徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

引地峠処刑場跡と亀尾川口

2018-04-20 18:21:28 | 四境の役芸州口の戦い

藤田熊人無念の処刑場となった山代街道の引地峠処刑場跡と安芸境亀尾川口をピンポイント訪問。

広島在勤中、宮内から津田、津田から浅原経由秋掛へ。秋掛から県道134号線を本郷へ。本郷から河山へ出て須金(須万)から須々万、そして山陽側花岡・徳山へ。35年前頃のことだが仕事の関係で5、6回は通行している。当時は山代街道の名前も知らなかった。

今回事前調査で生じた疑念を現地民に聞いてみた。先ず、秋掛と秋中の違い。広島時代は「秋中」と呼んでいた。「浅原から秋中を抜けて本郷へ」と言った具合に。現地には秋中郵便局・秋中電話交換所があるのだ。秋掛の中心地が秋中と思っていたのだ。ところが「秋中」の字名はないことが判明。

明治22年町村制施行により掛村と北山村の区域をもって秋中村として発足。昭和30年賀見畑村と合併し美和村が発足。今では岩国市美和町秋掛。浅原も「あさはら」ではなく、「あさばら」が正解のようだ。四境の役要図や広域図に秋掛の中心地としてわざわざ「秋中」と表示したのだがこれは訂正しなければならない。

さて、本題に戻って

美和町から県道2号線を北上し秋掛の中心、本郷別れへ向かう。
(注:2018.04現在、本郷側は倒木のため進入不可)


 

秋掛の本郷別れ三叉路の道路標識と古びた道標。参考にしたHP「旧街道を歩く」の写真と比べると看板の青ペンキが剥げかけている。県道2号線をそのまま直進すれば亀尾川口関門を過ぎて広島県浅原・津田方面。こちらは引地峠訪問のあと寄ることに。道標に「此方ひろしま道 此方いわくに道 此方本郷道」。

目的の本郷方面134号線は斜め左。集落に入って直ぐに問題の秋中郵便局が右手にある。途中、中大田原で畑作業中のおばあさんと話をする。釜ケ原を過ぎて134号線から引地峠への分かれにある神社の名前を聞くが知らないという。中大田原にあるのは河内神社と正林坊(寺)だそうだ。大田原の中心集落が中大田原らしい。

釜ケ原を過ぎて134号線から旧道引地峠への分岐点で野良作業中の地元男性に出会う。付近に人家もないのにラッキーな出会い。一里塚・処刑場への旧道の入り口には標柱があるので直ぐにわかるそうだ。旧道分岐点左下に見える神社の名前を聞くが知らない。名前はないそうだ。秋祭りはやっているのに名前がないとは不思議だ。帰宅して地理院地図に「名無しの神社」と記載しようと思ったが、念のため各種Web地図を調べるが不明。岩国市の行政・防災MAPにも名前の記載が無い。最後にゼンリンの「いつもNAVI」にあった。「南宮」とある。峠の呼び名もこの辺では「ひきじとおげ」と呼ぶそうだ。秋掛の中心地に、今は廃校となった秋掛小学校校庭に「山代街道説明板」がある事を教えてもらった。帰りに寄ってみることに。

 
標柱は朽ちたものを埋め込んでいるため、往時の1/3よりも短い。「中ノ川・・・」としか読めない。往時は「中ノ川山一里塚入り口」であったはずだ。

 

134号線から引地峠への道は途中林道と重なっているため広い。旧道単独道への入り口標柱まで約400M。途中、3か所駐車Uターン可能な場所があるが一番奥の三つ目の広い場所に駐車。旧道入り口標柱は駐車した所から15M程進めば右手に見えてくる。 



 
          
林道から「中ノ川山一里塚入り口」案内標柱に従い、右へ約250M進む。最近伐採されたのか快適な道だ。唯、猪に出会ったら両側は笹薮なので逃げ場がない。杖を片手に進む。


       県指定史跡中ノ川山一里塚   当時の姿を留める貴重な塚山史跡。

一里塚から100M程度進めば、引地峠処刑場が見えてくる。


                                   引地峠処刑場跡

今回訪問の動機となった第ニ奇兵隊士藤田熊人は倉敷・浅尾騒動に斬首されるが、説明板の最後にある脱退騒動により処刑された山代出身者7名のうち、遊激軍隊士は2名。

四境の役150年祭の際、遊撃軍殉難関係者一覧を防長維新関係者要覧から作成したが、処刑された遊撃隊士34名の内、松岡仙次郎(玖珂郡獺越農記二郎倅 明治3.4.24玖珂郡本郷に誅伐梟首)・森田忠助(玖珂郡本郷村農平八二男 明治3.4.24山代本郷引地峠に誅伐梟首)の2名がここで処刑されている。ここは山代宰判の処刑場。勘場は本郷にあった。・・・合掌。

