アメリカはイスラム国に勝てない (PHP新書) | |
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●欧米プロパガンダ報道どっぷりのメディア 欧米だけが世界じゃない
イスラム主義が、如何にも悪玉で、キリスト主義が如何にも善玉。こういう言説につき合のは、幾分飽き飽きしてきている。イスラムが悪いのではなく、アルカイダ系のテロ組織が悪いのだと尤もらしい正義論を語りながら、結局は、イスラム圏諸国の人々に憎悪が向くようにしているのは、西側のマスメディアであり、欧米主義の政治家達である。どのような形態を擬するか別にして、西洋文化とイスラム文化の対立を煽る発言であり、大衆(マス)の感情的行動である。
そもそもマス(大衆、mass)と云うものは、と簡単に書きたいところだが、実は非常に社会学上、難問である。だから、あまり書きたくはないのだが、敢えて書くとしたら、「空気」に抗えない人々、群衆と云うことになる。非常に曖昧な使われ方をするので、一概に括るのは難しい。政治学、社会学などの社会科学分野においては「大衆、mass」は匿名性を帯びた無責任な集団としての意味合いを持ち、顕名性をもつ「市民、citizen」との対比で用いられる。その意味では、愚か者の群れとも言えるが、絶対断言的でもない。
蛇足だが、「マス」と云えば習慣的には、誰でもするからマスかいなと思うが、さにあらず(笑)。あの旧約聖書におけるオナンの行為からオナニーと云う言葉が生まれ、ラテン語ではマスターベーションと云うのだが、ここで云うマスは「manus、手」と「turbare、乱す」の合成語なので間違わないように(笑)。あくまで、マスは(大衆、mass)を表現するだけの言葉である。
Wikipediaによると、
≪大衆に属すると考えられる人々は、しばしば没個性的で、同種の他人と混同されやすい存在であるとみなされる。全体として「突出した能力」や「傑出した容姿」または「類稀なる才能」場合によっては「不快極まりない悪癖」や「言語道断なる害意」を持ち合わせていない存在などとされる。何等かの存在を際立たせるための対義語として使用され(英雄・指導者・エリートに対する大衆、など)己の優位性を喧伝するために、他を貶める意図で用いられるケースが見られ、しばしばネガティブな意味を持つ語と認識される場合がある≫
となり、また
≪オルテガによれば『大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである』とされる。しかしけっして愚鈍ではなく、上層階層にも下層階層にも大衆はおり、その全体として「無名」であることを特徴とする。大衆の特権は自分を棚にあげて言動に参加できることであり、いつでもその言動を暗示してくれた相手をほめ尽くし、またその相手を 捨ててしまう特権を持つ。大衆とは「心理的事実」であり、大衆にはどこまでいっても罪はない。ゆえに大衆の動きや考えが何かに反映され、それが社会の「信 念」だと判断すると重大な問題が生じる、とする。以下はオルテガの観点からの要約であるが、大衆の定義はかならずしもこれに限定されるものではない。≫
となる。
大衆に対比する意味では「公衆」と云う言葉を吟味しても良いだろう。まあ、ここでは、マス大衆がどのようなものか深く詮議するつもりはない。本題は、世界的に作られる「空気(時流)」と云うものに“掉さす”べきか、“水を差す”べきか、おそらくは価値観の違いだろう。最近では“流れに掉さす”が流れを止めるような行為と云った逆さまな解釈もはびこっているので、とてつもない時代が来ているわけだが、これも蛇足のたぐいだ(笑)。今日は、小生は横道に逸れすぎてイカンね。まあ、そんなことを考えながら、朝日の記事と、ロシアNOWのオピニオンは連動対比的な扱いだな?とよく理解出来る。よくよく吟味して読まれると面白い。
≪ 宗教風刺画「違法の可能性」 ロシア側、報道機関に警告
