世相を斬る あいば達也

民主主義、資本主義とグローバル経済や金融資本主義の異様な違いについて

●日米隷属の掟 米国グローバル企業・経団連と安倍のコラボ

2018年06月24日 | 日記
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日本列島創生論 地方は国家の希望なり (新潮新書)
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知ってはいけない 隠された日本支配の構造 (講談社現代新書)
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●日米隷属の掟 米国グローバル企業・経団連と安倍のコラボ

筆者は、米国トランプ政権の保護主義的な動きはグローバル経済の限界点が見えた結果と最近のコラムで書いてきた。しかし、どうも一部訂正せざるを得ない状況になっているようだ。なぜかと云うと、トランプ大統領が選択している保護主義的な動きは、必ずしも正当な保護主義政策に舵を切ったわけではないと思い至ったからである。トランプの保護主義的に見える動きは、単に、米国ファーストの我が儘による保護主義擬きに過ぎないことが判りかけている。つまり、トランプの制裁関税発動は、単に多国籍企業群が活動しやすい土俵を作りたいだけの我が儘ではないかと云うことだ。

無論、トランプに、そのような我が儘な選択を強いたのは米国の多国籍企業群であることは明々白々だ。多国籍企業群の連中にとって、中国と云うグローバル経済の牽引フロンティア地域の喪失は、致命的危機なわけで、何とかして、フロンティア地域に代わるフロンティア探しが始まったとみるべきだろう。その一つが、今回の、買い手市場有利の原則を利用した、不公平貿易の是正目的の関税措置なのだ。このコラムでは、日本市場(日本人の富)もグローバル企業らによって、フロンティア地域扱いされている現実にスポットを当てた。

たしかに、米国の貿易赤字は問題だが、米国多国籍企業らが、低賃金と途上国市場目当てにフロンティア地域に生産拠点を移行した結果、気がついてみたら貿易赤字が出ただけのことで、小学生でも判るメカニズムによる貿易赤字なのだから、他国の所為にするのはヒステリー症状というほかない。まぁ、この問題は最終的に、相手国も報復関税を行う、関税合戦になるだろうが、最後はアメリカが音を上げるに違いない。

現在、上述のような問題がメディア等々で騒がれているが、日本という国家として、米国の振舞い、或いはトランプ大統領の振舞い、グローバル企業の振舞い、日本の大企業の振舞い(経団連)、日本の官僚の振舞い、そして、安倍内閣の振舞い等を考えてみる。ここでは、安倍の問題は、簡単に片づけておく。安倍晋三の凡庸な悪は、“森友学園、加計学園、スパコン、山口レイプ事件”の4件である。無論、これだけで安倍は、十二分に牢屋の人になるべきだが、「国家」の問題とは次元の異なる、極めてせこい、コソ泥や覗き犯程度のという認識も成り立つ。

日米と云う大きな枠組みで考えを整理すると、以下のような構造が、我が国日本に存在していると云うことがわかる。当たり前のことだが、多くの人は、日本と云う国が、米国の支配下にある、或いは、相当の影響下にあることは、薄々理解している。そして、それを苦々しく思う心情と、米国の支配下にある方が安全なのではないかと云うような心情も存在する。この心情の違いで、対立する日本人が存在するし、時には、ひとりの人間の中に、二つの対立する心情が同居していることもある。

いずれにしても、日本と云う国は、戦前戦後を通じて、否、ペリーの来航以来、米国の影響下にあった。特に、第二次大戦後の日本は、非常に米国の影響下にある。影響下と云うものは、米国への反発と迎合の気持が、時間軸で右往左往していると言えるだろう。そして、現在はほぼ完全なかたちで、迎合が勝っている。特に、小泉純一郎以降の日本政府は、鳩山由紀夫政権を除いて、完全に、米国の意のままの国家になろうと努力しているのが現実だ。

そのことが、良いのか悪いのか、それは、或る意味でイデオロギー的問題なので、善悪は判断しにくい。ただ、米国という国自体が、多国籍企業と軍産複合企業と云う二つの利益勢力に牛耳られた国家であり、1%の為に存在するシステムが構築された国家であることは、まぎれもない事実だ。そして今、我が国日本も、米国と同様の1%の為のシステムが導入されている最中と考えるのが妥当だろう。

記憶に新しい部分から言えば、郵政民営化以降の日本の「改革路線」は、上述の米国式1%の為のシステム作りに、政治・行政・司法、経済・大学・放送・言論等々の世界が、「改革」という幻想的な言葉の響きに惑わされて動いているのが現状だと言える。これらの「改革」は、日米年次要望書にもとづき、粛々と進捗している。ランダムに思いつくまま書いてみると、安全保障関連、裁判員裁判、規制改革、省庁再編、国鉄民営化も、NTT・JTの民営化、アベノミクス、日銀異次元緩和、特定秘密保護法、累進税率緩和、法人税減税……書き始めたら止まらなくなる。

 つまり、“規制改革”と云う言葉が持つ魔力にうつつを抜かしている間に、日本人が生活を通じて作り上げた「社会的共通資本」と云うものがことごとく、米国中心の多国籍企業の餌食にする為の方便な言葉であったことに気づくのである。最近では、郵政事業は、たしかに無駄も多かったのは事実だが、民営化するほど、事業を分割することで、共通資本の効力を喪失している。また、郵貯・保険の持つ350兆円もゴールドマン・サックスを通じて、多国籍企業の餌食になりかけている。国民皆保険も多国籍企業群にとっては癪の種で、いずれは餌食になるのは判っている。

困ったことに、現在の日本の社会は、米国の支配下であることを問題視せずに、いや、より積極的に同化することで、社会的な地位を得ているのが現実なので、社会的地位の高い人ほど、米国への依存度が高い。特に経済界は酷いのひとことだと言える。経団連などは2000年に、「経団連・規制改革要望」を政府に提出して、米国多国籍企業の尻馬に乗る態度を鮮明にしている。

その内容は、15分野に及び雇用・労働・年金、医療・介護・福祉、教育、流通、土地・住宅、廃棄物・環境保全、危険物・防災・保安、情報・通信、金融・保険・証券、運輸、エネルギー、通商、農業、競争政策にもおよぶ規制緩和の要求である。このような内容は、米国の対日指針と同様のものであり、経団連も、日本社会のアメリカ化により、利益の最大化を狙っているのが現状である。米グローバル企業と日本のグローバル企業は、時に対立し、時に協調して、日本市場や世界市場を食物にしようとしている。最近、日本企業による、世界的M&Aの流れは、それを象徴している。

とどのつまり、現在の日本は、米国政府や米国多国籍企業及び国内の経団連企業群の要求に屈する政治しか出来ない仕組みになっているのが事実だろう。これに、米国政府の年次改革要望書がセットになれば、雁字搦めであり、日本国の自由な為政など行う余地はないに等しいと云う現実が理解出来る。要するに、日米同盟基軸という観念に捉われている限り、与野党通じて、米国からの圧力に抵抗することは、相当に困難だと言えるだろう。余程複雑な抵抗手順を踏まないと、その政権は、でっち上げのスキャンダルに潰されるだろう。

現状で言えることは、米国に、100%屈服するか、70%なのか50%なのかの違いの競争だと言える。まぁそうはいっても、日本独自の「社会的共通資本」を失うことは、あの貧富の差が歴然としたアメリカになるわけであり、最終的には「移民政策」に舵を切らない限り、日本国民の富は、自動的に収奪されるだけで、先細り確実な“少子高齢化社会”なのだから、その人口構成を変えない限り、収奪だけが残るので、「移民政策」避けて通れないことになる。

まぁ、極めて他力本願な話なのだが、筆者個人としては、アメリカの多国籍企業や軍産複合企業が、出来るだけ早く滅んでくれることを望んでいる。その点で、ユーラシア勢力(中国・ロシア・インド・イラン)の抬頭は、一縷の望みである。日本としては、安保は当面アメリカ基軸であっても、外交においては、中国を重要視するのは当然の流れだと思う。好きか嫌いかではなく、このような場合にこそ、損か得かの観念に拘って貰いたいものだ。明治期以前の、本来の日本文化を残すためにも、田中角栄、石橋湛山的思考を持つ政治家の出現を期待したい。


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●ガブリエル×國分 哲学者が語る民主主義の「限界」後編

2018年06月21日 | 日記
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●ガブリエル×國分 哲学者が語る民主主義の「限界」後編

■民主主義の理念と実行の緊張関係  
ガブリエル氏:
まさにおっしゃるとおりです。ここには再び、ここまで話してきた緊張関係が存在しています。つまり、民主主義の理念と、実際にそれをどう実行・実現していくかという問題の間にある緊張です。これは行政の問題になってくるわけですが、行政というのは「中間の媒介的な層」であって、経済、警察の問題、あるいは、火事が起きた時に消防士を派遣するといった問題に対応するわけですが、情報は複雑なわけですから、行政の役割とは、情報を、フィルターを通じて濾過(ろか)して複雑さを減らして処理することなわけです。

ここでの問題は、そうしたフィルタリングを通じて行政がだんだんと権力を増していくことです。つまり、情報処理すること自体が行政に権力を与えてしまう。この問題に対抗するには、倫理的なものが必要になります。民主主義をいざ実行しようとすると、そうした問題が出てきます。ルソーはかつて「市民宗教が必要だ」と言ったわけですが、これがまさに今で言う倫理が必要という話です。人々が責任感をもって行政を扱う必要があります。行政を行う人もまた市民なのです。

例えばメルケルであっても、法の前では私と同じ市民であって、その意味では「平等」なのです。メルケルはもし気にくわなければ権力を使って私を抑圧することができるかもしれません。でも倫理的にみたらそれは謝りを侵していることになります。とはいえ、抑圧することは非常に簡単なわけです。

