Now+here Man's Blog

Surf, Run and Trails / Endurance For Fun

Earthquake

2006-04-25 10:34:11 | ThinkAbout..


タンタンさんやアクマヨーコがザパラBBSで地震雲の本を紹介したり御前崎で地震雲見たとか書いてあった。
僕の地震体験を披露しよう。たぶん体験してる人のほうが少ないからね。

日本海中部沖地震は1983年5月26日に起きた。M7.7。
僕は当時秋田大学というところで機械工学を専攻してたんだ。
ちょうど機構学かなんかの授業中で、構造物にかかる応力計算かなんかやってた。
授業中、僕は友達と大学の屋上で昼寝してたんだ。
雲が海に向かって不気味に流れていて、その光景は今でも忘れない。
雲が遥か先の一点に向かって収束しているんだ。あれが地震雲だったんだね。
空を見てぞっとした記憶がある。数分後、出欠をとるため教室に戻った。

12時ジャスト、いきなり揺れた。揺れるというより身体がシェイクされる感じ。
いきなりだよ。カウントダウンも何もない。
スタードッキリマル秘報告で、僕がガッツ石松だとしよう。
熟睡しているところを、無音のヘリコプターでそーっとそーっと3.7㎡オーバーの
トリプルマストの御前崎の海面に降ろされたくらいタマげる。
あれだけ揺れると、『死ぬかも』と思う。

机の下なんかもぐれない。机が勝手にジャンプしてるのだ。
とにかく建物の外に逃げることが最優先でドアのそばにいた僕は真っ先に逃げた。
廊下天井に亀裂が入りそこから埃とコンクリートの破壊粉で前が見えず通路は大パニック。
この逃げるという行為ができない学生もいたらしい。コシを抜かしたそうだ。

階段で将棋倒しにならなかったのが幸いだったけど方々からは悲鳴が聞こえてくる。
やっと外に出たものの、中庭の池の水は揺れのせいで殆ど外に出てしまっていた。
駐輪場のバイクと自転車は全て倒れ、建物の下は降ってきた窓ガラスの破片でいっぱいになっていた。

携帯電話もない時代で(もちろん今地震が起きても繋がらないから無いも同然)、
人々がすることは家に帰ることだった。あるいは愛する人のところへ行くことだった。
会社の非難訓練で点呼とるでしょ。あんな無意味なことは無い。
そんな余裕無いよ。誰もが家に帰る。車を盗み、バイクを盗んでだ。

信号機に電気が供給されなくて、交差点では車が何台も衝突しているし、
商店街では落ちてきた瓦や看板が散乱している。
道路に亀裂が入り、通行不可能なところもある。

ラジオでは、海岸にいた遠足の小学生が津波に飲み込まれたと報じた。
地震後、津波警報発表の前後に大きな津波が日本海沿岸を襲い、
日本海沿岸の8道府県の広い範囲に被害をもたらした。
車の中で震えた。恐怖で震えたのはあのときが始めて。
海では震えないだろ。災害では震えるんだ。家族を心配するからね。
遠く火力発電所の煙突からとんでもない量の黒煙が噴出した。
デパートの屋上の巨大看板が落ちて上階の売り場の買い物客を直撃した。

これが関東だと思うと地震を経験した僕でも想像がつかない。
地震が起きてからの措置、食べ物や衣料や家族との集合場所、
これはとても大切だけどあくまで起きた後の話。
まず直撃した瞬間に生き延びなくちゃいけない。
地獄絵図でサバイブする生命力は残念ながら避難訓練では出来ない。