徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

大田・絵堂戦役150年と長登銅山文化交流館

2015-04-08 17:31:44 | 歴史散策

掲載が逆になったが、先般、3月21日K氏の案内で小野の毛利秀就誕生地財満氏館跡を訪問したが、その前に、田・絵堂戦役150周年を迎えた大田・絵堂(おおだ・えどう)の戦跡を訪問。

秋吉台はカメラ片手に過去何回も訪問しているが、旧美東町大田を訪れるのは初めて。

先ず、第一目的の吉田東行庵の高杉雅子の墓(「周防国の街道・古道一人旅」:通化寺参照)を写真撮影し、吉田から伊佐(美祢市)経由、大田に着いたのは丁度12時。K氏に白石正一郎・赤禰武人らの墓や奇兵隊陣屋跡を案内したため、予定を1時間余り超過。先ず彼の案内で、長登銅山文化交流館」を訪れる。館内では「大田・絵堂戦役150周年記念特別展覧会」が開催されている。

          

さすが、会社先輩OBK氏は山口県出身だけに県内の地勢に詳しく段取りがいい。段取りがいいというよりは、K氏の母方は絵堂開戦で戦死した財満新三郎の血縁で、父方は古くは柳井の片野村出身の郷士(大内氏の配下として入封:詳細不詳)で、第二奇兵隊士による「倉敷騒動」に連座し処刑される花岡出身片野 武の直系末裔のため、大田・絵堂の戦いにも特別の思い入れがあり、館内特別展示についてもご存知だったようで、初めて当地を訪問する当方に対し、大田・絵堂戦跡訪問前にここで知識を得ておいた方がいいと判断したようだ。入館料は300円。  

館内に入ると、館員が「先ずビデオを見てから館内見学した方がベター」という。「今回は時間的に、大田・絵堂戦がメインなので、銅山関係はまたの機会に」。このあと各戦跡を巡り、小野の毛利秀就生誕地財満氏館跡にも寄らねばならないのだ。「10分程度にまとめた大田絵堂戦関係もありますよ」。ビデオを見てから館内見学することにした。初めて現地を訪れる者には大正解であった。

  

今回の特別展示では、絵堂開戦に当たり萩藩政府軍本陣に届けられた正義派諸隊の「戦書」 (県立山口博物館蔵)が期間限定展示されている。「弾痕の残る戸棚板戸(川上口戦)」「街道松に打ち込まれた銃弾(呑水垰戦)」も特別展示のようだ。その他に厚保の来嶋又兵衛や赤間関街道関連パネルも展示され、ここで予備知識を得てから各戦跡を訪問すればより充実した史跡探訪が出来るよう配意されている。 


  

館内で一番の収穫は、今回、「大田・絵堂戦役150周年記念」として新たに作成された「大田・絵堂戦役巡検ガイドブック」をもらったことだ。後日、150周年記念事業実行委員会事務局池田館長から得た情報によると、150周年記念事業として2年前から企画し、文献・現地再調査、看板類の整備・新増設実施に1年、「ガイドブック」作成は10ケ月要したそうだ。従って中身が充実していて、「大田・絵堂戦」の全貌はもちろん、美祢郡域内赤間関街道(中道筋)の各宿場と大田・絵堂戦との関係も詳細地図とともに紹介されている。

館内のメイン展示である「国史跡・長登銅山跡」関係は時間の関係もあり、ゆっくり見ることが出来なかったが、後日改めて訪問することにして、先ず大田の諸隊本陣であった金麗社へ向かう。 

実は、帰宅して「巡検ガイドブック」を熟読精査してみると、赤村の正岸寺や萩野隊士墓・藤井邸跡・大木津・川上口の戦跡や撰鋒隊隊士の墓等をもらしていたことが判明。、次の小野に向かうためあたふたと現地を巡ったためか、写真撮影をもらしたところまである。このままではブログ掲載できない。
このため1週間後3/28再訪問。以下は「巡検ガイドブック」による延2日、延約5時間の大田絵堂戦跡訪問記です。

ここから、「巡検ガイドブック」により、主な戦跡をめぐります。

大田の諸隊本営金麗社鳥居の手前には、「奇兵隊寄進灯篭」がある。「四境の役・小倉戦争」に勝利し、奇兵隊が小倉延命寺の燈篭を戦利品として持ち帰り、慶応3年7月に寄進したもの。 

          

