徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

「家久君上京日記」 (一) 【串木野出立~長門赤間関 】

2014-06-02 22:39:42 | 家久君上京日記

「家久君上京日記」全文を八区間に分け、原文とルート図で紹介します。 

*(二)・(三)等続きは、最下段「広告」の下からリンク、または「カテゴリー」から。

時代背景として、島津家久が伊勢参りのため串木野城を立つのが天正三年(1575)二月。信長は二年前に将軍足利義昭を追放し河内をほぼ平定、敵対の摂津石山本願寺を攻撃するのは天正三年四月十四日。家久はこの攻撃から帰陣中の信長馬上居眠り行軍を京都で見学することになります。信長が長條の戦いで南下する武田勝頼を撃破するのは同年五月二十一日。天正四年毛利氏が織田氏と絶交、毛利水軍が織田水軍を破り大阪石山本願寺に兵糧搬入するのは天正四年七月のことで、播磨の兵庫・西宮から陸行、京都経由伊勢参りを計画するには丁度良い時期であったと思われます。将軍義昭追放後とはいえ、西国戦国大名諸氏への影響はまだ健在であり、京都に長期滞在し近江坂本城明智光秀の歓待を受けるのも織田信長の力量と政治状況を把握することが大きな目的の一つであったと思われます。
この後、豊後大友宗麟が日向に侵攻、末弟家久日向高城に入り、島津四兄弟が高城川に大友七万の大軍を撃破、薩摩・大隅・日向三州を統一し、大友宗麟衰退となるのは天正六年十一月。これにより大友氏は秀吉を頼り、秀吉九州征伐の契機となります。島津氏九州平定を目指し、島原半島東の沖田畷で野戦を得意とする家久が筑後の龍造寺氏の大軍を殲滅するのは天正十二年三月。また、これらに先立ち反逆陶晴賢傀儡大内義長自刃し、毛利元就防長経略が完了するのは弘治三年(1557)四月のことです。

当初の予定は山陽道防長路街道歩きの参考にしてもらうため、赤間関から宮島付近まで全文記載し、防長路前後の九州、京都、その他は必要な部分のみ抽出記載し、ルート図のみ全区間掲載の予定でしたが、史料価値の高い箇所や興味ある箇所が多いため、全区間なるべく全文・原文記載のこととしました。
なお、この時期の仮名使いは濁点を打たないので、これに留意して読めば、より判読しやすくなります。当方で作成した外字漢字・仮名は、gif 画像のものもあり、黒色、または鼠色表示されています。文中、下線箇所は注釈を容易・省略するために入れています。

今回、参考となるサイトを色々検索したのですが、九州往路以外について掲載したサイトは無いようです。なお、九州往路については「佐土原城 遠侍間」、京都では「<論説>京都の島津家久:『中書家久公御上京日記』著者白井忠功 CiNii論文PDFオープンアクセスが詳しいので検索してみてください。

〔 引用文献 〕

・鹿児島県史料 旧記雑録後編 : 家久君上京日記

凡例:「 」は原文のママ :(* )は原文注釈  :( )・(?)及び(注・)は当方で記入
   :傍線は注意喚起、あるいは注釈省略のため当方で引いています。
   :外字の、またはGIFのKanzi_sate01a = さて   

            
       ------------ 「家久君上京日記」 ----------- 

 九州往路については、 Ysankaku サイト:「佐土原城 遠侍間(さどわらじょう  とおざむらいのま)を一部引用させてもらいました。特に地名・各城主居城と詳細なルート図が非常に役立ちました。詳細はサイトを参照して下さい。