そういう意味では、哲学が出来るだけ速い段階で人々に教育されること、つまり倫理的判断が出来るためのトレーニングを初期教育として行っていく必要があると思います。中学や高校で、数学と同じように教えるべきなのです。数学もトレーニングなしにはできないように、倫理的判断もトレーニングなしにはできません。倫理的教育は簡単なものであれば5~6歳でもできるので、出来るだけ速く学校で、哲学を他の学問と同じように教えるべきだと考えています。

國分氏:
同感です。実はいま日本では役人が書類を勝手に書き換えたことが問題になっています。この事件は役人が悪いというより、政治家がプレッシャーをかけているから起こったものなのですが、実のところ、僕はあの事件で一番問題だと思うのは、あまり大衆が強く怒っていないことです。とんでもないことが起こっているのに全然怒っていない。それどころか「もう分かったから報道はやめろ」という声すらある。

僕はここでアレントが「全体主義の起源」で示した、大衆社会における大衆を姿を思い出します。アレントは「大衆は何も信じていないから、何でも信じる」と言っています。何か「これだけは動かせない」という価値を信じていないから、何が起きても「ああそうなんだ」とすぐに信じる。

もう一つ大事な要素は、そうした「軽信」(何でも信じる)と合わさった「シニシズム」です。どういうことかというと、騙されたことが分かっても、その次の日には「ああ、まあそうだろうと思っていたよ。分かっていたよ」とシニカルにそれを受け入れてしまうのです。騙されていることに驚かない。僕は、これは完全に今の日本だなと感じます。首相が「福島の原発はアンダーコントロール」と言っても、怒らない。そういうことが常態化している。そして、そうした事態を招いている原因の一つは、アレントの分析に従うならば、人びとが何か価値を信じていないということにある。

例えば今日、ガブリエルさんは「民主主義において平等が大切だ。価値を共有することで権利が生まれる」とおっしゃった。僕もその通りだと思いますが、日本の問題は「平等」とか「権利」といった価値が信じられていないということなのです。ここからルソーの言う「市民宗教」について考えることもできるでしょう。「市民宗教」もまた、ある種の価値の共有のために必要とされるのです。僕は最近「信じる」ということが大切だと思っているんです。ではどうすれば、みんなが価値を信じることが出来るのだろうか。これはガブリエルさんに伺うようなことではないかもしれませんが、もしご意見があれば伺いたいです。

ガブリエル氏:
大衆心理に対する診断について、完全に同意します。これは解決策ではなくある種の提案ですが、教育において読み書きを教えるわけですが、読み書きについてはみんな「それは必要だ」というわけです。読み書きなんて教えなくていいという人がいたら「狂っている」と思うでしょう。それに対して、倫理的なことについて無知な状態は一般に受け入れられてしまっています。この状況は本当に大きな過ちです。私たちが民主主義的な社会システムのもとで生きている状況で、本来は「自由に考える」ということが重要ですが、幼稚園や学校では決して教えられない。むしろ「自由に考えない」ように教えられているわけです。

本来、「自由に考える」というのが最も重要な教育における原理であって、最初に挙げられた大衆の問題も「自由に考える」ということを徹底すれば解決できる問題なのではないでしょうか。いま日本でもドイツでも直面している問題は同じもので、「自由に考える」ということで一つの解決策が見えてくるのではないか。

もし、「自由に考えること」ということに同意しない人がいたら会ってみたいですね。トランプ(米大統領)は同意しないかもしれないが、彼は民主主義者じゃないので放っておきましょう。

■立憲主義と民主主義  
國分氏:
次に立憲主義と民主主義の関係について話し合っていきたいと思います。まず、簡単な質問なんですが、ドイツでは「立憲主義」って言いますか?  

ガブリエル氏:
言いますよ、もちろん。
 
國分氏:
実はこの言葉、日本では少し前まであまり使われなかった言葉なんです。法律の専門家は使っていたけれども、一般的にはほとんど耳にすることはありませんでした。どうしてこんな専門的な言葉が注目を集めるようになったのかというと、この原則が危うくなってきたからです。

立憲主義の考え方というのはある意味では簡単で、どんな権力も制約を受けるということです。民主主義というのは民衆が権力をつくる政治体制のことであり、これと立憲主義を組み合わせたのが近代国家の基本的な枠組みであるわけですが、だとすると、立憲的民主主義の政治体制においては、「民衆が権力を作るけれども、その権力でさえも憲法によって制約を受ける」ということになるわけです。つまり、「民主主義だからといって民主的に決めれば何でもやってよいわけではない」というのがその基本的な考え方になります。

すごく分かりやすい例を挙げると、人種差別を合法化するような法案を国会で通すことは民主主義においてあり得ます。しかし、そういう法はあらかじめ憲法によって禁止されているので、最終的にはボツになる。そうやって、あらかじめ民主主義がやっていい範囲を決めておくのが立憲主義の考え方です。ただ、立憲主義と民主主義の関係は、国とか、地域、歴史によって色々変わってくるものだと思います。ドイツでは、民衆の力としての民主主義と、それに対する憲法の制約について、どういうふうに受け止められているでしょうか? ドイツは立憲主義的な発想が非常に強いと聞いていますが、どうでしょうか?

ガブリエル氏:
まさにこの問題はドイツにとっても中心的な問題で、立憲主義も様々な論者が強調する問題です。立憲主義とは、どのような権力も制限されなければならないということです。ドイツの憲法でも立憲主義が言われており、第1条は、人間の尊厳は不可侵である、としています。これが第一命題となっていて、そのうえで2条、3条以降も書かれている。

私の今日の話は、このドイツ憲法第1条の私なりの解釈だったわけです。戦後ドイツは人々が権力をどのように制約するかという観点から憲法をつくったわけですが、重視されたのは、倫理的な土台がなければならないということです。政治的なシステム、つまり国家は単なる形式的なシステムではなく、倫理的な基礎をもったシステムになっていなければなりません。倫理的な基礎がなければ、すぐに無制約的なシステムや権力に取って代わられてしまうと考えました。  

國分氏:
いまのお話に同意です。ただ、いまおっしゃった「倫理的な基礎」についてはもう少し考えるべきことがあると思うんです。現在の首相である安倍氏は、「憲法解釈に責任をもつのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」という発言をして物議を醸したことがあります。こう発言する彼が、法とは何か、憲法とは何か、立憲主義とは何かについて、何も知らないし、何も分かっていない、無知な人間であることは明らかです。しかし、そこには、それでもなお論ずべき論点があると思います。それは何かというと「民主的な権力はいったいどこまで及ぶのか? どこまで及ぶべきなのか?」という問いです。
 
もちろん、ドイツの憲法第1条の理念を否定する人はいないと思います。でも、「憲法に書かれているからもう絶対に誰も手出しできない」ということは、民主主義の理念とどう折り合いをつけることができるのか。この問いは抽象的には考えられないものかもしれず、論点ごとに考えなければならないことかもしれません。ただ理論的問題としてそういう問題があることは指摘しておきたいのです。

こう述べながら僕が思い出しているのは、アントニオ・ネグリという哲学者です。ネグリ氏はイタリアの左派の哲学者として世界的に有名な人ですが、このネグリ氏は明確に立憲主義に反対しています。彼に言わせれば、民主主義は、民衆が自分たちで自分たちのことを決める政治体制なのだから、どうして他の原理が必要なのかということになるわけです。僕はネグリ氏に同意しませんが、しかし気持ちは分かる感じもするわけです。

立憲主義というのはある意味、エリート主義的な原理だと思います。民主主義が下からつくっていくものだとしたら、立憲主義は上から「はいダメ」と言ってくる。だから立憲主義に反対する人がいることは分からないではないのです。日本の首相だけではなく、哲学者にもそういう人がいる。「なぜ自分たちが決めちゃいけないのか」という民衆の反発をどう考えたらよいでしょうか。  

ガブリエル氏:
幸運なことに、人間の尊厳についてドイツでは「それが必要ない」というふうに誰も否定しないわけです。それは極右であっても、どんな人であっても人間の尊厳の重要性については否定しない。このことからも分かるように、民主主義は制限されています。民主主義が決定できることは「全部」についてではないわけです。例えば我々は「誰かを拷問するかどうか」について、投票を行うべきではありません。この部屋で誰かを拷問するかどうかを投票して決めてはいけないわけです。そういう意味で、民主主義が投票で決められる内容は制限されています。それに対して、極左の人たちは何でも決定できるという発想になってしまいますが、それが実現すると、スターリニズム、毛沢東主義になってしまう。だから私はネグリ氏の考えには明確に反対しています。民主主義にはとにかく制限が必要で、この制限はどういったものかというと、ふつうの正しい考え(ライト・マインド)を持っている人なら決して疑問視しない。

例えば、人間の尊厳についての問題がそうでしょう。人間の尊厳を傷つける拷問は、民主主義が絶対に決めてはならない。つまり民主主義は自分自身に、つまりは民主主義自体に反対することができません。これが、私が主張するラディカル・デモクラシーという理念になります。「民主主義は民主主義についてのものである」というのがラディカル・デモクラシーの基本的な発想です。

ヘーゲルは「法哲学」で「法は自由意志を欲する自由意志である」と言っています。つまり自由意志を実現するものに反対するようなことを望むことはできません。民主主義には決して疑問視されてはならない内容、事項が存在していて、もしそれを望んでしまうなら、2+2=7と言ってしまうような非常に大きな誤りを犯すことになる。2+2=7なら単に数学の計算間違いですが、民主主義の場合は、非常に深刻な倫理的な誤りを犯すことになるわけです。  

國分氏:
日本では数年前、「いつまでたっても憲法を変えられないから憲法の変え方を変えてしまおう」と構想した首相がいて、それが今の首相です。今のルールの下で、ゲームのルールを変えることができるのかというすごく形而上学(けいしじょうがく)的な問題なんですが、総スカンを食らったので彼はこれを引っ込めました。ところが、そういう光景を目にしても日本人はあまり驚かなかった。あれにもっと驚くべきだったということだと思います。立憲主義的な価値の共有がいかに尊重されているか、それがドイツの話からよく分かったように思います。これを日本でどう実現できるか。そうしたことを思って話を伺っていました。