諸隊本営は開戦時大田の光明寺であったが、のち大田勘場を経て金麗社(きんれいしゃ)を本陣とした。光明寺は軍事病院として使われる。

金麗社境内には、大田絵堂戦が明治維新に果たした意義を論じた正三位公爵毛利元昭篆額になる明治39年建立の「大田邑碑(おおだそんぴ)」と大正2年建立の大田・絵堂の戦いに散った諸隊側隊士17名を祀る「殉難十七士之碑」がある。

                   

「殉難十七士之碑」は大正2年11月、「慶応乙丑大田絵堂之役殉難志士五十年祭」が当時の美祢郡長の主催で執行され、翌年建立された。
碑文(訓読)冒頭は、「明治維新の成敗は、防長二州の向背に繋がり、防長二州の向背は、繪堂大田の一戦に決す。(・・・中略・・・)」。 文末に、「一身を君に捧ぐ 十有七士、奮闘力戦して 維新起つところ 木骨朽ちること無し 忠義は死なず。 美祢の山 大田の水 峩々洋々として 永く青史に映ゆ
大正三年一月  長門小月従六位勲六等坂本恊撰   防府河野淳一 篆額」とある。

         
                金麗社境内の「殉難十七士之碑」

 「大田・絵堂戦役150周年」を記念し、新たに境内に「大田・絵堂戦役戦没者顕彰碑」が建てられた。正義派諸隊だけでなく萩政府軍隊士も顕彰されている。
「平成二十七年二月二十五日
大田・絵堂戦役百五十周年記念事業実行委員会」
とある。

戦闘月日・戦場別に戦没隊士の氏名が網羅され、のちの戦傷死者も標記されているため、彼我の戦闘状況が推察できる。

高森出身、奇兵隊斥候世木騎騄は正月十日 川上口戦で戦死とある。

・戦死
  諸隊17名  萩政府軍28名

・戦傷死
  諸隊  5名  萩政府軍  3名

・合計  諸隊22名  萩政府軍31名

各戦没者一覧は、田村哲夫編「防長維新関係者要覧」山口県地方史学会・1969年による。(長登銅山文化交流館池田館長に照会)

 

    

金麗社駐車場の南、大田小学校運動場南西角地の「美祢宰判大田勘場跡」からさらに徒歩で南に約200M下ると、開戦当初諸隊本陣であった真宗「光明寺」の小路を挟んだ西境内に諸隊戦没者十七士の「官修墳墓」がある。明治36年11月贈位のとき11基が官修墳墓として合葬されていたが、のち大正2年呑水垰等町内各地に散在していた6基をまとめ合葬された。
玉垣に囲まれた墳墓の左から贈正五位世木騎騄同、天宮慎太郎 ・同、藤村太郎の3基。これから右回りで氏名のみ刻まれた墓が14基。計17基ある。

奇兵隊斥候世木騎騄(騎六:注)は高森・下久原村出身(注:「周防国街道・古道一人旅」参照)で、正月10日午後の川上口の激戦で戦死。
「贈正五位世木騎騄墓」の左側面には、「贈位 明治三十六年十一月十二日」、右側面に「時 慶應元乙丑正月十日 於川上村戰死 享年三十一」とある。(後述、資料では享年26)

奇兵隊陣場奉行天宮慎太郎と同小隊指令藤村太郎の2名は正月7日未明絵堂開戦に勝利のあと、明け方敵敗残兵を索敵中狙撃されて戦死。 奇兵隊は開戦当初から幹部2名を失うことになる。

 
    光明寺境内の「官修墳墓」    (左)贈正五位世木騎騄墓・(右)同、天宮慎太郎墓

(注世木騎騄はGoogleブックスの宮城賢秀著「世木一族」(廣済堂出版)によれば、古くは今川氏末裔世鬼氏(のち世木と改名:萩藩閥閲録)。Googleブックスは検索事項関連の頁だけで全頁閲覧できないため、文中から部分的にしか判読推察しか出来ないが、丹波国船井郡上世木村出身世木政宜(まさかつ)の子孫のうち、幕末期京師の守衛に就いていた織田信雄(のぶかつ)13代後裔に当たる丹波氷上郡柏原藩当主織田信民に仕えていたものもいる。世木氏一族は、元来「忍び」に長け、京師や備後品冶郡や安芸高田郡・豊田郡の各地にも散在する。
長州世木氏は、毛利秀就のとき、肥後から萩に移り足軽から中間として毛利氏に仕えるが、後の推移は不詳未確認。