天正三年(1575)二月七日、当時二十九歳の島津四兄弟末弟・島津家久は当主長兄の島津義久(島津貴久の長子)に島津家が薩摩・大隅・日向三州を治めているのは神仏の御加護による賜者であり、その御礼のため伊勢神宮、愛宕山その他諸社参詣と休暇の許可を得、串木野に帰り同行者をつのる。当然屈強のものを人選したと思われるが、大勢は我も我もと希望したとおもわれ、必ずしも同行者100余名全員が屈強のものではなかったと思われる。全員が巡礼姿(注:中世は笈摺を羽織るのが一般的)で、領内途中で脇差を献上されてもいるが基本的に武器は携行していないとおもう。その方がむしろ安全に通行できる。
道中は、「先達」の案内で通行する。2/28に肥後(熊本県)と筑後(福岡県南部)の境である「南関」(なんかん・みなみのせき)で、足止めさせられ、50名ほどは通過を許可され、残り5、60名ほどが許可が出ず途方に暮れるが、「南覚坊」という修業僧か山法師らしき者が色々と取り計らい全員無事通行できる。
この南覚坊が「先達」と思われ、後日にも数回出てくるところがある。同行者100余名の根拠は、このときの日記に書かれた人数による。途中、京都まで同行者の一部が先行したり、引き返す記載がないので、この人数で京都まで旅をしたものと思われる。京都滞在は約50日に及ぶが、京都滞在半ばに、同行してきた約30名を国許へ返す。

*「先達」は現在でいうところの現地(薩摩)ツアーコンダクターで、「御師」(おし・伊勢の場合はおんし)と契約した現地薩摩の代理者(店)。これは全国的に各地にいて、伊勢参りを勧奨したり、道中の道案内や宿泊先を手配する。「御師」は伊勢神宮と契約した「伊勢神宮旅行代理店」で伊勢神宮の代理者として伊勢で一行の到着を待ち、参詣や御札の段取り等一切を執り行う。

(注)室町時代の巡礼装束
着物の上に袖の無い笈摺(おいずり・おいずる)を着て、背中に背負った(おい:着物や食器・仏具等を入れる箱)で背中や着物が擦れるのを防ぐ。笈摺には「三十三所巡礼」等の巡礼目的が書かれた白い布を付けている。笈摺は黒色が多く見られる。近世になると白装束が主流になる。(要検索:「第三章 巡礼の作法」)

                 
「三十二番職人歌合繪 ・笈摺:黒色」      「洛中洛外図屏風 ・笈摺:黒色」        ・「粉河寺参詣曼荼羅図 ・笈摺:黒と赤色」
*上図が掲載されたPDF文献「
原題名と作者」が不詳です。著作権侵害に該当する場合は、直ちに削除します。
 「日本近世的西國巡禮之旅 ・ 著者:小林幸夫・林薏如」とおもわれるが、文献一覧表記が中国語のため詳細不詳。   
                  


  

「家久君上京日記」

「天正三年二月七日ヨリ
  同年七月廿日ニ至ル」

 「今度中務太輔家久上洛の事、薩隈日弓箭無隙時分、抽忠節、太主三州を治給ふ叓、一篇に御神慮の得無疑故、大神宮・愛宕山其外諸佛諸神爲可遂參詣、天正三年二月七日、屋形様(島津義久)御暇を申、同八日ニ於串木野町門出、自其支度様Kanzihe01ablack 以用意、廿日ニ旅行仕候事、」

(注)要旨前述。

<串木野出立>

 ・2/20 「一 廿日、午の尅(12時頃)串木野(薩摩郡)を立、麓に柴屋をかまへ、老母妻子なともくたらせたまひ酒肴、それより薩摩山の出口ニ菱衆(*「本ノマゝ」)柴屋有、新納右衛門佐より脇刀あつかり候、それよりかいもんの前渡口に平佐(ひらさ)の衆酒持參、やかて河舟拾艘あまりにて、新田の鳥居の前ニおし渡処に、東郷衆のすゝ數をしらす、食籠様Kanzihe01ablackにて酒宴有、それより參宮、於社頭ニ三献、下向ニ於正宮寺ニこつけ參候、酒數遍、又鳥居の前より舟にて、川せうようのことくうたひのゝしり醉乱、おかしき歌なと申けるに、其外あまた有、高江(薩摩郡)の麓に山田信介ひさしのことくに構、湯つけありて酒數遍、又久見崎の津に膳介とへる者の所へ一宿、猶Kanzihe01ablackつとひ來る樽肴あまりくたKanzihe01ablackしけれは、前略(*ママ)、」