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やはり、ここは山口市青鯖の柊刑場「脱退諸士招魂碑」に刻まれた長三州の珠玉の撰文を紹介し、名も無き彼らの偉業と無念に鎮魂の念を捧げたい。

              「脱退諸士招魂碑撰文」

死は或いは太山(たいざん)よりも重く、或いは鴻毛より軽きも死は一(いつ)なり。
その趣くところは異なると雖もその悲しむべきは同じ。

尊攘の義興りてより、防長の士民奮って国事に殉じ、死に赴くこと、帰するが如き者、その幾百千なるを知らず。

不幸にして、その守るところを失し、その趨(おもむ)くところを誤り、罪辟に陥り以て斃るる者、またあげて数ふべからず。

その重きものは招魂の祭あり、封贈の典あり。その軽き者は烏鳶(うえん)に委ね、螻蟻(ろうぎ)に卑す。骨骼は荒草浅土に狼藉して収領せず。

その始は、皆奮って国事に殉ぜし者なり。その前功また没すべからず。

而るに人は徒に、その重き者を悲しんで、その軽き者を悲しむなし。

これ豈(あに)、仁人君子の心ならんや。

今、有志の者、残屍を原野の間に求め、集めてこれを葬り、石を立て以てこれを表す。

その知り得(う)べからざるもの、けだし多からん。今の収るところ、僅か十に一のみ。悲しいかな。

余、すなわち文を作りて石に勒(ろく)し、并(ならび)にこれを仁人君子に諗(つ)ぐ。


   明治癸巳(みずのとみ)    従五位 長炗(ちょうひかる)譔書

       
              (柊刑場跡の脱退諸士招魂碑)

  

 太刀洗の池跡は処刑場の少し先左手にある。

 

 「太刀洗いの池」から本郷側は雑木多くここから秋掛三叉路までUターンし、県道2号線を亀尾川へ向かう。

閑散とした亀尾川集落に入って県道が大きく蛇行しながら下る場所があるが、右手に標識がある。 旧街道はここを直角に横断しているらしい。「山代街道 安芸境関所跡入り口」・「周防御口 亀尾川御番所跡地入口」とある。旧道に這入って100M弱の所に御番所を務めた坪井家がある。丁度庭先に居た主人とラッキーな出会いを。

 

 

 
                 坪井家玄関門を過ぎて振り返り撮影 

坪井家を過ぎて右山裾の路傍に標柱が見えるが、あの道は大正時代に出来た農道で本来は旧道筋田の路肩に建てるべきものだそうだ。標柱の下側の田、即ち旧道筋右側の田が御番所跡だそうだ。ここから安芸境は目の前だが、途中笹が繁っているのでこれを突破しなければならない。今回はピンポイント訪問。帰宅して春の畑作業が待っている。地図上では浅原まで旧道筋が明確に確認できる。今回の予定はここで終了。 

  
          旧道筋右の田が関所跡。山裾路傍の法面に標柱が見える。    

  
                  標柱下側の田が御番所・関所跡

   
                   この先の藪を突破すれば国境                                                    

 

  

亀尾川へUターンの途中、立寄った平成13年廃校の秋掛小学校。校庭に立派な山代街道説明板が。秋掛の地名由来の説明も。

「秋掛」の地名は「その昔、ここ山代街道を通って周防の兵が安芸に駆けたことから名付けられたといわれている」とある。毛利元就厳島合戦の前哨戦となる明石黒折の「折敷畑合戦」を想起したが、その昔も幕末四境戦の時も同様に周防北部国境の要衝なのだなと思う。井上聞多も石州口から転じて亀尾川口から津田・明石方面へ向かたのだろう。ところで、この説明板誰に対する説明板なのか?出来れば街道筋に欲しいと思った。釜ケ原で野良作業の男性に出会ってなかったら間違いなく素通りしていただろう。

  

ところで校舎の大時計が気になる。5時7分を指したままである。この瞬間に廃校となったのか。電源を切ったのは校長先生か。教頭か?電源を切るときの思いはいかばかりであったか。そんなことを思いながらシャッターを。

 

帰りの美和へ下る車中でフト思う。最近のイベントか何かで使われ、あの時間に電源を切ったのだ。それに間違いない。苦笑いしながら運転していると左路肩下に何やら看板らしきものが目をかすめる。説明板ではなかったか?暫く走って気になるのでUターン。





盃状穴は神社や祠で見たことはあるが、こんなところにポツンとあるのは珍しい。


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