 ■倫理は教育できるのか
 ――会場からの質問を受ける前に一つ質問させてください。民主主義には倫理が欠かせないということでしたが、それはどう教育できるのでしょうか。相次ぐテロなどをみていると、民主主義を含む欧米型の政治体制に反発を抱く人は少なくありません。  

ガブリエル氏:
あらゆる子どもたちは生まれたときに、倫理的な問題に対するある種の感性を持って生まれてきます。子どもたちはすぐに規範というものを求めるようになります。人間というのは、規範性に対する感性を持って生まれてくる。つまり、大多数の人間は、生活において規範的な構造というものを探しながら生活するわけです。

その時に選択肢が限定されたものにならないといけないわけです。もし私たちが子どもたちに倫理を早い段階で教育したとしたら、彼らがのちに権力や社会的地位を得た時に、何でも選択するわけではなくて、例えばいまおっしゃったような、民主主義の価値をまったく信じていないような人々が行ってしまうような論理づけ、理由づけにおける誤謬(ごびゅう)、誤りというものがだいたいなくなるわけです。

民主主義を信じないで排外運動に傾くような人たちは、欠陥を含んだ理由付けをしてしまっています。例えば「ユダヤ人は悪いやつだ」と信じている人たちに「なぜそう考えるのか」と聞くと、そのときにかえってくる理由づけは、まさに欠陥を含んでいる薄弱な推論です。

もちろん、倫理的な教育をしたとしても、そのうえで人々の意見が異なって合意しない、意見の食い違いは存在します。ただその時の意見の食い違いは合理的な形をとるようになるわけです。つまり、ちゃんとした理由づけをできる人たち同士の意見の違い、互いに違うようになるという状態は、それ自体が倫理的な状況と呼ぶことができます。なぜかというと、同意していない物事についての「幅」がすでに限定されていて、そこでの意見の不一致はめちゃくちゃなものではなくて、合理的なものになっている。そういうものが実現された状態こそが、私が民主主義の「倫理的な土台」と呼ぶようなものです。  
    ◇  
Markus Gabriel 1980年生まれ。独ボン大教授。専門はドイツ観念論など。著書に「なぜ世界は存在しないのか」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「神話・狂気・哄笑」など。ポストモダン思想への批判で知られ、新しい実在論という立場から議論を展開している。   
     ◇  
こくぶん・こういちろう 1974年生まれ。東京工業大学教授。専門はフランス現代思想。2013年に都道建設計画をめぐる住民運動に関わり、行政と民主主義の関係に光を当てる議論を展開した。著書に「中動態の世界 意志と責任の考古学」「来るべき民主主義」など  注:一部かつあい
 ≫(朝日新聞デジタル:一部割愛


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●ガブリエル×國分 哲学者が語る民主主義の「限界」前編

2018年06月20日 | 日記


●ガブリエル×國分 哲学者が語る民主主義の「限界」前編

*本日は引用長いので、解説は省略です。

 ≪哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談
日々のニュースで当たり前のように政治や経済の危機が語られる今、民主主義は「危機」の解決に役に立つのか。もはや民主主義こそ問題なのではないか――。著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)がベストセラーになっているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが来日し、東京・築地の朝日新聞東京本社読者ホールで6月12日、哲学者の國分功一郎さんと対談した。「危機」の時代に、改めて歴史をさかのぼり、民主主義の原理を見直した議論では、「民主主義と国民国家は両立しない」「主権という考え方は怪しい」など、ラディカルな発言が飛び出した。

対談は、住民運動への参加経験などから議会中心の既存の民主主義観を批判してきた國分さんが事前に送った「手紙」による問題提起を受け、ガブリエル氏が講演する形でスタートした。

通訳は斎藤幸平・大阪市立大学准教授、聞き手・司会は朝日新聞文化くらし報道部の高久潤記者が務めた。対談は、本の著者を招いて講演などをしてもらう「作家LIVE」(朝日新聞社主催)の一環で、会場には定員を大きく上回る約900人から応募があり、抽選で当選した約200人が来場。2時間半に及んだ当日の議論の全容を、2万5千字超で詳報する。

■國分さんからの手紙  
対談に先立ち、國分さんは事前にガブリエルさんに問題提起のため、民主主義をめぐる四つの質問を手紙で送っていた。ガブリエル氏の講演はこの質問を踏まえて行われた。   
   ◇
①実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
②立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
③主権に統治は可能でしょうか。主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
④現代政治が主権の限界に直面する一方で、主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか    
   ◇  
手紙の中で國分さんは、2013年に都の道路建設計画の見直しを求める住民運動に参加した自身の経験に触れ、「道路を建設するにあたって、建設現場に住む人びとからいかなる許可も取る必要がない」とし、「日本の行政には万能とも言うべき権力」がある、と指摘。近代の民主主義において、主権は「伝統的に立法権として定義されてきた」が、主権者である民衆が行政の決定に直接関わることができない中、それは民主的と言い得るか、と問題提起した。
 
公文書改ざん問題でも改めて注目を集める行政権力の強大化は、国レベルでも当てはまる。國分さんは安倍政権が2015年、閣議決定で日本国憲法第9条の解釈を変更したことに言及。その反対運動の中で注目されたのが立憲主義を、「いかなる政治権力も制約を受けるという原則」と説明し、制約を受ける側である安倍政権が「そのルールの解釈を変更」したことを批判した。だが考えるべき問題はその先にある。では「憲法は民主主義的な権力をどこまで制約できるのか」と問いかけた。
 
また英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票など世界政治の潮流にも触れ、「主権を求める動きが高まっている」と診断した上で、「主権(民主的な議会)による統治は可能か」「主権を求める動きが高まる状況をどう捉えればよいか」との質問も投げかけた。

 ■マルクス・ガブリエル氏の基調講演「危機に瀕する民主主義」  
日本の哲学者と交流を持てるのを楽しみにしていました。きょうこれから國分さんからの手紙との関連で民主主義の危機について論じますが、二つのパートにわけて話を進めようと思います。最初に論じたいのは、民主主義の本質に関する問題、つまり民主主義とは何かという問いです。それを踏まえて後半では、民主主義は今、社会システムの中で実際にどのような形で実施されているのかについて話します。
 
そのうえで最後に、民主主義の危機とは、前半で論じるその「本質」と、現在実施されている制度の間にある距離、隔たりから生まれているのだ、ということを指摘したいと思います。
 
民主主義が誕生した時期として、一般的に二つの時期が語られます。古代ギリシャとフランス革命です。では、なぜこの時期に民主主義が生まれたかを考えてみると、民主主義がある種の「価値」に対応する形で生まれてきたことがわかります。ここでいう「価値」とは「事実」に関するものです。例えば子どもを虐待してはいけないという価値(判断)は、子どもを虐待してはならないという事実に対応しています。同様に民主主義について考えるならば、民主主義の価値は、人間は人間として存在することができるためには、けっして誰にも譲渡できないような諸権利を必ずや必要とする、という事実に対応しているのです。ではどういう権利が必要かというと、人間として充実した意味のある人生を送るための条件、幸せな生活を送る条件を人間は必要としており、こうしたものが権利の内容になります。
 
これが人権と呼ばれるものですが、人権とは言い換えるならば、人間が人間としての人生、生活を送るために必要な条件です。民主主義とは、こうした人間が人間として存在するための権利を実現することを目指す政治システムということになります。

まずこの単純な話を基礎として、理想的な民主主義の定義について話すことができます。つまり、どのような社会的、経済的、政治的条件のもとでなら人々は充実した生活を送ることができるか、という問いに答えていくことで、理想的な民主主義を定義することができるでしょう。
 
では実際にはどう定義していくのか。社会学、経済学など様々な学問がその条件を明らかにする役割を果たします。その意味で、民主主義とは、知に――それを知の体系と呼んでもいいでしょう――基づいたシステムということになります。ですから、まず私たちは、自分たちが生きていくために、どういった条件が必要なのかを事実として知る必要がある。民主主義とは知に基づいた統治形式と定義することができます。
 
古代ギリシャの民主主義がなぜ失敗したのかについて話しましょう。簡単に言えば、その民主主義が「みんなのための」民主主義ではなかったからです。当時は奴隷がいました。奴隷は、民主主義の基本的な理念と矛盾しています。奴隷は奴隷所有者のために働くことを義務付けられており、自分のしたいことを行うことができません。こうしたエリート主義的なシステムでは民主主義は実現しませんでした。

また、フランス革命の後の民主主義の試みも失敗しています。このときは、ナポレオンが目指した民主主義の拡大という試みが帝国主義的な性格を内包していたからです。帝国主義な性格による失敗については、まさに今日の米国の民主主義が失敗していることにも同じようにあてはまるように思います。

ナポレオンのプロジェクトの失敗は、後世同じように繰り返します。そうした試みが失敗したのは、帝国主義的な方法で民主主義を普及させようとすると「みんなのため」という民主主義の基本理念を実現できないからです。要するに他者を十分に理解してこなかったことに由来する問題です。米国は「他者」を理解することを非常に苦手としています。この問題はこの後にも話になると思うので示唆にとどめますが、(ギリシャとフランスの)二つの失敗は、それぞれ(の民主主義)が十分に普遍的なものではなかったということで説明されるでしょう。

さて2番目の問題について話しましょう。現代の民主主義についてです。今の民主主義の危機を考えると、二つの大きな問題があると言えます。
 
一つ目は、真理と知についての危機です。そして、二つ目が不平等という問題です。二つ目のほうが簡単なので二つ目(の不平等)から話を始めたいと思います。

世界規模でみると、少数の人のみが先ほど言った人権の理念に合致した生活を送ることができています。なぜ少数の人たちがそのような生活を享受できているかというと、残りのものすごく大勢の人たちが、人権の理念に合致しない生活を送っているからです。
 