(注)串木野:薩摩国薩摩郡。近世は日置郡に属す。
(注)串木野出立、麓に「柴屋」(仮の小屋)をかまえ、老母妻子を呼び寄せ出発の酒肴(酒宴)、その先薩摩山の出口では菱刈衆の柴屋があった、隈城衆の柴屋では脇差を預かった。それより開門の渡し場に到着すると平左衆が酒を持ってきた。すぐに河舟拾艘あまりで川内川を渡って新田神社鳥居前に上陸すると、ここでも「東郷衆のすゝ(酒を入れた錫製の容器)數をしらす、食籠様Kanzihe01ablackにて酒宴有、」と記す。
その後新田神社に参詣し神前で三献(神酒三献)を頂いた。新田神社鳥居前から河舟に乗り酔いにまかせて歌を吟じながら下った。高江では山田新介が用意した休憩所でお茶漬けを食べながら酒を少し飲んだ。久見崎(ぐみざき)の津の膳介とへる者の所へ一宿、そこに届けられる酒や肴が余りに多かったので記述を省略すると記すほどの酒三昧壮行歓迎である。

・2/21  「一 廿一日、巳の刻(10時頃)ニくミさき(*久見崎)(薩摩郡)を立候へハ、玄佐(横山玄佐)御歌あそはし候、其返歌共申置、舟本(船宿)にて酒宴様Kanzihe01ablackにて、Kanzi_sate01a (さて)其日の未尅(14時頃)に阿久根(出水郡)へ着、市別當の所へ一宿する処に、松本長門介子酒持參、亦其地頭阿久根播广守(や)牧山なといへる人ゝ、すゝをたつさへ立いり候、」

(注)御歌を頂いたので、こちらからも返歌を詠んでお返しした。

<島津義虎に歓待され、黒之瀬戸まで船に同乗し送られる>

・2/22 「一 廿二日、順風なくて舟出ならす、さていたつらにハいかゝとて、別枝越後守なと談合候て一折(ひとさし)仕、その晩に松本長門介の所へ頻に來たるへく申候へは、其分にて酒宴様Kanzihe01ablack、馬なとをも得させ候、此方よりも馬遣候、それより歸候へは、義虎私宅へ入御候て、夜更迄酒宴、」

(注)舞を一折(ひとさし)舞った。
(注)松本長門介宅で馬を贈られたので、こちらからも御礼に馬を与えた。
(注)島津義虎:島津家の分家・薩州家の第6代当主で薩摩出水の領主。島津一門では宗家当主義久に次ぐ地位にあり、出水・高城・水引・山野など3万1905石を領した。天正12年3月家久の龍造寺氏との「沖田畷の戦い」に従軍し、軍功を挙げる。(wiki)

・2/23 「一 廿三日、義虎へ馬進(馬を進物)候、それゟ(より)巳尅(10時頃)に舟出候へハ、義虎も舟めされ、酒宴様Kanzihe01ablackにて、脇刀・とうふく(道服)あつかり候、それよりくろ(*黒)の渡といへる所迄同舟候、其夜ハ田の浦(肥後芦北郡)といへる所に船かゝり、」

(注)道服:道中服・巡礼服
(注)黒の渡:薩摩出水郡黒之瀬戸(阿久根市脇本黒之瀬戸) 

   

<薩摩から肥後に入り、松橋から北上>

当時の肥後は、対立する日向伊東氏と縁戚関係のある蒲池(かまち)氏を中心に諸將は大友氏配下の地。

・2/24 「一 廿四日、肥後田の浦の町(肥後葦北郡)へ着し、それゟ(より)酉の刻(18時頃)に出船、」  

・2/25 「一 廿五日の明方ゟ、松はせ(まつばせ・松橋:肥後宇土郡)といへる浦に着舟、それより陸ちに移行にて、左の方に宇土殿(宇土名和氏:宇土顕孝)の城みえ侍り、猶行て右方に隈のしやう(隈庄)とのゝ城(隈庄城:甲斐親教)有、 Kanzi_sate01a (さて)舞の江(廻江:益城郡)といへる渡り(浜戸川)にて神も扇もしほKanzihe01ablackと渡賃とられ候、それより大渡(緑川)といへる所、亦川尻(飽田郡)といへる所にて、関とてとられ、それより肥後の宰廣瀬右京亮の子源三郎といへる者の所へ一宿、」

