愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

「江戸時代末期、赤松(小三郎)のみならず多くの日本人が現行憲法につながる“人類普遍”の内容をもつ憲法構想を支持していた」と憲法の人権・民主主主義は先人の宝物!

2017-01-08 | 高校生でも判る日本型共産主義

幕末の武士たちが模索した日本における議会政治は憲法第97条に結実!

第九十七条

  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、

人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、

これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、

侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

きょうの潮流/真田丸ブームにわく信州・上田城を訪ねたときのことです。…2017年1月6日(金)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-01-06/2017010601_06_0.html

真田丸ブームにわく信州・上田城を訪ねたときのことです。城址(じょうし)公園の一角に、幕末の洋学者、赤松小三郎を紹介する小さな展示館がありました▼何気なく入って驚きました。上田藩の下級武士だったこの人物が、いかに先駆的な考えの持ち主だったか。1867(慶応3)年、赤松が有力諸侯の松平春嶽や島津久光、幕府にも出したという建白書は、いち早く議会政治を提唱したものでした▼若くして江戸や長崎に遊学。学問を広く学び、英国式の兵法を多くの門人に伝えました。幕末の転換期に書いた建白の七カ条には、今の国会にあたる「議政局」の開設や人材教育のための学校の設置。人民平等や個性の尊重まで▼37歳で京都で暗殺された赤松はこれまで歴史の表舞台から隠れてきました。しかし近年、その業績が掘り起こされ、現行憲法の理念を先取りし、立憲主義を説いた人物として光があてられています▼『赤松小三郎ともう一つの明治維新』を最近上梓(じょうし)した関良基・拓殖大准教授は「江戸時代末期、赤松のみならず多くの日本人が現行憲法につながる“人類普遍”の内容をもつ憲法構想を支持していた」といいます。そして現在の憲法は押し付けなどではなく、近代日本からの連続性をもち、日本人みずからの意思で醸成されてきたものだと▼憲法施行70年の今年は赤松の死から150年の節目にあたります。国家が国民を縛る改憲に執着する安倍首相。それがいかに時代の歩みを後戻りさせるものか。歴史の足跡が教えてくれます。(引用ここまで)

赤松小三郎 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%B0%8F%E4%B8%89%E9%83%8E

民主的議会政治の提言

慶応3年(1867年)5月17日には前福井藩主・松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」という建白書を提出した[2]。また同じく5月に同様の建白書を薩摩藩の島津久光にも提出している。

  • ^ 坂本龍馬の「船中八策」は、この時小三郎が提出した口上書の内容を真似たものだとも言われるが、「船中八策」自体の歴史的存在自体が疑われている。

この建白書の中で赤松は、定数30人の上局と定数130人の下局からなる二院制の議会(赤松の訳語では「議政局」)政治を提唱した。上局は貴族院に相当し、その議員は、朝廷と幕府と諸藩の融和の象徴として、公卿と諸侯と旗本より選出される。下局は衆議院に相当し、その議員は、各藩を基礎とした選挙区から「門閥貴賎に拘らず道理を明弁し私なく且人望の帰する人」を、入札(選挙)によって公平に選ぶべしとされた。これは、身分にとらわれない民主的な普通選挙による議会政治を提言した文書として、日本最初のものである。「国事は総て此両局にて決議」とされ、議会は国の最高議決機関と位置付けられている。

建白書の中では、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議員内閣制度も提言されている。また、議会の決議事項に対しては、天皇ですら拒否権を行使できないとされた。

他の項目として、主要都市に大学を設置し全国民への教育機会を提供すること、人民平等の原則に基づき農民に重すぎる税負担を軽減、全ての職種に公平な税率を課すこと、金貨・銀貨を国際的なレートに従って鋳造し直し、物品の製造にあわせ通貨供給量の拡大を計ること、陸軍と海軍を拡充し諸民からも軍人を養成して士族の割合を徐々に減らすこと、戦時には国中の男女を徴兵可能にすること、西洋から顧問を迎え入れ各地に諸物製造所を設け産業を振興すること、肉食を奨励し日本人の体格を改善すること、家畜も品種改良すること、などが建白された。

門人の大垣藩士で、後に陸軍少将となった可兒春淋は、赤松塾の講義の内容に関して、大正8年(1819年)8月17日に以下のように談話している。「講義は毎日午前3時間、午後2時間、午前は専ら英国式の歩・騎兵の錬法と射撃に関するもの、午後は世界最近の戦史、窮理学、航海術のことでした。課外として時々世界の政治組織についての講義があった。(中略)先生は常に輿論政治を主張して居られた『如何に賢明なる人とても神でない限り思ひ違い、考へ違ひがある。又少数の人が事を行ふ場合、感情、誤解、憎悪が附随するから失態がある。是非これは多数政治に據らねばならぬ――。』 先生は丁度今日の議会政治を主張しました。それは未だ開国するとかせぬとかかまびすしい時でしたから驚きました。(中略)『外国の亡国の例を見るに、皆此の身分や階級の為、人材を野に棄て、貴族と称する輩が自己の無能を顧みずして専横を振舞ふたにある。(中略)多数の選挙によって選んだものを宰相とするのである英国式を参考として日本の国柄に合はせるがよい。』常に先生はかく説かれてゐた。それがやうやく25年の後にやっと事実となって現れたのであつた」[6]。(引用ここまで)