これは古代ギリシャとまったく同じような状況で、つまりある種の奴隷制が世界規模でみると生じているのです。ただし、今回の場合は、古代ギリシャのように、国内に大勢の奴隷と一部のエリートがいるというわけではなく、先進国のために途上国の人がTシャツを作っているという状況です。そのため、自分たちのために途上国の大勢の人々が仕事をしているという状況が(利益を享受している少数の人間側に)見えない、言ってみればアウトソーシングをしているような状態になっているのが特徴です。
 
そうした状態下での民主主義は普遍的ではありません。この状況は帝国主義的な方法でも解決できません。無理やり解決しようとして(民主主義の理念を帝国主義的に)拡張してしまったら、今度はTシャツをつくる人がいなくなってしまうでしょう。つまり現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっています。

もう一つの問題、つまり真理と知の問題に戻りましょう。私が言おうとしているのは、ポストトゥルースと呼ばれる事態のことです。民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態にあります。これは大統領のようなトップにいる人たちだけではなく、議会に選ばれている政治家たちも含めて、科学的な事実について完全に無知な状態に陥っています。例えばドイツではいま大麻を合法化するかどうかの議論がなされていますが、議論は事実をしっかり調べないままに、国会でただぺちゃくちゃしゃべっているだけの状態になってしまっている。これは事実に基づいて検討するという態度からかけ離れています。
 
だからこそ必要なのは科学者たちであり、さらに言えば哲学者たちです。重要な問題については科学者や哲学者に意見を聞く公聴会が必要なのです。もしこうした公聴会なしに様々な決定がなされていくと、無知で自己中心的な政治家が私たちの生活にかかわる重要な決定を勝手にしてしまうことになります。こうした試みが私たちの民主主義を最終的に破壊することになります。

ここにポピュリズムの矛盾が表れていることに注意が必要です。このポピュリズムの状況を変えるには、きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要です。だからこそ科学と哲学が必要なのです。公共圏を作り出すことができなければ、私たちにはある種の独裁が待ち受けているでしょう。

■ マルクス・ガブリエル×國分功一郎(対談)  
國分功一郎氏:
たくさんの方に来ていただいてうれしく思います。ガブリエルさんにもわざわざ日本に来ていただいた。とてもうれしく思っています。少しだけ全般的な話をしてから、応答に入っていきたいと思います。先ほどこの対談を前に、高久記者から「いま哲学はブームになっていると思いますか」という質問を受けました。確かにガブリエルさんの本がよく売れていて、僕の本もまあまあ売れているのですが(笑)、ちょっとそういうブームがあるのかもしれない。哲学の本が売れる。さらには新聞社主催のイベントでこうして哲学を研究している僕らが話をするとなると、たくさんのお客さんが来て下さる。

 ガブリエルさんは今日、民主主義の危機をテーマに話しましたが、なぜ哲学がブームなのか、仮にブームがあるとすると、やはり危機と対応しているからだと思います。はっきり言って人が幸せに暮らしているときは、哲学はいらないんです。古代ギリシャでもやはり危機が起きたときに哲学が起こりました。プラトンがいたアテナイは、腐りきったアテナイだった。ですからいま哲学が求められているのだとしたら、それはやはり何らかの危機があるのだろうと思います。そして、恐らく今日ここに来ている方は、政治に関しての危機に非常に自覚的な方が多いと思います。きょうは、ガブリエルさんはドイツのボン大学の先生なので、ドイツの話も少しうかがいながらそれについて考えていきましょう。というよりも日本と同じ敗戦国としてスタートしたドイツを日本はしばしば比較対象としてきました。その比較は今でも有効だと思います。日本とドイツはどこが似ていてどこが違うのか。ドイツでは民主主義がどう考えられているのか。そうした点についてもおうかがいしたいと思っています。
 
ではガブリエルさんの講演に応答していきましょう。デモクラシーの本質(ネイチャー)と、デモクラシーがいまいったいどう実行されているかという話を皮切りに、古代ギリシャとフランス革命という例が出されました。強調されていたのはまず「価値」、僕らがどういう価値を民主主義的な価値と思っているのかということです。更に、それはどういう事実に基づいているのかというふうに話が展開され、そこからどういう権利が導き出されるのかというところまで話は及びました。つまり、バリュー(価値)、ファクト(事実)、ライト(権利)がいわば等号で結ばれるような形でガブリエルさんは語られた。哲学はしばしば「自然の発見」によって始まったと言われますが、哲学の役割の一つは、ファクトを発見していくことなのかもしれないと考えました。

さて、ガブリエルさんが依拠された民主主義の価値の中心にあったのは、「平等」だと思います。平等という価値を一番大事なものとして民主主義をとらえているからこそ、古代ギリシャは奴隷がいたからダメだということになる。この平等を考える時、一つ厄介な問題があると思います。先ほどは経済的な平等の話が出ましたが、民主主義における平等という場合には、もう一つ大事な平等があると思います。それは「決定への平等な参加」、つまり「メンバーシップ」の問題です。
 
言い換えれば、「僕は日本国民だから日本国の政治決定に、他の人と同じように平等に関われるはずだ」という権利の問題でもあります。しかし、いまグローバリゼーション下で問題になっているのは、いったいそのメンバーシップをどう確定できるのかということです。「日本国民に平等に決定権があるべきだ」という主張はとてもいい主張に聞こえる。でもそれは他方では、「外国人は入るべきではない」という主張にもなります。

例えば昨年、フランス大統領選の際、マリーヌ・ルペン(フランスの極右政党の候補)が最後まで残って世界を大変驚かせました。彼女は「フランスのことはフランス人が決めよう」と言っていました。よく事情を知らないでルペンの話を聞いているとけっこういい話に聞こえてしまう。僕はどういう人か知っているから「何を言っているんだ」となるけれど、実のところ、上ずみだけ聞いているととてもいいことを言っているように聞こえるのです。決定権における平等の問題が排除と結びつく場合があるという問題がここにはあります。
 
僕らは国民国家をもはやこのまま維持できないということは分かっている。でも他方で、誰にでも決定権を与えてよいという考え方にみんなが賛成するかというと、ちょっと疑わしい。ではどうやって政治的決定権を考えるか、平等なメンバーシップの問題をどうガブリエルさんは考えているのでしょうか。

■「価値と知」「メンバーシップ」について  
ガブリエル氏:
二つのパートに分けて、國分さんのコメントに答えます。まずは、「価値と知」という問題。もう一つは「メンバーシップ」の問題になります。一つ目に関していえば、哲学だけがそうした「知」を明らかにする役割を担っているわけではなく、科学全体、社会学とか政治学とか、物理学とか数学とか、こうしたさまざまな学問がすべていっしょになって「知」を生み出しているわけです。(民主主義のための)「知」は、個々の学問分野がばらばらに生み出すことはできません。物理なら物理、政治なら政治、哲学なら哲学、科学はさまざまな法則を発見し、知を生み出しますが、そうしたものが集まることによって我々が必要とする知を獲得することが出来るのであって、こうした共同的な営みを実現していく必要があります。ただ、こうした共同的な営みはいまのところは起きていません。起きるべきだと私は言っています。それによって哲学は民主主義の実現に貢献することができるでしょう。
 
國分さんは、非常に重要な問題、メンバーシップの問題を提起してくれましたね。この点について完全に同意します。つまり、民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれないということです。国民国家を超えて民主主義が拡張されなくてはならないという発想は、カントが言ったのが有名です。要するに、国民国家というものと民主主義は相いれないものなのです。これはまさに哲学的な洞察で、普遍性という原理からこうした洞察が導かれるわけです。この普遍性原理に基づかない民主主義を実現しようとすると、まさに帝国主義的なやり方になってしまう。まさに(今日の)グローバルなコミュニティーでは、民主主義を実現するためにまったく新しい構造が求められているわけです。

もし国民国家をひたすら維持しようとするならば、多くの国に独裁的なものがうまれるでしょう。他にいくつかの小さな「希望の島」とでも言えるようなものはできるかもしれませんが。なぜかというと私たちが直面している問題を解決することが国民国家ではできないからです。私たちが直面している気候変動であったり、経済的な格差といったりした問題はグローバルな性格を持つものであって、そうしたものに対して、国境を線引きして、ここからこちらは関係ないと線を引いてしまうことはできません。
 
難民や移民は、民主主義という名の下で自分たちの人権を求める権利を持っているわけです。しかし、そうした問題に対して、現在は彼らの人権を否定してしまうような状態になっています。この問題は非常にグローバルな現象ですが、彼らが求めているのはまさに人権を自分たちのものにするということです。彼らはまさに民主主義者と言えるでしょう。
 
ただ現在は移民、難民の問題は、ポピュリストたちに利用されていて、ナショナリストのプロパガンダのために利用されてしまっています。私たちがこの状況において選べる道は二つあります。一つは、こうした状況を鑑みて、国民国家を超えた「グローバルなシチズンシップ」を与える民主主義の形式に転換していくこと。二つ目の選択は、まさに人類を破壊してしまうことです。私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面しているといえるでしょう。

■国民国家と民主主義  
國分氏:
いまガブリエルさんは非常に強い主張をされたと思います。「国民国家は民主主義と相いれない」というものです。非常に強い主張で、これを僕はどういう風に扱ったらいいかなと聞きながら考えていました。一方でもちろん賛成です。カントの「永遠平和のために」という本がすごいのは、何か世界的なルールを作りましょうと言っているわけじゃないところです。カントは、「ホスピタリティー(歓待)」のルールさえあればいいと言っている。市民が互いに世界を行き交っていれば、自然と世界がよくなる、それ以上のルールを作ってはいけないという。これがカントの面白いところで、これが本当に実現されれば、確かに国民国家は薄まっていって、もしかしたらグローバルなシチズンシップにも近づいていくのかもしれません。「移民、難民は民主主義者なのだ」という主張も非常によく分かります。ある意味で、だからドイツは難民を受け入れる決断をして、まさしくカントが言っていたような「歓待」のルールを実践してきたわけです。