(注)宇土殿・宇土古城:伯耆名和氏から続く宇土名和氏6代名和顕孝(宇土顕孝・通称宇土殿):鎌倉末期に菊池氏支流の宇土氏によって築城されたといわれる。南北朝時代には南朝方の拠点となるが、菊池氏内紛の混乱に乗じて八代を本拠としていた伯耆名和氏・名和顕忠に攻略され、以後は名和氏の居城となった。豊臣秀吉九州征伐に際して名和氏は島津氏に味方したため改易。小西行長が入城して、肥後南半分24万石を領する。天正17年(1589)城の東側に宇土城を築き廃城。古城と呼ばれる。*宇土殿と家久は京で数回歌会で出会うことになる。

(注)廻江の渡りと大渡り:益城郡廻江から浜戸川を渡り、緑川・緑川支流で形成される広い中洲を渡れば飽田郡川尻。益城郡は江戸期になって、上・下に分割される。

・2/26 「一 廿六日、辰の尅(8時頃)に打立、しやう(城)殿の城(隈本城・城 親冬)一見、Kanzi_sate01a末の尅(14時頃)に鹿子木(かのこぎ:飽田郡)といへる町に出徊よふ処に、大野次部太夫(忠宗)殿追着候て同心すといへとも、程もなく又別行に、右方にかうし(*合志)殿・あかほし(赤星)とのの城(菊池城)とて遠くみえ侍り、それよりほたての門、清水左近といへる者の所へ一宿、」

(注)隈本城:城親冬(ちかふゆ)居城:城氏は菊池一族肥後国人で、城親冬の代に隈本城主。子の親賢の代は大友氏衰退により島津氏と手を結び龍造寺氏に対抗。豊臣秀吉九州征伐後佐々成政に城を明け渡す。

(注)大野忠宗:島津家武將。薩州分家で島津義久家老。天正19年誅殺される。理由不明。この時期重臣クラスの諸国往来が活発なようである。

<山鹿温泉に入る>
・2/27 「一 廿七日、辰刻に打立、やかて今藤(山本郡)といへる村を過、千破(熊本市:山本郡千藤付近)の学頭とて木場三介・しうと(舅)の藤左衛門なと、一類の心たち人あり(出会った)、さて行て山賀(*鹿)といへる町(山鹿市:山鹿郡山鹿)に着けれは、町中に出湯有、夫に入候て亦出行ほとに、平野の門池田右京といへるものゝ所へ一宿、」

(注)学頭:学事や有識故実を統轄する者。あるいは大寺院の学事を統括する僧、学頭職で別当の次位。ここは、この地区の学識ある代表者、長とその舅(しゅうと)。    

<筑後に入る>

南関(肥後・筑後の国境)で一旦止められるが、「先達」らしき南覚坊の取り計らいで全員通過。

・2/28 「一 廿八日、天氣あしくて未尅(14時頃)晴れたりけれハ、それより打立行程に、南の関(肥後玉名郡)を通行に、関とてとゝめられしかと、我ゝ五十人ほとは過通りしに、跡に五六十人程とゝめられ、各爲方なくありしかとも、南覚坊校量として各まかりとをる、其夜は北の関(筑後山門郡)小市別當の所に一宿、」

(注)要旨前述。
(注)別当:後述。・3/2参照。

<関守を打ちのめし通過>

筑後は島津氏と敵対の日向伊東氏と縁戚関係のある大友氏配下蒲池氏支配地で、加えて私的な関所が多いところで、通行料を私的に徴収する者が多かった。これを避けるため暗いうちに北関を出発し、迂回して進むと右手に蒲池(かまち)殿の城(柳川城)があり、更に進むと、また関所があったので通過しようとしたが、関守が厳しく通過できそうになかった。この無理難題、法外な通行料を要求する関守に同行の者たちが怒り、打ちのめす。

・2/29 「一 廿九日、関をよくへきために(関を避けるために)夜を籠て宿を出行に、関五六程をよきてへんとを行に、右方にかまち(*蒲池)殿の城(柳川城)有、亦行て関有、関守餘きひしくいかり無理をはたらく間、召烈(列)たる族とも、関守を打なやまし、此の方ハおのKanzihe01ablack 何事なく通り、それより筑後の最町を打過、高良山圓輪坊(久留米市:御井郡御井)へ一宿、」