幕末期の下久原村出身世木騎騄は、当地(岩国市周東町下久原)では士族として知られるので、半農の中間だったか。長州藩では中間(卒席班)だが、奇兵隊では斥候(補助幹部)で要職。
高杉晋作の京都脱藩の際には同行、身辺警固をの傍ら京師の情勢を探る。大田・絵堂の戦いでは「山口の吉富藤兵衛決起し、井上聞多救出(幽囚療養開放・鴻城軍総裁として迎える意か?)のため、藤兵衛が井上の元に使いをやる10日早朝晋作の元を離れ単身で大田へ向かう。配下の下久原村の若者5名がこれを見送る。川上口まで進撃していた俗論派兵士約20名と遭遇、4名の射撃手全員を倒すが、最後は40名の敵に囲まれ、世木製7連発改造小銃2丁を敵に奪われるのを恐れ、これを暴発破壊するがこのため負傷、最後は斬り合いとなり単身戦死。顔の見分けのつかない遺骸となっていた戦死者のなかから騎騄の遺骸を発見するのは高杉晋作。墓は大田村山根の日照山地蔵院境内にある(注:のち光明寺官修墳墓)。」とある。
 
これは、断片的に判読したものを要約しているので、誤判断記載となっている箇所もあるかも知れないのでご注意。興味のある方は一読を。一金1700円也。Kindle版では800円。

「贈正五位世木君之碑」は、高森上市(岩国市周東町下久原)の、椙杜八幡宮参道入り口真向かい東50M付近、旧山陽道南側にある。ここは、説明看板もないので何も知らない旅人が通り過ぎる。地元の住民にも忘れられている。何とかしなければなるまい。(「周防国の街道・古道一人旅」の高森参照。)

大田村山根の臨済宗地蔵院諸隊機械置場・奇兵隊本陣として使われた。

 

大田をあとにして、絵堂に向かう。

途中、長登(ながのぼり)の下ノ垰にある「歴史の道百選赤間関街道」の説明看板・道標に立寄る。

赤間関街道・中道筋は明木宿から絵堂宿、長登村に入って、同下ノ垰、ここから西に旧街道を進み、土地ケ峠(栃ケ峠)を過ぎて、長登村台山経由、秋吉宿・河原宿・伊佐市・四郎ケ原宿・吉田宿へと向う。

下ノ垰道標には「左 大田 ・右せきみち」とあり、ここは大田方面への近道間道分岐点であるが、これより西300Mの土地ケ垰十字路から南へ大田勘場経由船木・刈屋に到る船木街道、北方面が横野峠、赤村経由三隅方面に向う瀬戸崎街道であった。 

  

 
      下ノ垰から街道西300Mの土地ケ垰十字路(右、瀬戸崎街道赤村方面)

      


開戦までの諸隊の主な動き。

元冶元年(1864)12月16日未明、高杉晋作は河瀬安四郎(石川小五郎)ら再建遊撃軍残士60名と伊藤率いる力士隊の一部(注)を指揮し、五卿仮泊の功山寺においてクーデターを決起し、下関の本藩直轄領新地の会所を襲撃する。12月17日晋作功山寺挙兵に反対不参加の山縣奇兵隊ら諸隊は、先ず三条西・四条の二卿を護衛し、萩を目指して長府を出発、吉田宿に二泊、19日伊佐の大庄屋池田邸に到着する。二卿の目的は藩主敬親に面会し、俗論派政務員の罷免・野山獄中の正義派政務員の釈放・幕府監察に対処するため諸隊隊士一時離散令(雲隠れ)に対する駐屯所の確保の三件を要求するためであった。萩城下に幕府監察使がいたため二卿は面会をあきらめ長府に帰るが、晋作クーデター成功により、諸隊はこれに同調する事となる。
諸隊を率いる奇兵隊の山県狂介は伊佐宿大年寄・庄屋村上邸、陣場奉行の天宮慎太郎は市中の西原邸に、その外の隊員は市中の宿、その他に分散止宿する。29日には諸隊の銃隊等主力は河原宿に移動し、ここで首脳会議を開く。後発の御盾隊も長府を出発。

