや イモ餡〔あん〕、そして
あのおいしいスゥィートポテトはなかったかもしれない。
そうそう、あなたが秘蔵している大事な芋焼酎も、ひょっとすると存在し
なかったかもしれない/笑。

そう考えると、人の行動がもたらすその後の事象というものには、なかな
かに興味深いものがありますよね。

そしてその後の甘藷翁(からいもおんじゃ)。はからずも薩摩のみならず
日本の国の飢饉を救うことになった前田利右衛門。しかし 再び琉球に渡
るときに遭難して死亡
します。

この利右衛門遭難の話を聞いたとき、彼に感謝していた薩摩の領民はお金
を持ち寄り、供養堂を建てました[現在、鹿児島県山川町岡児ヶ水の徳光
とっこう神社とされています/
こちら]。また、この山川町内だけでなく、
その頌徳碑[感謝の意を刻んだ碑のこと]は薩摩半島だけでなく、大隅半
島の串良町など鹿児島県内の各地でも確認されているといいます。

ということで、今回はサツマイモ伝来に関係した薩摩の国の船乗りについ
てのおはなしでした。

◎ 新しい作物を導入し・結果的に産業化した 利右衛門さん。
  これは六次産業化の、ひとつの手本といえることかと。

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土ってホラーだなと認識させられる映画。

2015-12-08 00:08:31 | Weblog
土ってホラーだなと認識させられる映画。

土の組成土の持つ記憶力などの、いわゆる土の不思議をひとまとめ
にしている当ブログのカテゴリーのひとつ、『土ってホラー』編。

そんな土の持つ一面をあらためて再認識させられた映画・・・それが
2013年制作 の オージー映画 “モーガン・ブラザース”です。

100 Bloody Acres という原題からいえば、血ぬられた土地みた
いな
そんなかんじ。この原題が示すとうり、映画のジャンルでいえぱ
当然のことながら サイコ・ホラーというべき映画となります。

映画紹介の文章を借りれば

 新鮮な人体で有機肥料を作ろうとする異常な兄弟に捕まり、監禁さ
 れてしまった若者たちの運命を綴る。殺人鬼というわけではないの
 に、人の命より工場で作る肥料のことばかりを気にするゆがんだ
 モーガン兄弟の異常性や、血まみれ過ぎて笑いに転化するゴア描写
 などが際立つ作品だ。監督はこちらも兄弟で、本作が日本初お目見
 えとなるコリンとキャメロンのケアンズ兄弟。


と、そんな筋立てです。

魚粉や肉粉、そして肉骨粉も使用してきた歴史がある農業の歴史から
いえば[この映画はただただ唐突無形な筋立てな映画なのではなく
ある意味農業の持つダークな一面を捉えた映画なんだよなと、現場を
知る いち農業関係者としては思います。もちろん この映画ででて
くる肥料の材料が、ヒトであることを除けばであることはいうまでも
ありませんけれど。

ということで、日本語訳のついた予告篇は こちら 。
興味のあられるかた、よろしかったら。


◎ 撒かれる側の葛藤を描いたのがメイフィールドの怪人たち
  であるとすれば、こちらは 撒く側の葛藤を描いた映画と
  いえるのかも。 ちなみに このモーガン・ブラザース、
  シッチェス映画祭で、ミッドナイトエクストリーム部門グ
  ランプリに輝いたとのことです。

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田畑に骨をまきはじめた男。

2015-12-03 18:35:50 | Weblog
田畑に骨をまきはじめた男。

さて、ところで彼、仲覚兵衛は獣骨をやれば植物の生育が旺盛なることを
どうやって発見したのでしょう。

じつは商用で上った姫路あたりで、草むらに獣骨がころがっていたことと、
その付近の植物の生育が良かった事に気付いたことから、骨を使うという
土壌改良法に気づいたものといわれています。

いまでこそ畜産業が花盛りの日本ですが、江戸時代には表向きは肉食は禁
止[肉食が解禁されたのは1871年/明治4年]されていますから 当時
の日本では、そもそも獣骨はない。けれど関西地方のとくに姫路などは皮
革製品の産地であった関係で、たまたま獣骨があった。

その事実にきづいた観察力、そして応用力はたいしたものだと思います。

しかししかし、そんな薩摩においての仲覚兵衛の土壌改良事業は、当初か
ら上手く運んだではありません。なにせ田畑に砕いた骨を撒くわけという、
ある意味気味の悪い所業をしなければならないわけですから。それはたと
えば明治の時代になって、

 骨に含まれるリンサン分が植物の成長に欠かせない

という新しい西洋の知識が伝わり本格的に骨粉が製造されはじめた時期に
おいてすら、なかなか受け入れてもらえなかったという農業に関する記述
が残されているほどなのですから。そんななか明治維新から100年以上
も前の時代に覚兵衛さんはとりかかったのですからね。その計画が、いま
想像するいじょうに骨が折れた〔骨粉だけに/笑〕にちがいありません。