(注)蒲池鎮漣(かまちしげなみ):筑後柳川を主城とする大友氏配下の戦国大名。「鎮」は大友義鎮(宗麟)の偏諱。「高城川の戦い」(耳川の戦い)で大友氏大敗北のあと、大友氏から離反し龍造寺氏に接近するが天正9年筑後領有化を志向する龍造寺氏に誅殺される。当時の筑後諸將は大友氏配下。

(注)高良山(こうらさん):山頂に高良山奥院、中腹に高良大社があり、中世には攝末社や社家人を含め、宗教的、政治的な勢力になっていた。円輪坊に一宿。翌日参詣。

(注)薩摩隼人のお坊ちゃん本人はこんな事にも「何事なく通り」と、涼しい顔をしている。後にも、顔を「打つ」場面があるのですが、「打ちなやまし」の表現はこれでもかとボコボコにしたようです。こののち高良山(こうらさん・久留米市御井町)円輪坊に一宿。翌日參詣。

・3/1 「三月朔日、高良山の惣神へ參、それより坊中一見し歸候得者、座主の房とて五人酒を持参、則引物、」

<筑前に入る>

・3/2 「一 二日、辰の刻(8時頃)に打立行は、町末にて別當くし(くじ:公事:税金・通行税)とてとられ候、それより隈代(神代:筑後御井郡)の渡ちん(筑後川)、又草野殿の関、さて行は、右方ニ草野殿の城(草野鎮永:竹井城)有、猶行はほしの(*星野)とのゝ城有、爰(そこ)に北野の天神とて大社有、参候て通り行は、三原(筑後御原郡)といへる村に追つき、北野のやくしよくし(公事:通行税)とて、是も草野とのよりとられ候、さてそれより行て、筑前の内みな(*三奈)木名板屋の門源五郎といへる者の所に一宿、」

(注)別当:「元来は、律令制において本官のある者がの役を兼ねて当たる職号の意」。代表的なものに、平安時代検非違使庁別当(長官)・蔵人所別当(長官)。のち親王家・摂関家などの政所別当。のちに官司の長官一般を指すようになる。
東大寺、興福寺、四天王寺などの大寺院においては、寺務を統括する長官に相当する僧職。寺院によっては延暦寺の「座主」、東寺の「長者」などの「別当」以外の役職名を用いる。また、公卿など僧侶身分で無い者が別当に就任した場合には「俗別当」と呼ばれることもある。寺社領などを管理・統括することから武士が任命されることも多い。
なお、鎌倉幕府の行政機関である政所・侍所の長官を「別当」と称するのも、それらの機関が本来初代将軍源頼朝の家政機関が転じて鎌倉幕府の行政機関になったことに由来している。(wiki等)

(注)草野鎮永(竹井城):草野氏は紀姓高木氏を祖とし、藤原北家折衝・関白藤原道隆の後裔と称した九州の豪族で、同族として高木・菊池・竜造寺・上妻・北野氏らが名を連ねる。藤原鎌足より15代孫の藤原文時大宰府に流され、文時の子文貞(文定)より高木姓を名乗る。長寛2年(1164)、高木宗貞の子永経は肥前差が郡高木荘から筑後山本郡草野荘吉木に移住し竹井城を築き草野氏を称す。やがて、源頼朝の挙兵に永経は菊池氏らと源氏方に味方し文治2年(1186)源頼朝から御井・御原・山本など3千町歩を賜る。のち元弘・建武の内乱に際し、草野永久は肥後の菊池・阿蘇氏らと宮方として九州に逃れてきた足利尊氏軍と戦うが大敗する。南北朝時代には菊池氏と九州南朝懐良親王を奉じるが、九州探題として派遣された今川了俊(貞世)によって九州南朝も衰退に向かい、明徳3年(1392)和議が成立する。室町時代後半になって、草野氏当主鎮永は天正5年(1577)発心嶽城を築き之を居城とする。翌6年高城川の戦いで大友軍が壊滅的敗北すると大友宗麟は豊臣秀吉を頼り、天正15年(1587)秀吉の島津討伐では島津氏に味方し発心嶽城に拠って戦うが降伏。秀吉九州平定後の仕置に反発、発心嶽城に立て篭もるが小早川秀包に攻められ下山し謀られ自害。このとき子の永広は鍋島氏に質としてあったため一命をながらえ、のち鍋島氏家臣となる。この九州仕置(戦後処理)に反発、一揆し誅殺されるのは草野鎮永の他に豊前の城井宇都宮氏がいる。

