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骨鬼(クイ)の末裔/新谷暁生

2011-02-03 00:00:00 | アイヌ民族関連
骨鬼(クイ)の末裔/新谷暁生
Posted on 2011年2月3日 in: 谷口雅春|Jump To Comments
北海道のニセコには、「レジェンド」と呼ばれる人々がいる。土地に深く根ざしながら、ある分野で世界に通じた群を抜く力や実績をもつ人たちだ。若い世代は、彼らに絶大な敬意と親愛を寄せる。
日本のテレマークスキーの先達である山本由起男さんと並ぶそんなレジェンドが、シーカヤック・ガイドで冒険家の新谷暁生(しんやあきお)さんだ。モイワスキー場ふもとのロッジ・ウッドペッカーズに新谷さんを訪ねたとき、新刊の「骨鬼(クイ)の末裔」(須田製版)をいただいた。

札幌生まれの新谷さんは、これまでヒマラヤをはじめとする世界の高峰群を踏破し、知床をベースにしたシーカヤックでは、南米パタゴニアのホーン岬漕破、アリューシャン列島と千島列島遠征など、余人の及ばざるすさまじい冒険を重ねてきた。
冬のニセコでは、バックカントリー(スキー場外部)のなだれ事故をめぐって、スキーヤーやスノーボーダーの安全と楽しみの両立をめざし、行政と関係者を巻き込んだ粘りづよい取り組みの先頭に立ち続けた。そうしてまとめられた「ニセコルール」は、いわば新しい公共の実践として多方面で注目と評価を集めている。

「骨鬼(クイ)の末裔」というエッセイを柱とするこの著書で新谷さんは、自分たちは骨鬼の遠い子孫なのだという。どういうことか。
骨鬼(嵬)とは、中国の元王朝が蝦夷地に住んでいた人々をさした蛮称で、日本史では擦文人(アイヌ民族)のこと。13世紀の極東で、彼らは交易を巡る覇権を求めてアムール川河口域に侵攻し、時の世界帝国を相手に40年以上も戦火を交えた(元が九州に大群を寄せた「元寇」の少し前のこと)。彼らが使ったのは、丸木舟の外側に板を縄で綴じた外洋船である板綴船(イタオマチプ)だが、新谷さんは、アイヌ軍の中にアリュートの皮舟(イキャック、シーカヤックの原型)も混じっていたに違いないと考える。

縄文時代から1万年にわたって自然と「共生」して豊かに暮らしてきたアイヌ民族が幕末以降、日本の近代によって途方もない厄災に見舞われる—。こうした単純な歴史観が、北海道の成り立ちの幹を衰弱させてきたのだと思う。18世紀以降場所請負商人のもとでアイヌ民族が負った苛烈な苦悩はもとより動かしようもない事実だけれど、新谷さんの胸にはそれ以前、千島列島からサハリン、さらには大陸までを縦横に活動した、勇者としてのアイヌ民族に寄せる共感がある。北東アジアで複雑な変容をダイナミックにとげてきたアイヌの歴史は、旭川市博物館の名高い展示からも知ることができる。

学問側から見れば、新谷さんの論旨にはほころびもあるだろう。しかし僕たちはここで、早逝した歴史学者保苅実の仕事を想起する。保苅はオーストラリア大陸の先住民アボリジニの村で暮らしながら、彼らが語る説話群(オーラル・ヒストリー)を、近代起源の歴史学とは全くちがう文脈で捉えようとした。その並外れた思考の冒険は彼の死によって途上で絶たれてしまったが、新谷さんが骨鬼(クイ)の末裔を自称するのは、さながらパドルを漕ぐ自らの腕っ節で北東アジア史を思考するふるまいだ。それこそが保苅のいう「歴史する身体」にほかならないだろう。
網走の北方民族博物館で昨年5月にはじまり、東京、大阪とまわった「保苅実写真展」が、4月にはいよいよ北海道大学で開催される。とても楽しみだ。

骨鬼(クイ)という名称は、一説に天塩などのアイヌの自称名詞といわれる「カイ」と同源だろう。そして本誌カイも、新谷さんのように風土に対して身体で考え精神で行動すべく、「カイ」に込めた意味をさらに広く深く開いていくことをめざしたい。


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