赤松小三郎幕末の洋式兵学者・議会政治の先唱者

http://museum.umic.jp/jinbutu/data/001.html

小三郎は、一般には洋式兵学者として知られていますが、慶応3年5月、全政治総裁職松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に国会創設の建白書を提出しています。これは同様の趣旨で坂本竜馬が提起した「船中八策」に先立っており、小三郎の先進性を広く世に伝えました。しかし、慶応3年9月3日、京都から帰る途中、幕府の協力者と疑われ、待ち伏せていた薩摩藩士桐野利秋(きりのとしあき)らに襲われ亡くなりました。享年37歳でした。(引用ここまで)

幕末の先駆者・赤松小三郎を知っていますか? 2016年 10月 06日

http://westcoast.exblog.jp/26254254/

赤松の書いた「建白七策」は、当時日本に押し寄せていた英米仏蘭などの軍艦との戦争を避けるために公武合体論を主張し、世界情勢の中で日本が置かれている状況は内戦をしている場合でないほど逼迫していると論じて、幕藩体制から一挙に民主国家に移行する構想をあげたものだった。この構想は坂本龍馬の「船中八策」よりも1年早く松平春嶽に提出されたおり、船中八策の原案になったのではないかと言われている。これほどの赤松が歴史の表舞台から忘れられていたのは、彼が道半ばで暗殺されたからだろう。それも門下生である薩摩藩中村半次郎らの手にかかってだ。(引用ここまで)

赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」の比較 ―その1 2010年03月21日 | 赤松小三郎

この間、赤松小三郎に関する記事を連続して投稿し、赤松小三郎が慶応3年5月に越前福井藩の前藩主で幕府顧問の松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書(以下、御改正口上書)」が、坂本龍馬の「船中八策」よりも早い、日本で最初の、選挙による民主的議会政治の建白書であり、もっと評価されるべきであることを論じてきた。

 現在、ネットで検索しても、赤松の「御改正口上書」を読むことはできない。そこでこのブログに掲載することにした。出所は『上田市史』(下巻、1251~1253頁)である。赤松直筆の原本は失われているが、全文が松平春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』に転載されているので、この文書の存在は確かのものである。

 管見の限り、幕末維新関係の史書を読んでも、この赤松の歴史的文書の存在は無視されている。とてつもなくおかしなことだと思う。信じられないことだが、文献の中で探そうとすると、『上田市史』や『長野県史』といった郷土史の書籍の中にしか見られないのだ。「いったい歴史学者は何をやっているのだろう」と不思議に思う。
 私は、たまたま上田出身なので、高校時代に『上田市史』を読んでいて、赤松の「御改正口上書」に接することができた。それを読んで、「これは『船中八策』などよりはるかにすごいじゃないか」と衝撃を受け、翌日、高校の日本史の先生に、「何でこんなすごい人物が全く無名なんですか! おかしいじゃないですか!」と抗議しに行ったものだった……。

 長野県外の人では、おそらくよほど歴史に詳しい人でも、赤松の「御改正口上書」を読んだことはないだろう。一般の人は、この歴史的文書に接することはできないのである。従って、拙ブログごときが紹介するのも意味があることだと思う。

 私の推測では、この「御改正口上書」が、おそらくは福井藩士の手を経由して京都に潜伏中の坂本龍馬に見せられ、「船中八策」および「新政府綱領八策」となった。また、「五箇条の御誓文」の起草した由利公正も、福井藩士であるから、当然、赤松の「口上書」を読んでいたものと思われる。由利公正が御誓文の原案を考える際にも、赤松の文書が影響を与えたのであろう。
 しかし、「御改正口上書」に比べると、「船中八策」、「五箇条の御誓文」とも、はるかに内容的に曖昧で、後退したものとなっている。

 赤松の「御改正口上書」は全部で七箇条あるが、まず最も重要な第一条を紹介したい。この条は、天皇、内閣(首相と大臣)、そして上下両院の二院制議会の役割を論じたものである。これは坂本龍馬の「船中八策」との対応で言うと、以下の三カ条の内容に相当する。(略)(引用ここまで)

赤松小三郎は議会政治の建白書を幕府にも提出していた ―桐野作人氏が発見  2016年06月01日 | 赤松小三

船中八策を産んだ赤松小三郎

http://bkmts.on.coocan.jp/sentyuhassaku.htm

 幕末の兵学者「赤松小三郎」来秋に企画展 上田市立博物館(中日新聞・2016/10/18)



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