(注)星野長門守鎮種:天正6年(1578)、高城川の戦いで日向高城を包囲する大友軍から矢文を送り、大友宗麟暴政を理由に島津氏に内応。

(注)三原:筑後御原郡大刀洗町本郷付近
(注)三奈木の板屋:筑前下座郡(しもあさくらのこおり・げざぐん)板屋・福岡県朝倉市板屋

・3/3 「一 三日、こし(*小石)原の町(福岡県:筑前下座郡東峰村小石原)彦左衛門所へ一宿、」

・3/4 「一 四日、彦山(英彦山:筑前上座郡)へ參詣仕ましき覚悟なりしかとも、態使僧馬二疋さゝせられ候而、頻にとありし間、不慮ニ參詣候、Kanzi_sate01a政所より道迄御酒持参、山臥(山伏)五六人迎に來たられ候、それより政所へ着、種ゝの會尺、風呂なとも有、是よりも神物なと候、」

(注)英彦山(彦山:ひこさん)は筑前上座郡(かみあさくらのこおり・じょうざぐん)と豊前の境に位置し、日本三大修験山として数えられ、最盛期には数千名の僧兵を擁し大名に匹敵する兵力を保持していた。豊前佐々木氏が領主。天正9年10月敵対する大友義統(よしむね:宗麟の嫡男)の焼き討ちを受け、多くの坊舎を消失し衰退。
(注)もとより英彦山(ひこさん)に参拝の予定で進んでいたが、使いの僧が2頭の馬を連れて来て、頻りに乗るよう勧めるので予定より早く参詣することとなった。訪問先で風呂に入るのは、当時最高のもてなし。

・3/5 「一 五日、山(英彦山)上仕、各ゝも參候へハ、行者堂ニ嶺入の衆つとめなされ候、おのKanzihe01ablackかひ(ほら貝)をふきつれ侍るをきゝ、心も天かけるやうにて歸り、さて坊中一見し、般若坊といへるに類なきひさくら(緋桜)あり、」

<豊前に入る>

・3/6 「一 六日、政所ゟ太刀一腰、同種ゝの祝物拝領、それより打立候得者、又馬二疋にてほはしら(*帆柱)(豊前仲津郡)といへる所迄おくられ候、送の者へ何やらんとらせ、さて其夜ハ紀伊(*城井)の内うら墻(内垣)といへる村に一宿、あるしハ常心といへる禪門、」

(注)内垣:福岡県みやこ町:豊前仲津郡犀川内垣(さいがわウチガキ)。近代になって京都郡。 ・城井(きい)氏(宇都宮氏)支配下の内垣といへる村に一宿。

・3/7 「一 七日、紀伊殿といへる人の隠居所一見、それより行ハ、左の方ニ馬のたけとて長野殿の城(馬ケ岳城)有、さて伊摩井(今井)の町矢野次郎五郎といへる者の所へ一宿、夜入て辻雅樂助といへる人、すゝ・食籠(じきろう)調候て、慶雲といへる禪門同心にて語りに來たり候、」

(注)紀伊殿隠居所:城井谷城主城井鎮房の父、城井長房。城井氏旧姓は宇都宮氏。秀吉九州征伐に従うが、九州征伐完了後、黒田孝高(よしたか:官兵衛・如水)を豊前6郡の領主に配置換えし、城井鎮房を伊予今治へ転封したが、これに不服の鎮房は一揆し、黒田孝高により誅殺される。
(注)馬ケ岳城:行橋市:豊前京都郡(みやこのこおり・ぐん)津積にあって豊前京都平野の要衝として、大友・大内・毛利氏争奪の舞台となる。天正年間の城主は長野氏で天正14年秀吉九州征伐に服す。同15年7月黒田孝高入封によりこれを一時居城とするが、同年中津城を築き支城とする。
(注)今井:行橋市:豊前京都郡今井
(注)食籠(じきろう):食べ物を盛る丸形、または角形の漆器。食べ物の贈り物や香の入れ物に用い、重ね食籠もある。辻雅楽助(まさのすけ?)は不詳。

(注)サイト:「佐土原城 遠侍間」によれば、三年後大友氏日向侵攻の際、「高城川の戦い」に大友氏配下参戦の城井・高良山座主・星野氏らは、日向高城入城の島津家久に寝返る。

