グリーンブレーカーズ by 高木肥料店

農業の現場の おはなしなどなど。

亜熱帯雨林のなかに。 七人塚。

2015-11-13 23:29:32 | Weblog
亜熱帯雨林のなかに。 七人塚。


秋晴れの午後だ というのに、誰もみかけない山道。

のの平野家1平野家5 平野家3

[垂水の豪族である平野家に匿われていた]宇喜多秀家公が住まわれ
ていたという屋敷あと を 訪ねようと、その山道をのぼっていくと、 
二股の分かれ道。

その標識の示す左手には・・・

のの龍か おおへび。

歩道の上に覆いかぶさるようなかたちで[龍か大蛇を連想させられま
したよ
]巨樹/ヤマモモの枝が空中に大きく張り出しており、
その枝をくぐったところに

のの平野家4

“七人塚” の解説板が ありました。

その解説を読み、案内の矢印どうりに左手に回り込んでいった先にあ
ったのが こちら。 七人塚 です。

のの平野家2

[失礼とは知りつつ]いっけんすると巨樹の根元に見えますが、こち
らは南九州に多いアコウという樹。

いろいろな鳥たちが実を食べることによって運ばれ、その種子がもと
もと生えていた樹木の上に落ちて発芽し、成長していく過程で気根を
伸ばし最終的にもともとあった木を覆い尽くし枯らしてしまうアコウ
の樹です。

そのアコウの樹[大人七人の両手を繋いでも抱えきれないような]に、
いまや飲み込まれてしまったかのようにしておられるのが、 この
 “七人塚” なのでしょう。よくよく拝見すれば、そのうねった気根
のなかに、飲み込まれた石塚の一部が見える気もします。

それにしてもの、この光景。

秀家公の屋敷あとが、天に向かってまっすぐ延びたスギの木が点在し
ていただけに[曲線と直線・暗と明・無機と有機・未分解と分解とい
ったような]なんとも対照的なたたずまいでありました。

そして静寂です。

南国の明るい亜熱帯の林のなかにいるはずなのに、トリの声ひとつし
ない静けさ。平野家の子孫の方々のお家も点在するはずだというのに、
ちょっとした別世界の観あり。

 ちなみにこちらは秀家公家臣のお墓 → 家臣のお墓

◎ この地にかくまわれているあいだ、七人塚に毎日御参り
  されていたという宇喜多秀家公。そのときの塚の近辺は
  いったいどんな風景だったのでしょう。

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染






秀家も 見ていたのかなと思った ホトトギス。

2015-11-13 11:52:23 | Weblog
秀家も 見ていたのかなと思った ホトトギス。


次回の資料として、10月25日分再掲載です。

 ↓

『秀家も 見ていたのかなと思った ホトトギス。』

錦江湾をはさんで鹿児島市の向かい側にある垂水市。その垂水市の
巨大なヘゴシダが自生しているような亜熱帯ともいえる牛根地区の
樹林の中で、

ヘゴシダ ← 3mはありそう  

まだまだ暑い気候のなか、 元気に開花しているホトドスのお花を
みました。

ののの ホトトギス

ホトトギスのお花の花言葉、それは『秘めた意志』『永遠の若さ』。

お花が咲いていたこの場所が、関ヶ原の合戦のあと薩摩に匿われて
いた 宇喜多秀家の住まわれていた場所であっただけに[なんだか
秀家の心情をあらわしているようで]とっても感慨深かったです。

秀家の御座所

家康の当時の年齢を考えれば、戦に負けたとはいえまだ20代後半
であった秀家だけに、心中期するものがあったにちがいない・・・
なんてことを勝手に思わずにはおられませんでした。

 垂水市側から見た桜島 ↓

のの桜島

元気の象徴ともいえる、あの錦江湾に浮かぶ活火山である桜島の姿
を朝な夕なに見ていれば、だれでもきっとさう思う気がして。

 → 竹中半兵衛のお墓編は こちら 。

◎ 関ヶ原から時代がくだって、大坂夏の陣のあとに流行っ
  たという、“花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田
  がつれて 退きも退いたり加護島へ” という俗謡。
  この謡は、秀家の鹿児島滞在も踏まえての希望的観測だ
  ったのでしょうね、きっと。

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