(注:力士隊47名のうち伊藤に従い晋作功山寺挙兵に参加したのは10数名で、挙兵後間もなく原ら29名は離脱して萩へ向かい粟屋帯刀の指揮下に正義派諸隊と戦うことになる。晋作率いる河瀬安四郎遊撃軍残士60名や伊藤は小倉口集結の幕府征長軍に備え下関に留まる。また、「白石正一郎日記」16日に、「今昼より諸隊不残伊佐へ転陣」とあり、ふいの晋作・河瀬・伊藤らの新地会所襲撃は、同じ松門山県有朋にとって生涯の一代痛恨事となり、赤禰武人への恨みは誰よりも強かったであろう。「奇兵隊日記」18日に晋作挙兵の記事がのるが、諸隊が新地会所襲撃成功を知るのは、早くても16日午前中であったろう。諸隊の行動予定を知った晋作が先手を打った可能性もあるとおもうのだが...。)

一方、萩俗論派政府の鎮静軍は、12月26日粟屋帯刀を将として撰鋒隊(正規軍)1200名が萩城下を出発。28日絵堂宿庄屋藤井邸をを本陣とし、別働隊の財満新三郎がが一ツ橋に駐留する。27日には鎮静軍の児玉若狭軍1200名が赤間関街道・北浦筋を三隅に進軍。鎮静軍本隊は、毛利宣次郎を総奉行として1400名が28日明木に本営を構えた。

年末から正月かけて、萩政府は伊佐の諸隊に数度「武器返納」の使者を送るが、山県はこれに妥協したそぶりを見せながら猶予期限を求め、「猶予期限をいつまで藩が待てるか正月3日までに回答するよう求め、回答ない場合は進撃する」と微妙な言い方をする。これを使者や藩は「隊を解散する」と早合点する。
翌元冶2年(慶応元年・1865)正月3日になっても、安心した萩からは何も言ってこない。使者が来たのは6日であった。六日夜半、諸隊は使者を伊佐郊外の下村宅で接待し、この間、天宮慎太郎を斥候指令とする奇兵隊2隊・南園隊・膺懲隊・八幡隊約200が五ツ時(20時頃)河原宿を出発し、絵堂へ向けて進軍開始。赤間関街道・中道筋を北進、潜行。出合った人は立木に縛り付けた。

 

①正月6日夜半:絵堂開戦

元冶2年(慶応元年:1865)正月6日夜半、諸隊斥候隊は秋吉台下を潜行、7日八ツ時(2時)頃絵堂宿の西はずれに到着。中村・田中の2名が馬で萩政府軍本陣藤井邸(現長広酒店)戦書を届け、帰隊すると同時に野戦砲を合図に小銃の一斉射撃を開始。諸隊士50~60人位が、宿の西口から東口まで市中を銃撃しながら絵堂を制圧した。萩政府軍は奇襲に慌て応戦しながら一ツ橋(絵堂の明木方向はずれ)及び赤村まで後退。明け方別働隊の財満新三郎が甲冑装束馬で駆けつけるも、東口を守備していた南園隊竹本らに狙撃され即死。諸隊側も、斥候隊長天宮慎太郎、奇兵隊小隊指令藤村太郎が残兵を捜索中に狙撃されて戦死。養泉寺の政府軍側の萩野隊は中立で参戦しなかった。萩野隊宿陣地養泉寺の門前の松に「萩野隊」の提灯を掲げ、諸隊は襲撃を避けたといわれる。

戦死者数: ・諸隊3名  ・萩政府軍5名 (金麗社境内の戦没者顕彰碑による。)

絵堂開戦の地である西口付近には、毛利家16代当主毛利元昭筆になる「慶応乙丑 絵堂戦跡記念碑」と説明看板がある。また、絵堂宿藩政府軍本陣藤井邸(のち酒屋柳井邸・跡地は現長広酒店)の弾痕跡が残る門は、平成17年当地に移設されている。柳井邸門は現、長広酒店南側玄関に隣接する空き地付近にあった。
また、西口付近の旧道は戦跡記念碑のある場所より少し西裏付近山沿いにあった。
 

      

      
            移設された本陣藤井邸玄関門 ・右の門柱に弾痕が残る 

絵堂戦に勝利のあと、諸隊は野戦砲の威嚇などを行いながら、篝火を焚いて宿を守備したが絵堂の地は狭く防戦に地形的不利なため、8日大田へ転進する。

〇7日:諸隊本隊は大田へ陣を進めた。本陣を光明寺に置き(後に勘場、金麗社と変遷)、大田の守備は、大木津口(おおこつ)に奇兵隊約200名、長登口(ながのぼり)に八幡隊約60名・膺懲隊約40名、大平・赤坂に南園隊約50名を布陣し、金麗社横の大田川土手から野戦砲を絶え間なく発砲したという。 
 同日、御楯隊隊長大田市之充・駒井政五郎・野村靖之助ら50名は小郡代官所を支配下、庄屋林勇蔵らと資金借用と兵糧米調達を約束し、後方支援策・兵站をいち早く確立させる。