 ただ他方で、一足飛びにグローバルなシチズンシップに僕らは行けるのか、とも思います。そこで一つ問題になってくるのは、手紙の中で出した「主権」ということばです。主権というものは非常に扱いが難しい。一方で民主主義は「民衆が主権を行使する」ということを意味します。でも「主権」という概念はやはりどこか怪しくて、本当に自分たちで自分たちのことを統治できるのだろうかという疑いもあるわけです。国民国家という枠を取り払ってしまったときに、いったい主権はどういう形で担われることになるのか。つまり、グローバルなシチズンシップを目指していく中で、主権をどう考えたらいいのだろうか。

というのも、ぼくは「主権」という考え方に懐疑的ですが、今のところ、主権がない政治を思い描けないのです。もしかしたらガブリエルさんは「主権のない政治」みたいなことを考えていますか? 主権についてどういうことを考えているかお聞きしたい。
 
ガブリエル氏:
私も、(その後に)デリダが議論した「歓待」という発想を支持しています。とはいえ、以下では「主権」というテーマの歴史にさかのぼって考えたいと思います。一番有名なのはトマス・ホッブズですが、ホッブズ自身は主権や民主主義というテーマで論じられることが多いものの、彼自身は民主主義者ではなく、むしろ奴隷を所有しました。彼の哲学、政治理論というのは矛盾を含んでいます。

ですから、私たちは政治と主権というものの関係について考え直す、再考する必要があると思います。私たちが民主主義について考えるとき、しばしば「人民の主権」、自分たちで統治する、人々により多くの権力を与える、というかたちで考えがちですが、民主主義というものは、先ほど説明したように普遍的な価値システムなわけですから、主権という概念とは相いれないものです。

なので、主権という概念はいりません。主権なしに新しく民主主義について考える必要があります。ホッブズの場合は、政治的な共同体を内戦の結果として生まれたものとして理解しています。自然状態では人々は闘争をしてしまうので、それを調停するために社会が生まれたと考えるわけですが、こういう考え方をやめる必要があります。実際、主権が存在しなければ人々は自然状態における内戦状態になってしまう、という実証的な裏付けは、ホッブズの主張にもかかわらず、ないわけです。

むしろ、ホッブズの主権理論は、アメリカの先住民族に対するジェノサイドを正当化する目的で、自然状態を早く乗り越えないと内戦が深刻化してしまう、そのため強い主権が必要だ、という奴隷所有者としてのホッブズの主張と結びつけているわけで、そうしたものを受け入れる必要はないのです。

 ■民主主義と主権  
國分氏:
もう一つ、非常に強い主張が出されたと思います。先ほどの「国民国家と民主主義は相いれない」というテーゼに加えて、「民主主義と主権の考え方は相いれない」というテーゼですね。これは僕は今の政治理論の最先端の問題だと思います。先日、僕は憲法学者の石川健治先生と憲法について話しましたが、石川先生も主権概念について非常に強い疑問を呈されていました。やはり正面から理論的に考えると、主権という概念には大いに問題があるのです。まやかしがあると言ってもいい。例えばハンナ・アレントは主権の概念をまったく認めない立場でした。僕の専門分野だと、デリダもずっと主権について批判的な考察をしてきました。だから、すごくよく分かる。

ただ主権を要求しなければいけない場面も間違いなくあるということも一応付け加えておきたいと思います。3年前、僕はフランス留学時代の恩師であるエティエンヌ・バリバール先生がいるロンドンの大学に客員研究員として滞在していたんですが、その時、先生の講演会に行って、同じようなことを質問したことがありました。主権概念に問題があるのはよく分かる。しかし主権を要求しなければならない場合もあるのではないか、と。バリバール先生は、「それは『WHEN(いつ)』と『WHERE(どこで)』の問題だ」とおっしゃいました。やはり場合によっては主権を要求しなければならない。
 
例えば、いま沖縄県で、外国の軍隊の基地が、ものすごくきれいな海を埋め立てて造られています。地元の人の反対の意思があるけれども、本土は基本的に無関心です。僕はしばしば「この国は本当に主権国家なのだろうか」と思います。「基地を造ろうとしている国の『属国』なんじゃないか」と感じるときがある。こういうとき、主権を要求する必要が出てきます。

話を少し展開しましょう。ガブリエルさんの今日の話で印象的なのは、「平等」を非常に大切にされているとともに、「ナレッジ(知)」の重要性を強調されているところだと思います。僕はガブリエルさんに宛てた手紙を、自分が体験した、地元の道路建設をめぐる住民運動から書き起こしました。様々な知識や情報がきちんと共有されない。これは情報公開の問題でもありますが、行政と住民は知識と情報に非対称性があり、住民側からこういう事実があると持っていっても、一方的に「道路をつくる必要がある」と言われてしまう。民主的社会が実現するためには、知識と情報を行政と市民が平等に共有することが非常に重要だと思います。

ただ、ここにパラドックスがあります。ガブリエルさんも政治家の無知について言及されていましたが、そうすると、たとえば専門知識がある人が大臣になるのがよいのだろうかと考えてしまいます。例えばイタリアでは先日、法学者が首相になりました。一見すると、経済学者が財務大臣になるといい気がします。けれどもそれには民主主義的には問題があります。専門知識を根拠として政治家や大臣が選ばれるとなると、それは民主主義的に見て正統なのかということです。もし専門知識を持った人が大臣をやるのがいいならば、選挙をやる意味がなくなってしまう。ここには、専門知識と民主主義的手続きの問題がなかなか一致しないという重大な問題があります。

危機のときには専門知識を持った大臣の方がいい気もします。けれども、これを常態化、恒久化していいのか。もしこれを認めるなら僕らはある意味で民主主義を捨てることになります。けれども他方で、今の世の中でみんなが専門知識を持つことも不可能です。例えば僕は、年金の仕組みなど全然分からないわけです。厚生年金とかもよく分かっていない。自分に関係あるのに(笑)。これはある意味では20世紀頭ぐらい、あるいは19世紀からかもしれませんが、ずっとある「行政国家」がもつ問題です。専門知識が必要だけれども、それがなかなか民主主義の中では共有できない。この問題についてはどうですか。

 ■専門家の意義  
ガブリエル氏:
私が言っていたモデルというのは、別に科学者や専門家がそのまま政治家になって統治をすべきというものではありません。政治家自身も当然、私が言ったような政治家としての地位があるので、それは尊重されなくてはなりません。実際、専門家という点においては、今のシステムでは官僚がいるわけです。官僚が年金などの問題についての専門家として既に存在しており、彼らは終身雇用の立場で、政治家たちよりも長い期間はたらく専門家として機能しています。たまたまドイツでは博士号を持った物理学者のメルケルが首相で、彼女は物理学の専門家でもあるわけですが、それはたまたまであって、そういう人が首相になることを、私が薦めているわけではありません。いずれにせよ、官僚のような専門家は必要なのです。
 
私が言ったのは、公聴会がもっと必要で、重要な問題について公聴会を必ず開かなければならないということです。実際、法律の教授なら法律の技術的で複雑な問題について相談を受けて、公聴会がしばしば開かれているし、経済学の教授なら同じような形で(経済に関する)公聴会に呼ばれています。ところが、哲学の公聴会はどのくらいの頻度で開かれているしょうか。化学だったら、薬学だったらどうでしょうか。こうした問題についても、もっともっと公聴会を開いていく必要がある、というのが私の考えです。

その上で付け加えますが、いままさに話しているこの場も公共の場、「公共圏」ということです。そういう意味ではジャーナリズムも非常に重要です。ここではある種の「分業」があるわけですが、まさに「公聴会」はこうしたかたちでも開かれているといえます。この場で私たちの話を聞いて、みなさんは(市民として)自分なりの意見を形成することが出来るのであって、こうした場をもっともっとつくっていく必要があるでしょう。ですからジャーナリズムは民主主義のために非常に重要なものです。

もう一点あるとすれば、インターネットの問題です。インターネットをどう規制するかが非常に重要になってくるでしょう。なぜかというと間違った情報ばかりでは、しっかりとした公共圏が形成されないので、インターネットを「野性」の「なんでもあり」の状態で放置しておくわけにはいきません。その意味で規制を考えていく必要があります。その上で、主権を含めて民主主義をどうやって実現していくかという問題を考えていかなければなりません。
 
國分氏:
「知識」を通じて考えた問題にもう少し、こだわりたいのですが、公聴会をめぐるガブリエルさんの提案に僕は賛成です。「来るべき民主主義」(幻冬舎新書)という著作で僕が民主主義について提案したことも、とても穏やかなことです。議会は万能でも何でもない。ところが民主主義の話をすると、みんなすぐに議会の話になる。「議会をよくしよう」という。でもそうではなくて、民主主義にはもっと別の、民衆の意思の実現ルートがあっていいはずです。例えば僕が関わった住民投票もその一つだし、公聴会もそう。そうしたいろんなパーツを民主主義に足していって、民主主義的な意思の実現のルートを増やすという提案を僕はしてきました。ですから、今のガブリエルさんの話にすごく共感するところがありました。
 
さきほど行政権力の問題に触れましたが、この点について別の観点から考えてみましょう。行政権力が専門化しているがゆえに極めて強い力を持つというのは、20世紀にずっと指摘されていたことです。「行政国家」という専門用語でこれはずっと論じられてきました。ただ、行政の方が民主的な手続きに先立って動いてしまうことには理由があるというか、必然性もあるんですね。それは何かというと「スピード」の問題です。グローバリゼーション下では信じられないスピードで、災難が国に降りかかってくるわけです。それに対していちいち選挙して代議士を出して、議会で話し合って……ということは正直できない。いまのグローバリゼーション下では、猛スピードで事態が進行するため、どうしても行政権力は強くなります。
 
ドイツというのはある意味で、これを20世紀頭に悲劇的な形で体験した国だと思います。というのも大恐慌が起きて、ワイマール期の民主的な議会は何も決められなくなっていき、どんどん立法権を行政の方に手渡していくということが起こる。そうした結果としてナチズムが出てくるわけです。ナチスによる独裁というのは要するに行政が立法権を持つ、ということです。