ロシアの政府機関は16日、信仰心を侮辱するような風刺画をマスコミが掲載することは、法律違反になる可能性があるという見解を示した。名指しは避けているが、フランスのシャルリー・エブド紙に掲載された風刺画を転載しないよう報道機関に求める内容だ。 見解は、連邦通信・情報技術・マスコミ監督庁の公式サイトに掲載された。それによると、「宗教をテーマとした風刺画は、信者の尊厳に対する侮辱や、民族間・宗教間の憎悪の扇動とみなされ、『マスメディア法』や『反過激活動法』に違反する可能性がある」と指摘している。一方で、同庁は過激主義やテロリズムに反対する人たちへの「無条件の連帯」も表明した。
同庁は宗教風刺について、多民族、多宗教のロシアで何世紀もかけて作られてきた倫理的、道徳的規範に反するとも指摘した。
パリのテロ事件後、ロシア国営ニュースチャンネルは、シャルリー・エブド紙の表紙にぼかしを入れて放映。主要紙の多くも風刺画の転載は控えている。 ≫(朝日新聞デジタル:モスクワ=駒木明義)
≪ 二つの中世の衝突
【 イスラム過激派による仏週刊紙「シャルリー・エブド」のパリ本社銃撃事件は、二つの古い伝統が互いを理解しなかったことから生じた悲劇だ――。芸術学者グリゴリー・レヴィジンはそう考える。】
イスラム過激派が、言論の自由というヨーロッパの神聖な権利を攻撃した――パリの悲劇をこう解釈するのは正しくないと私は思う。そもそも「シャルリー・エブド」が言論の自由を体現するかのようにみるのが間違いだと思うのだ。もし、そうみなすとすれば、言論の自由は、無意味な卑猥を作り出すために必要であることになる。
もしあなたが、この雑誌のカリカチュアを見たことがあれば、私が何を言っているか分かるだろう。それらは、芸術的コンセプトからいっても、思想の深みからいっても、また言語表現からいっても、トイレの落書きと似たようなものだ――テーマ的にはもうちょっと広いけれども。いずれにせよ、言論の自由というものは、神と教会について、国家と家族について、偉大な人物と卑小な人間について、下品なことを喋り散らすためにあるのではない。
■ カリカチュアの背景に中世の笑いの文化
言論の自由は、啓蒙思想の著作や憲法によって18世紀から導入(または制限)されてきた。しかし今ここで問題になっているのはもっと古い代物だ。もし、フランスというのがどういう国か知らなければ、なぜ現代の文明国家にこんな雑誌があるのか、さっぱり分からないだろう。フランスとはヴィヨンとラブレーの国、地獄の醜悪極まる、コミカルな事物を表したゴシック彫刻、教会古文書の余白の卑猥な書き込み…の国だ。
カリカチュアは、中世の笑いの文化から生じたのであり、その作者は、演説家でも哲学者でも全然ない。それは、カーニバルの伝統から生まれた道化、天才的な「卑猥屋」なのだ。 なるほど、 革命期にカリカチュアが果たした役割から、それが欧州における自由の「ディスクール」の一部をなすにいたったのは確かだ。だがそれは、両者が同一物であることを意味しない。カリカチュアはもっと古い自由の現象で、文明のくび木からの解放、人間の内なる獣性の解放なのである。
それが、欧州のカトリック圏における歴史の偶然により(といってもいいだろう)、聖職者自身も、笑いの文化の担い手となったのだ。これはかなりユニークな現象で、そこからさらに数多くの重要な現象が派生した。欧州の自由のラジカリズムは、まさにこうした 状況と結びついているのだが、それはまた別の話だ。
なるほど、イスラム文化においても、民衆の笑いの文化は欧州に劣らず発達している。トルコの人形芝居 (最高に卑猥だ)やナスレッディン・ホジャ(トルコ民話の登場人物)を思い出すだけで十分だろう。だが私の知る限りでは(間違っているかもしれないが)、 こういう民衆の卑猥な笑いは、スルタン、大臣、商人、僧(ただしイスラムには仏教のような出家・在家の区別はない)には浴びせられるが、預言者、義人のカリフ、シャリーア(イスラム法)は別だ。イスラムの長老は、笑いの文化の担い手にはならなかった。なぜかは知らない。