そういった改良事業を最初に手伝ってくれた農家の名前が残っていること
からも、それは容易に推察できます。そのあたりのことを当時の文献では

商用で訪れた大坂で、覚兵衛はひときわ雑草の生い茂っている場所に獣
骨が散乱しているのを見て、獣骨が肥料になるのではないかと思い立った。
そこで、獣骨を鹿児島へ持ち帰り、知覧の隣村である頴娃村の川畑市兵衛
という人物に頼み、菜種の栽培に試してもらったところ、ことのほか生育
がよかった。以来、大坂の皮革商人岸部屋六兵衛と契約し、大坂から船で
獣骨を鹿児島まで運ぶ商売を始めたのである。


というふうに、書き留めています。

こうした覚兵衛さんの熱意と努力、そしてその心意気に同調し・効果を確
認した農家さんたち、さらにはその効果を確認した薩摩藩の手助けもあり、
その後この事業は

大坂から獣骨を運んできた船は門之浦港で停泊し、そこで荷はハシケに
積みかえられて上流をさかのぼっていた。現在ハシケの「船着き場」と思
われる場所に船をつなぐメクイが残され、製造初期には左近太郎 ・のちに
はより効率のよい水車動力により、骨粉肥料が製造された。


という具合に、薩摩で秘密裏のうちに発展していったわけです。

幾多の困難をのりこえた先人のたゆみない努力には、敬意を表するばかり
であります。

余談ですが・・・このあと獣骨を砕くだけではなく、さらに骨を蒸すことで
より植物が養分を吸収しやすくする肥料製造技術なども開発されていくわけ
ですが、
そういった技術を知らない場合は、やはりこの製造現場は気味が悪いものだ
と思えます。そんな雰囲気がただよっている映画がありますよ。それが19
89年製作のジョー・ダンテ監督作品の『メイフィールドの怪人たち』です。

 郊外の住宅地、米国メイフィールド。気の会う隣人たちと仲良く暮らして
 いたトム・ハンクス演じる主人公。しかし、そんなところにヨーロッパか
 ら引っ越してきたらしい新しい隣人は、全然顔を見せてくれません。
 しかもその家からは、夜な夜な発せられる怪しい音、さらには異臭がただ
 よってくる。その家の様子を見に行った主人公と隣人達が、庭で見たもの
 ・・・それは人骨!?

なんていう筋立てです。 こちら 。

肉食が一般的におこなわれている現代ですら怖いのに]現在とちがって公
に肉食が禁止されていた時代のことを頭に入れたうえ で
肥料製造をおもいたった覚兵衛と、その当時のまわりの人々の反応などに興
味がおありの方は、ぜひいちど ご鑑賞を。


◎ こんな話も。 土の成分については こちら 。
  土ってホラー編は こちら 。

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薩摩を豊かにした男。

2015-12-01 09:46:13 | Weblog
薩摩を豊かにした男。


薩摩の国は、 もともと火山灰土譲のやせた土地であるために農作物生産
性の低い土地柄でした。しかし、その薩摩半島南部一帯の知覧・頴娃〔え
い〕地方を、菜種/ナタネの一大生産地に改良した男がいます。

それが知覧の覚兵衛〔かくべえ〕さん・・・江戸時代の薩摩藩知覧ご出身
の海運業を営む商人です。

彼はどうやって痩せた土地を改良したとおもわれますか?

答えはリンサンです。彼は火山灰土壌にリンサンを施用することで土地を
改良しました。その効果は、前述のようにめざましいもので、施用から約
10年後の天明6(1785)年、知覧領主であった島津久邦より 名字
帯刀を許されるほどの成功を収めます。

これ以降、晴れて覚兵衛さんは、仲覚兵衛/なかかくべえと名乗ることに
なったわけです。 
じつに、素晴らしい・・・施肥技術指導に携わるものにとって、尊敬の念
を抱かずにはいられない業績だとおもいます。

のの 覚兵衛記念碑
 こちらは ↑ 山川港のはたにある屋敷跡の船と波をあしらった記念碑  

さあ、そこで問題になるのが、覚兵衛がおこなった土壌改良の方法です。
彼はいったいどうやってリンサン分を効かしたのでしょう。

正解は獣骨です。
サコンタロを用いて獣骨を砕き、もって田畑に施したとされています。

その獣骨ですが、覚兵衛は 大坂渡邊村の皮革商人岸部屋六兵衛と契約し、
大坂から船で獣骨を薩摩の国まで運びました。さらには獣骨を運んだ帰り
荷で、薩摩の特産・農産物を上方に運んだといわれています。

船を使って、薩摩[南西諸島も含む]と上方を起点とした流通網を完成
させたわけです。九州内の各港や瀬戸内の港港にも物産を卸せるわけで
すし、この海運事業はいま考えてもなかなかおおがかりなものだといえ
ますよね。

土壌改良に成功して土地を豊かにしただけでなくダイナミックな海運業
をおこなった覚兵衛さん。 いゃぁ、あこがれますよ。

 現在の山川港と貿易の記念碑 →    山川港 記念碑 


◎ そして前回の謎。骨をつぶした工場です。なぜに人の
  こない川の上流に 隠されて作られていたのか・・・。
  じつは「骨を畑に撒くという土壌改良法」は、薩摩藩
  の門外不出の重要機密とされていたからだといいます。
  秘密の寒天工場の回は、こちら。 薩摩焼のはなしは、こちら

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