行政は法律によって常に規制されているし、規制されなければならないわけですが、自分たちで自分たちのルールを作ってしまうというのは自分たちで好きに出来るということですから、これは行政の「夢」なんですね。ナチズムとは、絶対に実現してはならない行政の「夢」を実現してしまったものとしてみることができます。  民主的な手続きにはスピードの点で劣るという構造的な弱点がある。特に現代では民主主義とスピードの問題を無視できないと思う。これはポール・ヴィリリオ的な問題ですがどう考えますか。(朝日新聞デジタルから引用、後編に続く)
 
つづく

コメント
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●拉致問題の安倍晋三を演出 内閣支持率うなぎ上りの怪

2018年06月19日 | 日記
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重大な岐路に立つ日本―今、私たちは何をしたらいいのか!
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作家的覚書 (岩波新書)
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●拉致問題の安倍晋三を演出 内閣支持率うなぎ上りの怪

不思議なことだが、ここに来て安倍内閣の支持率が不支持率を上回る世論調査が数社から出ている。支持不支持が、逆転までいかないが支持率が下げ止まっている。安倍内閣の支持率と云うもの、安倍晋三が5年半も政権の座にいると、内閣支持率ではなく、安倍晋三個人への評価のバロメータ化しているのが実情のようだ。つまり、最近の内閣支持率調査は、安倍晋三に対する、その時々の時系列な、世間の寸評的要素が強くなったと言えるのだろう。

最近の世論調査の結果を分析する場合、その世論調査の、調査時期と安倍晋三が活動しているように見える“為政活動”がどれだけの時間量、テレビ画面に映っているかが重要なファクターとなり、調査結果に反映するのではないかと考えるようになってきた。そもそも論で言えば、各メディアのお手盛りデータに過ぎないと云う疑念もつきまとうが、それを言ってしまうと、話が続かないので、それはさておこう。

無論日本が、“安倍晋三の主権国家”であることが、自己利益に繋がるコアな支持層と云うものが5~10%あると仮定すると、自国の首相が犯罪者であっても、そのコアな支持率は盤石だ。イタリアのベルルスコーニさんなどは、その典型だったろう。このように考えれば、我が国の神社本庁(日本会議含む)に連なる支持層、警察検察裁判所、右翼新聞・雑誌、ゼネコンなど財政出動で潤う業界、原発関連事業者、軍産複合性の強い企業などからは、安倍主権は絶対的支持が得られていると考えるべきだろう。

おそらく、上述強固な支持層が安倍晋三と云う男が首相でいることが好ましいと、自己利益と合致する点で、確信的に支持に傾き、10%前後の岩盤支持を固定化していると考えられる。しかし、最近の安倍内閣の支持率の平均値を40%前後と仮定すると、残り30%が流動性のある支持率となる。また、この流動性ある支持率の中には、取りあえず「自民党」という支持率10%近く含まれるので、差し引き、流動性のある支持率は20%前後と見ていいだろう。

では、この20%の流動性のある支持率を決定するものは何なのか、と云う問題になる。この政治的無関心層や政治リテラシーの貧弱層においては、メディアからの影響を強く受ける人々と分類することが出来る。これらの人々の多くは、呆然と見ている各局のニュース番組から、安倍晋三を評価しているのが現実だ。夜7時のNHKニュースなどが代表的だ。この番組で、安倍晋三が政治外交を熱心にやっているような印象操作された映像が流れれば、安倍晋三も頑張っているようだと、当面支持する傾向がある。

彼らの多くは、流されたニュースの内容を吟味するだけの、政治リテラシーは乏しいので、安倍晋三が堂々としてさえいれば、その発言内容がデタラメでも、虚言であっても、矛盾だらけでも、その瞬間堂々としているように見える限り、支持と答える。安倍晋三は、実は、これこれ然々の疑惑があり、奥さんも相当のものらしい。安倍さんの外交なんてものは、朝令暮改も甚だしく、自分の考えなどなく、その時の風向きで南でも北でも、東でも西でも見てしまう。そんな話をすれば、半数は、じゃあ不支持だ、と言いそうな人々である。

つまり、風見鶏支持層と云うことだ。ただ、この風見鶏支持層は、米国に飛んで行って、トランプ大統領と会談して、北朝鮮・金委員長に日本人の拉致問題を提起して貰えるよう直談判にした風にニュースが伝えれば、“頑張っているじゃないか”と支持を表明する支持層である。ほんの一カ月前には「北朝鮮に対しては、国際社会は一致して最大限の圧力を加えなければならない。非核化については、全ての計画を検証可能かつ不可逆的な方法で放棄させなければならない」と最後まで強調していたのが安倍晋三だった。拉致被害者の家族たちはヒヤヒヤした気持で聞いていたに違いない。

しかし、南北会談、米朝会談が行われたことで、“蚊帳の外”になることを怖れた安倍晋三は、「日朝会談」というイベントを思いついた。そして、NHKニュースや民放テレビを通じて、八面六臂の働きをしている印象を植えつけた。おそらく、この時期と前述の支持率アップは重なっていると思われるので、それほど不思議な結果ではない。今の一般的日本人は、“拉致被害と北朝鮮”が、日本の外交上、最も重要な懸案事項のように、長期にわたる刷り込みが行われていたので、その解決に、安倍が主動したと錯覚しての支持になっている。

実際問題、安倍晋三が金正恩と会える道筋は見えていない。未確認の情報だが、安倍晋三は、日朝交渉の担当窓口に、なんと北村滋内閣情報官を充てるつもりらしい。元公安で、朝鮮総連などから目の敵にされている、“官邸のアイヒマン北村”を窓口にすると云うのだから吃驚だ。おそらく、北朝鮮との窓口に元CIA長官ポンぺオ氏だったことにヒントを得たようだが、CIAの能力と日本の公安では格が違い過ぎて、話は一歩も進まなくなるだろう。まぁ、はじめから会談がセットされることを望んでいない可能性すらある。

小泉純一郎でさえ、北朝鮮まで行って日朝会談をしたわけだから、“拉致の安倍”である以上、会談がセットされたら訪朝の勇気が必要になる。そして、肝心の拉致問題は、あまり喜ばしい結果を得ることはなく、戦後賠償問題だけが際立つリスクが高いことくらいは、安倍官邸自体は知っているだろうが、安倍晋三は、やる気満々の演技に勤しんでいるのが現実だろう。ただ、トランプ大統領が、日本に早目に北朝鮮復興の資金提供を画策して、金正恩ロケットマンを嗾ける可能性は大いにある。以下は、気になった記事を二つ掲載しておく。


≪ 安倍内閣の退陣求める声明 高村薫さんら「七人委員会」
 作家の高村薫さんや写真家の大石芳野さんら文化人や科学者ら7人でつくる「世界平和アピール七人委員会」は6日、「安倍内閣の退陣を求める」と題する声明を発表した。「国民・国会をあざむいて国政を私物化し、外交においては世界とアジアの緊張緩和に背を向ける安倍政権を許容できない」として、安倍内閣の即時退陣を求めている。
 委員会は1955年、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士らが結成。現在は国際政治学者の武者小路公秀さんや宇宙物理学者の池内了さんらが委員を務める。内閣の即時退陣を求める声明は発足以来初めてという。
 世界平和アピール七人委員会が6日に「安倍内閣の退陣を求める」の題で発表した声明全文は以下のとおり。委員は武者小路公秀、大石芳野、小沼通二、池内了、池辺晋一郎、高村薫、島薗進の各氏。
 5年半にわたる安倍政権下で、日本人の道義は地に堕(お)ちた。
 私たちは、国内においては国民・国会をあざむいて国政を私物化し、外交においては世界とアジアの緊張緩和になおも背を向けている安倍政権を、これ以上許容できない。
 私たちは、この危機的な政治・社会状況を許してきたことへの反省を込めて、安倍内閣の即時退陣を求める。
 ≫(朝新聞デジタル)



 ≪ 作家・中村文則氏が警鐘 「全体主義に入ったら戻れない」
 ウソとデタラメにまみれた安倍政権のもと、この国はどんどん右傾化し、全体主義へ向かおうとしている――。そんな危機感を抱く芥川賞作家、中村文則氏の発言は正鵠を射るものばかりだ。「国家というものが私物化されていく、めったに見られない歴史的現象を目の当たりにしている」「今の日本の状況は、首相主権の国と思えてならない」。批判勢力への圧力をいとわない政権に対し、声を上げ続ける原動力は何なのか、どこから湧き上がるのか。

 ――国会ではモリカケ問題の追及が1年以上も続いています。

 このところの僕の一日は、目を覚ましてから新聞などで内閣が総辞職したかを見るところから始まるんですよね。安倍首相は昨年7月、加計学園の獣医学部新設計画について「今年1月20日に初めて知った」と国会答弁した。国家戦略特区諮問会議で加計学園が事業者に選ばれた時に知ったと。これはもう、首相を辞めるんだと思いました。知らなかったはずがない。誰がどう考えてもおかしい。ついにこの政権が終わるんだと思ったんですけど、そこから長いですね。

 ――「現憲法の国民主権を、脳内で首相主権に改ざんすれば全て説明がつく」とも指摘されました。

 首相が言うことが絶対で、首相が何かを言えばそれに合わせる。首相答弁や政権の都合に沿って周りが答弁するだけでなく、公文書も改ざんされ、法案の根拠とする立法事実のデータまで捏造してしまうことが分かりました。この国では何かを調べようとすると、公文書や調査データが廃棄されたり、捏造されている可能性がある。何も信用できないですよね。信用できるのはもう、天気予報だけですよ。後から答え合わせができますから。安倍首相の言動とあれば、何でもかんでも肯定する“有識者”といわれる人たちも、いい大人なのにみっともないと思う。