②正月10日午前:長登の戦い

四ツ時(10時頃)、7日に参戦しなかった萩野隊を先頭に、撰鋒隊が絵堂から押し寄せる。諸隊は鷹懲隊・八幡隊・南園隊・奇兵隊の槍隊砲隊が応戦するも、巳の刻(10時)から午ノ刻(12時)まで激戦となり、長登字刀祢まで後退する。萩政府軍は12時頃民家6件・毘沙門堂に放火して退却した。

戦死者数: ・諸隊1名  ・萩政府軍2名

          


③正月10日午後:大木津・川上口の激戦

  

萩政府軍は、午後再び力士隊・撰鋒隊で大挙して大木津口へ攻め込む。奇兵隊参謀三好軍太郎らは二ノ小野で防戦するも支え切れず鉄菱を撒いて後退。殿ケ浴に仕掛けた地雷も導火線が切れたため発火しなかった。藩府軍は川上口へ進撃、さらに南下し多くの民家がある原地域へ、さらに大田川が大きく右へ迂回している地点、新井手原に進出。

本陣金麗社の山県狂介は銃声の近づくのを知り、騎乗にて前線を廻り敗兵を激励、奇兵隊別隊を投入し諸隊の応援を求める。奇兵隊第二銃隊隊長湯浅祥之助・伍長鳥尾・南野・滋野らは部下とともに金麗社の御幣を首にかけ幣振坂(へいふりさか)を一挙に駆け下り敵の側面を突く。この側面急襲に敵は陣容乱れ、八幡隊・南園隊の救援もあり態勢は逆転する。敵は殿ケ浴の民家7軒を焼き敗退する。奇兵隊斥候世木騎騄戦死。

幣振坂は後につけられた名。友永から川上への近道で、大田川に迫る山と後方の山の間の峠道の30度傾斜の下り坂。この川上口の戦いは「幣振坂の戦い」ともいわれ、正義派、俗論派天下分け目の戦いであった。山県有朋の思い出深い場所となる。川上橋を渡って「幣振坂」付近手前に「幣振坂」説明看板が平成27年3月新たに設置されている。川上で二人の老人を訪ね幣振坂ルートを訊ねたが、このうち一名の老人が坂の名前をご存じなかったのにはビックリ。

 

戦死者数:大木津戦   ・諸隊2名  ・萩政府軍1名
       川上口戦   ・諸隊8名  ・萩政府軍5名

川上と後述呑水垰の各戦跡には、「慶応乙丑 大田絵堂戦跡記念碑」がある。これらは絵堂の記念碑を含め大正15年の建立で毛利家16代当主毛利元昭公爵の筆である。

川上の「大田絵堂戦跡記念碑」から南100M大田川沿い路傍に撰鋒隊士の墓「案内標識」があり、道路から東約20Mの畑に墓碑2基と説明看板がある。墓碑には撰鋒隊士水津岩之充・駒井小源太の刻銘がある。水津・駒井両名は説明看板によれば、萩藩八組士。八組は大組・馬回組ともいい、藩士中核の階層。
近接民家の話では、この付近の旧川筋・旧道筋は約50M東山手側で、墓もその付近にあったが礎石付近が雨風で荒れて傾斜、供養するにも不便なため民家に近い現位置に移設されている。

 
           各写真左に大田川対岸の幣振坂付近の先端がみえる。  

大木津の激戦地、二ノ小野の森重家裏山には力士隊士若稲荷勝蔵の墓がある。橋を渡った路傍に案内標識があり、右折し川沿いを約30M北上し、山道を約150M入った所にある。案内標識には「右10M(?)で左に山へ入る。」とある。この墓碑は150周年記念事業へ向けての諸作業を知った森重家によって平成26年(2014)12月実行委員会事務局に知らされ、150年ぶりに日の目を見ることとなった。

  
                      力士隊士若稲荷勝蔵の墓

〇11日:萩政府軍数百人が長登口へ押し寄せ、諸隊側から奇兵・八幡・南園・膺懲隊が応戦し小規模な戦いとなる。
〇12日:小郡に居た御楯隊大田市之進ら約50名が大田に帰る。 三隅の児玉若狭軍、嘉満村に進出、綾木九瀬原へ出ようとするが領民に制止され秋吉村に機械を預け赤植山に転進。
〇13日高杉晋作を総督とする河瀬安四郎率いる遊撃隊は吉田から秋吉へ着き宿泊。児玉軍が預けていた機械・火薬を奪い大田本陣へ運ぶ。翌14日大田へ移動。