■二つの中世的伝統
二人のイスラム過激派によるジャーナリストの惨殺は、現代ヨーロッパの「自由」と中世的野蛮さが衝突したものとみなし得る。この銃撃が恐るべきものだったことに異論はなく、私自身、昨日フランス大使館に出向き、献花してきた。また私は、欧州の自由が攻撃 されたとの見方にも賛成だが、ただしそれは現代の自由ではない。
渦中にない芸術学者の目からこの事件を見ると、二つの中世がぶつかったように思える。これは、二つの古い伝統が互いを理解しなかったことから生じた悲劇だ。そして、その伝統は、民族的、宗教的な核心部分に入り込んでいるのであって、現代的意識にではない。
一方の伝統では、神に向かって――もし神が人間を死すべきものに定めたのなら――尻を突き出してもかまわないし、その必要もあるとされる。だが、もう一方の伝統は全然違う!そんなことをしてはならぬ――魂を与えてくれた者に身体の一番汚い部分を突き出すなど言語道断だ。
言うまでもなく、死は厳粛な事柄であり、様々な文化がそれに応えて様々な「戦略」を練り上げてきている。練り上げたのなら、あとはそれにしがみつくだけだ。
こうした視点からすると――敢えて言うが――この事件には悪人はいないことになる。ここには、二つの原理、二人の主人公が、飽くまでも自分を貫くために死をも辞さないというシェイクスピア的悲劇がある。
この二人の「狂人」が、しでかした事の後で何が自分達を待っているか知らなかったはずがあろうか?彼 らはどうやらわざと、車中に名刺のようなものを残していったようではないか――ちょうど、かつてロシアのテロリスト達が、犯行後、自分達の血塗れの真実を死をもって贖うために、現場にとどまったように。 犯人達の野蛮な――それを認めるに吝かではない――野蛮な観念の中には、神を冒涜するくらいなら死のほうがマシだとの考えが含まれていたのである。中世なら、そういう考え方はあり得るのだ。
そして、射殺された不幸なジャーナリスト達は、自分のやっていることの危険さを十分承知していたが、そこに踏みとどまり、行動を変えようとはしなかった。
そして結局、みんな死んでしまった。これは劇場ではない――気持ちのやり場がない…。
■ 道化と戦う戦士
私の考えでは、この事件を「聖なる言論の自由の擁護」に祭り上げてしまうと、かえって事態を深刻化させることになる。われわれは、この戦いを後戻りできないものに変えてしまうだろう。 何と言っても、リヴァイアサンと道化は違うのだ。仮に、或る国家の基礎、機構、憲法が、アラーを穢すために構築されていたことが判明した場合に、それと戦いを挑むというならともかく、道化を殺すために命を捨てるとなると、これはまったく別問題だ。単にもう愚劣である。
戦士は道化とは戦わない――勝っても名誉にならないからだ。武器を取って、剥き出しの尻に突進するなんて、滑稽ではないか。どんなに切ったり打ったりしても、そこに糞しかないのだから…。
*グリゴリー・レヴィジンは歴史家、芸術学者、建築評論家。このコラムは、氏のフェイスブックにロシア語で掲載されていたもので、ご本人の許可を得て、抄訳を弊紙に載せる。
記事、コンテンツの筆者の意見は、RBTH(日本語版はロシアNOW)編集部の意見と一致しない場合がある。 ≫(ロシアNOW)
筆者注記:カリカチュアとは、人物の性格や特徴を大袈裟に誇張歪曲して、描く人物画。現代においては、戯画、漫画、風刺画と同一視されるが、そもそもは16世紀イタリアに出現した絵画の技法で誇張することで芸術性を高めようとしたらしい。ロシアNOW紙面でグリゴリー・レヴィジン氏は、幾分違う意味で用語を使っているが、単にロシア的なのだろう。
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