・3/8 「一 八日、みの嶋(蓑島の城・京都郡)といへる所一見、」

(注)蓑島城:行橋市・豊前京都郡蓑島・天文23年(1554)大内家臣杉隆重は大友氏を頼って豊前に移り蓑島城を築いて居城とした。現在は陸続きであるが当時は島であった。天正7年(1579)隆重の子重吉が城主のとき、馬ケ岳城主長野助盛と宝山城主安東市次郎によって攻められ落城。

(注)豊前は大内氏から続く毛利・大友氏支配下紛争の地。随所に「一見」とあるは、足を運んだ「見学」。どの程度の見学であったかは不明。招かれ、内部をつぶさに見る見学もあるが、外観をつぶさに見て内部を推察する「一見」が多かったのでは? 通過中に眺める城等は、「左、右に見て」或いは「遠くに見て」等、と記されている。

・3/9 「一 九日、午刻(12時頃)に伊广井を打立、未程にかんた(*苅田)(京都郡)の町を打過、曽祢(豊前企救郡:きくのごおり・ぐん)といへる村權童次郎といへるいやしからぬニ一宿、」

      

<豊前小倉から船出し長門赤間関に到着>             

・3/10 「一 十日、辰の尅(8時頃)に打立、そ祢(曽根:豊前企救郡)の町を打過、未程にこくら(*小倉)(企救郡)の町ニ着、高橋(鑑種:あきたね)殿の館一見し、それより舟をしたし行は、右方に赤坂といへる村有、つゝきて根ふたの松とて有、是は平家代よりの松也、今まてみとり立叓なし、其次に大裏(*里)といへる町有、亦こもり(*小森)江といへる村、次に口の瀬とて有、其ならひに文字の城(企救郡門司城:企救半島古城山頂部)有、亦左方ニ福嶋(*彦島)(長門豊東郡)、其邊(あたり)にりう船あまたすな(貝?)とるとみえたり、猶上るに、長門の内赤まか関なとゝ て有、亦櫻尾(?不明)とて有、其湊に舟をつけ、関の町なとの町一見し、其夜は関の町左守(佐甲・さこう)といへる者の所に一宿、」 

(注)高橋鑑種(あきたね):小倉城主・大友氏庶流。陶晴賢大内氏謀反のあと大内義隆の後を継いだ大内義長(大友宗麟の弟、大友晴英)に従い大内氏家臣となるが、毛利元就防長経略、大内義長自刃のとき豊後に出向いていて危機を回避する。筑前における大友氏の軍事・行政面を統括するが、毛利元就豊前侵攻に際し調略に応じ大友宗麟に反旗を翻したが、のち大友・毛利氏和睦するも筑前岩屋城・寶満城の二城を領有を認められる。秋月種実の反乱に乗じて再び大友宗麟に反旗するも敗れて所領と高橋家の名跡を奪われ筑前を追放された鑑種は毛利元就の下に逃れ小倉城主となり、秋月種実の子元種を養子とし、高城川の戦いで大友宗麟が島津義久に大敗北すると、再度、盟友秋月種実と大友氏打倒に挙兵するも途中病死する。

(注)文字の城(門司城):豊前企救郡(きくのこおり・ぐん)企救半島(和布刈半島)古城山の門司城はひろく「モンジの城」といわれていた。古くは建長7年(1255)に藤原親房が豊前代官職として入城し門司(もんじ)氏を名乗る。戦国時代豊前争奪をめぐる攻防が続き、大内氏の城として存続するが、陶晴賢の大内氏謀反により毛利元就防長経略を経て、大友氏と毛利氏の協約により豊前は大友領となった。永禄元年(1558)毛利氏は小早川隆景を総大将として門司城を攻略。永禄4年(1561)大友義鎮(宗麟)は奪回を試みるも敗戦、出家して宗麟と号す。大友氏は将軍足利義昭を頼り尼子氏との戦いが激化していた毛利氏と和睦が成立するが、門司城は引き続き毛利氏の勢力下となった。