  
④正月14日:呑水垰の激戦

早朝6時頃、藩政府軍は萩野隊を先頭に約500名が長登口から攻め寄せ、長登口守備の膺懲隊約40名は7時頃より刀祢まで退却し、10時頃には呑水垰(のみずのたお)を守備していた八幡隊(堀真五郎外約60名)と合流し大平堤(赤坂堤)の土手を楯にして防戦。諸隊の形勢不利を見かねて、後方赤迫を守備していた南園隊の佐々木男也外約30名が12時頃より小中山に登り大砲を引き上げ側面から逆襲。また、大木津口守備の奇兵隊一番小隊第二銃隊が糸谷から上がり側面攻撃する。このため、敵の陣形は乱れ、この日は雪まじりの風雨のなかの戦闘で火縄銃の政府軍は15時頃総崩れとなり赤村の本営へ向けて敗走する。

    
              呑水垰の戦跡記念碑と説明看板 

 

 
          大正時代と現在の大平堤(赤坂堤):下部側(大田側)堤土手から写す 

南北に連続して二つある大・小の堤のうち、下部側(大田村赤坂側)の大きな堤の土手から写す。大正時代の写真には、下部側の大きな堤の左に街道と街道松や正面奥に上部側堤の土手が見える。現在、左に見える街道・道松付近は大きな檜木や雑木の陰になって見えない。下部側堤の土手は諸隊側の楯となった。戦跡記念碑付近の拡幅された街道は、往時に比べ1、2M低くなっている。


この日、高杉晋作を総督に仰ぎ河瀬安四郎を副督とする遊撃軍残士が赤間関街道を進軍し、秋吉台下で児玉軍と遭遇し銃撃戦となり、胡麻畠に到ったとき、戦いは終わっていた。
15日にかけて遊撃軍残士約300名が大田に到着。南園隊約50名は佐々並の守備へ転陣した。

「大木津・川上口」と「呑水垰」の戦いは、絵堂開戦に敗走し面目を潰された粟屋帯刀率いる藩正規軍は汚名挽回に躍起となり士気は高く、進撃・勇戦し、守勢の諸隊は苦戦するのだが、結果的に新式銃と散兵戦術に長けた民兵諸隊に敗退し、戦いの趨勢はほぼ決着する。

戦死者数: ・諸隊1名  ・萩政府軍10名

(参考)四境戦のときの遊撃軍隊士行進の図(部分:高森・正連寺所蔵) 
   画幅: 横280cm  縦49cm (注:掲載スペース上、最後列の前部分7名カット。)
 
正蓮寺分駐の狙撃隊32名。先頭は鼓手(若年者)と旗手。鼓手は後列にもみられる。
騎乗姿3人は順に、
・中川吉之輔(武州忍浪士)・八谷弥四郎(長州大組士)・新坂小太郎(土佐浪士:中隊司令士)
騎乗者は烏帽子に陣羽織。隊士は筒袖羽織に惣髪を後に束ね、白鉢巻。黒脚絆に草鞋。
(詳細:「周防国の街道古道一人旅」・通化寺の項参照)  
    

 

⑤正月16日:赤村の夜襲

新たに後続援軍として参戦した高杉晋作らの遊撃隊を主力に、夕七ツ時(16時)に大田本陣を出立。六ツ半時(18時)頃、絵堂から赤村の出口に当たる松原・横野垰・立石の3か所から萩政府軍本陣正岸寺を夜襲する。
大手から松明をかざして遊撃隊・奇兵隊、搦手から暗夜を遊撃隊・八幡隊が攻撃した。この戦いはおよそ一時余りでで終結。粟屋帯刀の手勢や撰鋒隊は、その夜に阿武郡山田村の内、木間辺まで陣を引いた。
また、17日には青景村に宿陣していた児玉若狭軍は三隅村宗頭まで陣を引く。