 ――熱烈な支持者ほど、その傾向が強い。

 普通に考えれば、明らかにおかしいことまで擁護する。しかもメチャクチャな論理で。この状況はかなり特殊ですよ。この年まで生きてきて、経験がありません。

■安倍政権が知的エリート集団だったらとっくに全体主義

 ――第2次安倍政権の発足以降、「この数年で日本の未来が決まる」と警鐘を鳴らされていましたね。

 これほどの不条理がまかり通るのであれば、何でも許されてしまう。「ポイント・オブ・ノーリターン」という言葉がありますが、歴史には後戻りができない段階がある。そこを過ぎてしまったら、何が起きても戻れないですよ。今ですら、いろいろ恐れて怖くて政権批判はできないという人がたくさんいるくらいですから、全体主義に入ってしまったら、もう無理です。誰も声を上げられなくなる。だから、始まる手前、予兆の時が大事なんです。

 ――そう考える人は少なくありません。総辞職の山がいくつもあったのに、政権は延命しています。

 安倍政権が知的なエリート集団だったら、とっくに全体主義っぽくなっていたと思うんです。反知性主義だから、ここまで来たともいえますが、さすがにこれ以上の政権継続は無理がある。森友問題にしろ、加計問題にしろ、正直言って、やり方がヘタすぎる。絵を描いた人がヘタクソすぎる。こんなデタラメが通ると思っていたことが稚拙すぎる。根底にはメディアを黙らせればいける、という発想もあったのでしょう。

 ――メディアへの圧力は政権の常套手段です。

 実際、森友問題は木村真豊中市議が問題視しなかったら誰も知らなかったかもしれないし、昨年6月に(社民党の)福島瑞穂参院議員が安倍首相から「構造改革特区で申請されたことについては承知していた」という答弁を引き出さず、朝日新聞が腹をくくって公文書改ざんなどを報じて局面を突き破らなかったら、ここまで大事になっていなかった。一連の疑惑はきっと、メディアを黙らせればいい、という発想とセットの企画のように思う。本当に頭の良い、悪いヤツだったら、もっとうまくやりますよ。頭脳集団だったら、もっと景色が違ったと思う。
 だいたい、メディアに対する圧力は、権力が一番やってはいけないこと。でも、圧力に日和るメディアって何なんですかね。プライドとかないのでしょうか。政治的公平性を理由にした電波停止が議論になっていますが、止められるものなら、止めてみればいいじゃないですか。国際社会からどう見られるか。先進国としてどうなのか。できるわけがない。

■モリカケ問題は犯人が自白しない二流ミステリー
 ――安倍首相は9月の自民党総裁選で3選を狙っています。

 これで3選なんてことになれば、モリカケ問題は永遠に続くでしょうね。安倍首相がウソをつき続けているのだとしたら、国民は犯人が自白しない二流ミステリーを延々と見せられるようなものですね。  

 ――北朝鮮問題で“蚊帳の外”と揶揄される安倍首相は外遊を詰め込み、外交で政権浮揚を狙っているといいます。

 “外交の安倍”って一体なんですか? 誰かが意図的につくった言葉でしょうが、現実と乖離している。安倍首相が生出演したテレビ番組を見てビックリしました。南北首脳会談で日本人拉致問題について北朝鮮の金正恩(朝鮮労働党)委員長が「なぜ日本は直接言ってこないのか」と発言した件をふられると口ごもって、「われわれは北京ルートなどを通じてあらゆる努力をしています」とシドロモドロだった。あれを聞いた時、度肝を抜かれました。この政権には水面下の直接ルートもないのか。国防意識ゼロなんだ、って。

 ――中国と韓国が北朝鮮とトップ会談し、米朝首脳会談が調整される中、日本は在北京の大使館を通じてアプローチしているだけだった。

 ミサイルを向ける隣国に圧力一辺倒で、あれだけ挑発的に非難していたのに、ちゃんとしたルートもなかったことは恐ろしいですよ。それでミサイル避難訓練をあちこちでやって、国民に頭を抱えてうずくまれって指示していたんですから。安倍首相は北朝鮮の軟化をどうも喜んでいない気がする。拉致問題にしても、アピールだけで、本当に解決したいとは思っていないのではないか、と見えてしまう。拉致問題で何か隠していることがあり、そのフタが開くのが怖いのか。北朝鮮情勢が安定してしまうと、憲法改正が遠のくからか。

 ■萎縮して口をつぐむ作家ほどみっともないものはない
 ――内閣支持率はいまだに3割を維持しています。

 要因のひとつは、安倍首相が長く政権の座にいるからだと思います。あまり変えたくない、変えると怖いなという心理が働いたりして、消極的支持が増えてくる。政権に批判めいた話題をするときに、喫茶店とかで声を小さくする人がいるんですよね。森友学園の籠池(泰典)前理事長の置かれた状況なんかを見て、政権に盾突くと悪いことが起こりそうだ、なんだか怖い……という人もいるのではないでしょうか。マスコミの世論調査のやり方もありますよね。電話での聞き取りが主体でしょう。電話番号を知られているから、何となくイヤな感じがして、ハッキリ答えない、あるいは支持すると言ってしまう。ようやく、不支持率が支持率を上回るようになってきましたが、正味の支持率は今はもう、3~5%ぐらいではないでしょうか。

 ――政権批判に躊躇はありませんか。

 政権批判をして得はありません。ハッキリ言って、ロクなことがない。でも社会に対して、これはおかしいと思うことってありますよね。僕の場合、今の状況で言えば、そのひとつが政権なんです。この国はこのままだとかなりマズイことになると思っている。それなのに、萎縮して口をつぐむのは読者への裏切りだし、萎縮した作家ほどみっともないものはない。
 歴史を振り返れば、満足に表現できない時代もあった。今ですら萎縮が蔓延している状況ですが、後の世代には自分の文学を好きなように書いてもらいたい。それには今、全体主義の手前にいる段階で僕らが声を上げる必要がある。これは作家としての責任であって、おかしいことにおかしいと声を上げるのは、人間としてのプライドでしょう? それに、今の情勢に絶望している人たちが「この人も同じように考えているんだ」と思うだけでも、救いになるかなと思うんです。いろんな立場があるでしょうが、僕は「普通のこと」をしているだけです。 (聞き手=本紙・坂本千晶)

▽なかむら・ふみのり 1977年、愛知県東海市生まれ。福島大行政社会学部卒業後、フリーターを経て02年、「銃」でデビュー。05年、「土の中の子供」で芥川賞、10年、「掏摸〈スリ〉」で大江健三郎賞。14年、ノワール小説に貢献したとして米国デイビッド・グーディス賞を日本人で初めて受賞。16年、「私の消滅」でドゥマゴ文学賞。近未来の全体主義国家を生々しく描いた近著「R帝国」が「キノベス!2018」で首位。
 ≫(日刊ゲンダイ:注目の人・直撃インタビュー)


私の消滅
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文藝春秋

 

掏摸(スリ) (河出文庫)
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河出書房新社

 

土の中の子供 (新潮文庫)
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新潮社
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●「戦後の国体と安倍長期政権」 昭恵夫人は皇后の倒錯

2018年06月18日 | 日記
国体論 菊と星条旗 (集英社新書)
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集英社

 

石橋湛山:思想は人間活動の根本・動力なり (ミネルヴァ日本評伝選)
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ミネルヴァ書房

 

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)
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岩波書店


●「戦後の国体と安倍長期政権」 昭恵夫人は皇后?の倒錯

今上天皇と安倍天皇、今上皇后と昭恵皇后。天皇制とホワイトハウス、安倍官邸とホワイトハウス。今の日本は“倒錯の時代”に突入しているのかもしれない。政治学者・白井聡が的確に、その実像に迫っている。今夜は時間がないので、AERAの参考記事を掲載しておく。

白井氏は、的確に、戦後の国体のメカニズムを短い言葉でまとめている。戦後の精神的敗北感と戦後復興、朝鮮特需、高度経済成長、その中で、日本の社会の支配層が構成され、その支配層は、すべからく、米国を天皇と見立てて生き、現在の地位を確立している。つまり、現在の日本の支配階級は、この米国天皇説の上に成り立っている現実だ。

つまり、このまま日本の支配層に任せて国を運営していれば、永久属国と云うことなのだろう。ただ、この永久属国論は、天皇が米国から中国に変ることをも暗示していることは、白井氏は語っていない。インタビュー記事を読んで興味を持たれた方は、白井氏の『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)の購読をお薦めする。


≪政治学者・白井聡が語る〈安倍政権の支持率が下がらない理由とその背景〉

【白井聡(しらい・さとし) 1977年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。専門は社会思想、政治学。京都精華大学人文学部専任講師。おもな著作に『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版・石橋湛山賞、角川財団学芸賞受賞)など】

 森友・加計問題で次々と新事実が明らかになり、安倍晋三首相をはじめ、担当大臣や官僚が野党やメディアから徹底的に追及を受けている。だが、メディア各社の世論調査では、安倍内閣の支持率は38.9%(共同通信、5月14、15日調べ)で、倒閣運動が始まる「危険水域」の前で安定している。
 文書改ざんや国会での「記憶がない」「メモがない」発言など、国民への説明をかたくなに拒否する安倍政権が、なぜ支持を集めているのか。
 そういった問いに、正面から切り込んだ著書が話題を集めている。政治学者・白井聡氏の『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)だ。発売から約1カ月で、政治の本としては異例の5万部を突破するベストセラーになっている。
 白井氏によると、今の日本人は「戦後の国体」に支配されているという。それは一体、どういう意味なのか。インタビュー前編。

* * *

──安倍政権とは、戦後日本の歴史でどのような存在なのでしょうか。

(白井聡氏、以下回答部分は同じ)
 これだけの腐敗と無能をさらけ出しているにもかかわらず、安倍政権が長期本格政権になってしまった。日本はすでに破局を迎えているのではないでしょうか。
 政権の常軌を逸したひどさが日々刻々と証明されてきたにもかかわらず、支持率の動きは底堅い。これが示しているのは、自分たちの社会が破綻しているということからも、劣悪な支配が進んでいるということからも目を背けている人々が数多くいる、ということです。
 新著『国体論 菊と星条旗』で論じたことですが、現代は戦前のレジームの崩壊期を反復している時代です。あの時代を今から振り返ると、「この時期の日本人て、何やってんだ? バカじゃないのか?」と私たちは感じるわけですが、崩壊期というのはそういうものなのでしょう。安倍政権もそれを支持してきた日本社会も、こうした時代にふさわしい状態にある。