(注)長門豊東郡(ぶんとうぐん):竹崎から赤間関・小月まで、中世戦国時代から江戸初期までの汎称、私郡名。のち豊東・豊西・豊田は統合し豊浦郡。

(注)赤まか関なと:赤間関南部(なべ:南部・南部の町)・如何に九州最果ての家久君でも当時の赤間関を「赤間関とかいへる」とはいわないであろう。

(注)櫻尾(不詳):赤間関の湊中央部は現在の唐戸(唐戸湾)。入り江は江戸期以降順次埋め立てられている。櫻尾は不明。文面から、着船場が複数在ったようだ。無理やり推察するなら湾内の中央から西端付近にかけて北前船が出入りした南部町に近い着船場になるかもしれない。中央から東端の阿弥陀寺町に近い湊はどちらかと言えば漁港。上陸して南部の町を見学している。

(注)佐甲(さこう)氏:戦国期赤間関の有力商人。江戸期赤間関の大年寄りで、商人等一切を取り仕切る。赤間関南部町にあって西御本陣。ちなみに東の御本陣伊藤氏は東端の阿弥陀寺町にあって、坂本龍馬とお龍は伊藤家の離れを自然堂(じねんどう)と名付け、ここに住居を構える。また、平戸のオランダ商館長は毎年の江戸参観の折り東西御本陣を交互に利用する。

(注)赤間関(唐戸湾)の中央部直近には、南部城(現下関市役所)があった筈だが記載が無い。ここは毛利元就防長攻略後とはいえ、戦略的要衝赤間関の城として健在であったはず。何故か山陽道防長路(長門・周防)における城郭の記載は周防熊毛郡から同玖珂郡に入って周防国道前の三尾城のみである。大内氏滅亡後居城主を失った城や廃城等について記載する意味が無いと思ったか?

 

         --------次頁・ (二)【長門赤間関~安藝宮島】へ続く  -------

注:「家久君上京日記」全文は、当初「OCNブログ人」に全行程を三区間に分け掲載していたのですが、「2014/11/30・OCNブログサービス終了」のため「gooブログ」に移行し、字数制限等から八区間に変更しました。(2014/11/25:記) 
   

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2 コメント

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楽しく読ませて頂きました。私は塩飽出身で蹴鞠楽... (塩飽海賊)
2014-10-27 15:13:31
楽しく読ませて頂きました。私は塩飽出身で蹴鞠楽しく読ませて頂きました。薩摩と塩飽は関係深く塩飽島戦記にも薩摩の事を書かせて頂きました。又、幕末昇平丸公儀献上後は塩飽の人々が操船しました。戊辰戦争では非常に複雑でありました。幕末の幕府海軍を支えました。  咸臨丸子孫の会 会員
お便り有り難うございました。HP読ませていただ... (徒然草独歩)
2014-10-29 12:06:04
お便り有り難うございました。HP読ませていただきました。
塩飽について、塩飽諸島・本島・咸臨丸乗組員しか知識が無かった者にはいい勉強になりました。塩飽の歴史は奥深いのですね。

小生の郷里は岡山市内ですが、旭川の京橋から小豆島土庄と豊島・手島・本島(経由丸亀?)行きの船が出ていました。小学校4・5年の夏の臨海学校は香川県豊島で、旭川の右岸でこれらの船が行き来するのを眺めていたものです。夏にはデッキ一杯に客が乗り傾いていて、スピーカーから少女期の美空ひばりや岡晴男?の歌が大きく聞こえていました。「高砂丸」という名前は今でも覚えています。今回の作業で、これらのことを思い出し、懐かしく思っています。

今回の作業は、田舎に住む関係もありwwwをフルに活用し、不明な地名や念押し確認のため、一部の部署に電話確認したのですが、電話応対者にもよるので確言できませんが、「家久君上京日記」をご存知ない方が多かったのは意外でした。事前にルートその他について詳細に検証されているのは、出雲と石見の某市と丸亀・京都のみのようで、このため当日の日記の他に前後の日記についても何回も読み、電話が長くなって閉口しました。今後、専門家による注釈・ルート検証の記事がWeb化されることを望む者ですが、一方でwwwの素晴らしさを実感した次第です。
拡大地図やwiki等での確認等を含め、複数のWindowsを切り替えながらの並行作業が無かったら、今回の机上作業は不可能であったと思います。

長くなりましたが、今後もよろしくお願いします。    徒然草独歩




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