正岸寺境内には萩野隊士堀越松三郎の墓がある。堀越は伊佐村徳定出身の農民。16日の戦いで戦死。

戦死者数: ・諸隊2名  ・萩政府軍2名

 
                             萩野隊士堀越松三郎の墓

また、大田・絵堂の戦いにおけるこの付近農民の協力・蜂起も諸隊戦力の大きな支えとなった。

古川 薫の「長州歴史散歩」に、「絵堂を占領した日(7日)、御楯隊の山田市之充・大田市之進らは小郡勘場を、また吉敷郡矢原村(山口市)の大庄屋吉富藤兵衛らはその翌日、山口奉行所を襲い、正月10日(療養中の)井上聞多を座敷牢から奪い、さらに山口勘場を襲ったが、12日には小郡・山口地方の農民や町民を集めて鴻城軍を組織する。吉富藤兵衛は功山寺挙兵のとき高杉晋作から軍資金を貸してほしいと申しこまれると、即座にありあわせの200両を投げ出し、自らも鴻城軍を結成して、俗論打倒に参加した豪農である。また同じく吉敷郡の大庄屋で小郡の林勇蔵も銀30貫を軍資金として貸し与え、さらに8日有力者28人を集め、諸隊に呼応して決起する農兵隊の結成を依頼する。すぐさま農民1200人が集まり、大田絵堂の戦場へ向かった。農民も武器をとって立ち上がったのである。」また、「この付近の大富豪といわれる大庄屋二人までが私財を投じて諸隊に肩入れし、農民までが大集団をなして決起するについては、別に精神的な背景も考慮しなければならない」と述べ、阿知須の郷土歴史研究家の考察として、「吉敷郡一帯には由緒ある家柄の農家が多い。関ケ原の戦いで防長二州に押し込められたとき、毛利は家臣の全員を連れて行かれないので選りすぐりの者だけにしぼった。しかし、残された家来たちは、毛利をしたって防長へ移動し、武士を捨てて百姓となり、商人となって吉敷郡一帯に土着する。正しい系図を持った異色の農民たちは、かって毛利譜代の臣であったことを誇りとし、郎党の意識で藩内の政情を見守ってきたのだ。しかし、その中には、現に恩顧を受けている家臣団に対する妬心のようなものが秘められていたかもしれない。封建社会の不条理を、身をもって体験した先祖の思いが伝えられているとすれば、変革への待望もあったといえるだろう。-- (中略)-- 高杉晋作を起爆力とする長州の反俗論政府クーデターの側面を物語るものとして興味深い。」と述べている。

古川 薫氏の指摘以外の要素として、今回、倉敷騒動に連座して悲劇の第二奇兵隊脱走兵として処刑された片野 武の末裔K氏に案内されて当地を訪問したのだが、よくよく考えてみると、吉敷郡は大内氏のお膝元だ。大内氏譜代の土着半農武士集団も毛利氏移封後農民や商人になったものが多かっただろう。毛利氏は大内氏の影響が強い山口を嫌って萩に築城しているのだ。
片野 武の祖先は大内氏のとき柳井の片野村に入部したといわれているが、長州の諸隊にもこうした大内氏に関係した農民や商人・郷士が多くいたのではなかろうか。だとすれば、長く続いた封建社会・政権への民衆の一揆・革命戦争といえないだろか。明治維新の契機となる戦役といわれるのもうなずける。


「巡検ガイドブック」には、「この小郡から大量の食糧が搬送されたときには大田郊外の農家が人夫や農兵1200名の宿舎となり、家主は女房・娘を実家へ移し、軒下で畳を屋根にして夜を明かした。」とある。真冬の高地山間部は冷たく厳しい。彼らも革命に呼応参加したのだ。

数年前、周防道前蔵田氏と安芸西條蔵田氏関連から山口蔵田氏を訪ねたとき、家人から「幕末期、草鞋一万足を寄付し、のち毛利氏から感状を賜った。」と聞いたが、案外、このときのことだったのかもしれない。吉富・林の両氏も寄付金は別にして貸与した軍資金はもちろん返ってこなかっただろうが、感状は賜ったはずだ。

このあと、17日には鴻城軍が佐々並の政府軍を破る。高杉晋作ら諸隊は19日20時ごろから松明を焚いて山口へ向けて行軍を開始し、行軍の列は延々3里に及び、誠に威勢が良かったという。山口明倫館を諸隊の本営とし、諸隊会議所を石原に設け萩進撃の準備を整える。萩では16日頃から保守派に対抗して鎮静会議員(事態収拾中立派)が動き出し、清末藩主毛利元純が内乱収拾の命を受け、大田へは19日坂本力二が鎮静に来る。
26日には明木の萩政府軍が萩へ撤退し、諸隊が明木まで進軍する。28日、諸隊側癸亥丸が萩湾内に入り空砲を放ち萩を威嚇したので城下は騒然となり、藩主敬親は鎮静会議員の意見で保守派政権の交代に着手する。