──そのことと、「国体」とはどう関係するのでしょうか。

 端的に言うと、「国体」のなかで育てられた人間は、自由を知らず、民主制における政治的主体になり得ないのです。
 一般に国体と言えば、「万世一系」の天皇を家長とし、その子である臣民で構成された共同体という物語です。こうした家族国家観は、家族の間に支配はない、と「支配の否認」という心の構造を日本人に埋め込んでしまった。
 もちろん、戦前の国体は、敗戦を契機に粉砕されたことになっていますが、実際にはそれは戦後も途切れていないと私は考えています。
 では、「戦後の国体」とは何か。それは、敗戦後に米国が天皇に変わって頂点を占めるようになった支配構造です。よく知られているように、GHQは日本を円滑に統治し、親米国へと作り変えるためには天皇制を残すべきと決めました。それは、熱心な研究の末に彼らが得た結論でした。その結果、「米国に支配されている」という事実が曖昧なものになっていきました。
 やがてそれは、長い時間を経て「自発的に米国に従属し、かつ、そうしていることを否認する」という日本人を生み出しました。日本が世界に類をみない対米従属の国であるのは、被支配の事実を今の日本人がちゃんと認識していないことです。
 支配されていること、つまり不自由を自覚するところから自由への希求と知性の発展が始まりますが、そもそも支配されているとの自覚がなければ、何も始まらず、奴隷根性だけがはびこります。「支配の否認」を続けている限りは、日本はこの閉塞感から抜け出すことも、さらなる破局を逃れることもできないでしょう。

──安倍政権は米国との協調姿勢をアピールしています。

 安倍首相は、皇居にいる今上天皇よりも、米大統領を天皇のように扱っています。ゴルフ場で安倍氏がバンカーに転げ落ちた後、必死にトランプ氏に追いすがる姿は象徴的でしたね。こんな国辱的外交を「外交の安倍」などとメディアは評している。
 こういう具合に、対米従属レジームの親分である安倍首相が米大統領を権威として崇めることが当然視されている一方で、同じその親分は今上天皇の譲位の意思表明に対してどういう態度をとったか。
 退位をめぐる有識者会議では、日本会議系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」との発言があり、天皇が「批判をされたことがショックだった」と話していたことが、毎日新聞の記事で明らかになりました(宮内庁は発言を否定)。宮内庁筋からは「陛下の生き方を全否定するものだ」という最高度の非難の言葉も出てきた。
 さきほど言ったように、戦後国体はGHQが天皇制を利用することで形作られた、つまりは天皇と米国が一体化したような国体が生まれたわけですが、ついに日本の保守派にとって、天皇制の頂点を占めるものは明白に米国になったということです。
 だとすると、東京に居る天皇は何なのだということになる。存在意義がなくなってしまう。そうした文脈から昭恵夫人の言動を見ると、興味深いですよ。
 昭恵さんの「私は天皇陛下からホームレスまで誰とでも話しができる」という発言を知って、私は驚愕したわけです。これって、「私は日本国民の一番上から一番下までつながれる、上から下までみんな私を通してつながる」という話で、それはつまり「私は国民の統合をつくり出せる」と言っているわけです。首相が天皇(米国)の代官をやっているうちに、首相夫人は自分が皇后陛下だ、みたいな気分になってきたようですね。  
 こういう具合に、末期的症状はここかしこに見えてきています。しかし、だからといって、国体が自然消滅したりはしないでしょう。「戦前の国体」の最期がどういうものだったか、想い起すべきです。
 1945年の敗戦の時、国家指導層は「国体護持」のみをひたすら目指したために、犠牲を増やし続けました。明治維新から1945年の敗戦までが77年。そして、2022年には、戦後も同じ77年目を数えることになります。いよいよこれから「戦後の国体」の断末魔の時期に差し掛かって来るのではないでしょうか。
 続く


≪政治学者・白井聡が語る〈日本を再び破滅に導く「戦後国体」の正体〉
 北朝鮮が韓国、米国、中国など各国の首脳と次々に直接交渉を開始しているなか、日本の安倍晋三首相は「蚊帳の外」に置かれている。「外交の安倍」を自認していたにもかかわらず、激動するアジア情勢で主導権をまったく発揮できていない。なぜこんな状態になっているのか。
 政治学者・白井聡氏によると、そこにも「戦後の国体」に支配された日本人の呪縛があるという。そのことについて白井氏が分析した『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)は、発売から約1カ月で政治本としては異例の5万部を突破するベストセラーになっている。
 なぜ、日本人は「戦後の国体」に支配されているのか。また、その呪縛から解放される日は来るのか。インタビューの後編をお届けする。

* * *

──しかし、戦争に負けた日本は米国との同盟関係によって再出発し、復興を成し遂げました。

 その通りです。戦後の日本の再出発には、東西対立の状況下で論理的には3つの道がありました。一つはソ連の子分になる道で、これは最もとってはいけなかったし現実的でもなかった選択。二つ目が米国の子分になることです。現実に選択された道です。そして、三つ目の道が、どちらの子分にもならずに、独立自尊の新しい日本国家を作るという道です。
 三つ目の道を目指した政治家に、石橋湛山がいます。石橋は、戦後の保守政治家でありながら、戦前・戦中の言動以外の理由で唯一公職追放になった存在です。石橋は独立の精神が強く、GHQと進駐軍経費問題などで激しく対立したためにらまれたのです。米国からすれば、石橋が1956年に自民党総裁に選ばれ首相になったことは、悪夢だったはずです。しかし、石橋は病気のために約2カ月で退陣して、元A級戦犯の岸信介が登板。彼が60年安保という危機を乗り切って、対米従属路線を確定させました。「戦後の国体」の基礎が確立され、高度成長の軌道に乗ることができたわけです。

──「戦後国体の安定期」には、何が起きたのでしょうか。

 あるべき国家像が消えたということです。独立不羈の国を目指しても、現実には米ソ冷戦のまっただ中で日本中に米軍が駐留している。そんな現実に対する拒絶の反応は、70年代前半まではありました。それが、日米同盟の恩恵として高度経済成長を成し遂げたことで、同盟関係を傷つけてまで独立不羈(どくりつふき)の国になる道にリアリティーがなくなってしまった。対米従属を通して経済大国にまでなったわけですから。同時に、米国による支配の構造が不可視化されるに至りました。こうして戦後の国体は盤石の安定を得たということです。

──すでに冷戦は終わりました。今なら新しい形での「日本の独立」ができるのではないでしょうか。

 論理的にはその通りですが、それは簡単なことではありません。なぜなら「国体」は、人間の思考を停止させるからです。本来であれば、冷戦が終わった時期に独立についての議論が再び起きて当然でした。しかし、そうはならなかった。なにせ、被支配の現実が見えなくなったのですから、支配から脱しようという発想も出て来ようがない。こうして、もともと対米従属は敗戦の結果余儀なくされたものであり、復興のための手段であったはずが、自己目的化するに至ります。そうなると、自分の頭で考える能力も意欲も失われてきます。
 例を挙げると、日本人は北朝鮮に対して拉致問題の解決を強く求めています。もちろんそれは当然のことですが、あのひどい事件が起こされた背景としての朝鮮戦争がまだ終結していないという事実は、どういうわけか意識にのぼってこない。
 北朝鮮にとって直接の敵国が韓国と米国なら、米国と協力している日本は準敵国です。だから、拉致問題を解決する根本的方法は、戦争状態の終結です。ところが、小泉元首相の訪朝以来、どの政治家も米国や北朝鮮に戦争終結を働きかける努力をしてこなかった。
 いまも政府は、「核・ミサイル・拉致の包括的解決」を訴えていますが、朝鮮戦争を平和的に終わらせようとは政府の誰も言わない。つまり、「戦後の国体」の支配者層は、朝鮮戦争が終わることを望んでいないのです。終わってしまうと米軍駐留の理由のひとつが消滅してしまうからです。ことほど左様に、何が何でも自発的従属を続けたいということなのです。

──私たちが知らない間に刷り込まれている「戦後国体」から脱却するためには、どうすればいいのでしょうか。

 これは難しい問題です。一つ言えることは、「結局は個人の質にかかっている」ということです。森友・加計問題では、特定のメディアが追及を続けています。これは、組織で動いているというよりも、一人一人の記者が頑張っている。官僚からのリークもあると推察しますが、そうした行動は、「これではダメだ」という個人の信念に基づくものでしょう。伊藤詩織さんのように、レイプ事件を安倍政権によってもみ消されたという疑惑を、あらゆる嫌がらせに遭いながら訴え続けている人もいる。  魔法の薬はないのです。今日の社会の歪みを修正できるかどうかは、こうした筋を通すことのできる個人がどれくらいいるかにかかっているでしょう。

──二度目の敗戦を避けることはできないのでしょうか。

 3.11の原発事故からも明らかですが、私たちはもうすでに破産しています。しかし、先ほども述べたように、「戦後の国体」の受益者たちは、自らの権益を維持するために、国体を守り抜こうとするはずです。そのために社会や人々がどれほど不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。社会の側が止めない限り、彼らはそうするでしょう。
 天皇制に話を戻せば、天皇は退位に関する会見のお言葉には「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」との呼び掛けが含まれていました。穏やかな姿の中に、とても激しいメッセージが込められていたと私は理解しています。『国体論 菊と星条旗』は、この呼び掛けに対する私なりの応答でもあります。 「戦後の国体」から自由になって物事を考えるには、歴史を理解する必要があります。本を読んでくれた方が「考えるヒント」を得てくれたら、とてもうれしいです。(終)
 ≫(構成/AERA dot.編集部・西岡千史)

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