2月9日鎮静会議員4名が使者として山口の高杉らと会談し、帰途の11日保守派(俗論派)により明木権現原で襲撃され3名が殺害される。これに激怒した諸隊は14日萩に進軍したので、椋梨藤太ら保守派12名は2月14日萩を小船で脱出し、江崎(阿武郡田万川)から岩国の吉川監物を頼ろうとするが、海が荒れたため、石州飯之浦(益田市)に越境上陸し、途中、津和野藩に捕縛されただちに萩護送となる。仮に岩国領に入ったとしても捕縛され山口護送となっていただろう。

22日から24日にかけて藩主敬親祖霊社臨時祭を執行して藩内を鎮定し、27日には萩城を出立して、明木・絵堂の戦場を巡視し、大田では民衆の労苦を慰めて28日山口に入城する。ここにおいて再び革新派政権となり、3月23日「武備恭順」に藩論が統一される。椋梨藤太が逆賊として野山獄で処刑されるのは慶応元年5月28日である。61歳。(注:椋梨関係は、古川 薫「長州歴史散歩」による。)

 椋梨藤太の墓「遁翁自樂居士」は、萩市江向の臨済宗徳隣寺境内墓地の北東角地にある。ここでも最近、親族によって150回忌が行われたようである。(2015.04.24訪問追記)        
            

    
  椋梨藤太の墓:「遁翁自樂居士」:(注)遁、五月廿九日とある。(2015.04.24撮影・追加)

山口吉富邸の周布政之助を自殺に追いやり、同日、君前会議を終えたばかりの井上聞多を襲い瀕死の重傷、さらには松島剛蔵ら七政務員の処刑、重臣清水清太郎の切腹と、徹底した残忍な血の粛清で政論を押し通した椋梨藤太ら俗論派は、最後のあがきとして事態収拾の中立派鎮静議員まで襲撃殺害し、その主義を通そうとするのであるが(獄中小田村素太郎も処刑の運命にあった)、椋梨藤太の墓の表に俗名は無く、「遁翁」から始まる簡単な戒名を刻んだだけで境内の片隅に、しかも外側の竹やぶ・塀を向いて後ろ向きにあるのを見ると、世をはばかった時代背景を想起させられる。
ただ、この墓に一花献上合掌し、しばし眺めていると何故かずんぐりと重たく見え、わずか5ケ月の短命ではあったが良くも悪くもこの時代を駆け抜けた俗論派政権の重みを感じる。勝てば正義、負ければ俗論なのである。彼らも長州と毛利家のために身命を賭けたのだ。

境内の広い墓地には、長藩あるいは維新に関係した人々の墓が多数あると思われるが、それらについて一々追及・検証するつもりはない。ただ、過去に読んだ歴史文献・小説等から思いつくまま頭に浮かんだそれらしい名前のものを確認したが、これらを列挙してみると、
「桂兵部丞大江元親桂〇〇墓(宝篋印塔) ・ 出羽氏 ・ 桂二郎右衛門大江元貞累代正統合葬墳 ・ 林氏、林良輔 ・ 宮城彦輔 ・ 楊井氏 ・ 福原氏 ・林(児玉)良輔 ・ 高須氏(これは野山獄女囚関係?で思いついたもの) ・ 井上氏 ・ 故従五位勳五等冷泉豊亮之墓 ・ 久坂先祖合葬之墓 ・ 元祖香川瀬左衛門尉平就政 ・ 河野氏 ・ 椋梨先祖合葬 ...等」である。他にも苔むした立派な墓が多数あったが、意識したのはこれ位である。

今回、参考にした「大田・絵堂戦役巡検ガイドブック」は、「奇兵隊日記」・「防長回天史」 ・「閑居録」・その他の地方文献等、多数の関係文献・史料を引用・集約化したうえ、地図と写真を多用しカラー化されているため、大田絵堂戦の全貌が手にとるように分かる。


現地の案内標識・説明看板もすべての戦跡・史跡に新増設されていて、ガイドブックと一体化している。戦役150年を迎え地元関係者の意欲と努力が伝わる。こうした熱意があってこそ、次の世代による「200周年記念」の諸事業に継承されるのだ。

 

 

    

 


   

 

   

 


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