世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●薄暮のデモクラシー ナポレオン、ヒトラーにはなれそうもない安倍

2017年07月01日 | 日記



昭和初期政治史の諸相―官僚と軍人と党人
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「軍学共同」と安倍政権
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●薄暮のデモクラシー ナポレオン、ヒトラーにはなれそうもない安倍

内山は、
≪ 選挙に勝てばあまりにも大きな権力を手に入れることができるがゆえに、つくられた権力は民主王朝制的な性格を大なり小なり帯びることになり、選挙に勝つことが絶対化されるためにポピュリズムやデマゴーグの政治が跋扈することになる。それは民主主義の危機というものではなく、民主主義がもつ属性だと考えた方がいい。 ≫
と看破している。

続けて、
≪ 近代の民主主義が民主王朝制を生んでしまうことをどう克服するかにある。この問題が克服されないかぎり、私たちはソフトな民主王朝制の下で管理されるか、ハードの民主王朝制の下で縛られるかという選択しかなくなってしまうからである。そしてそのことがみえてきた時代のなかに、私は黄昏れる近代、黄昏れる近代国家の時代を感じている。≫
と結んでいる。

今まさに、安倍政権の場合は、“ハードな民主王朝制”に限りなく近いものになっているのが理解出来る。しかし、前川前事務次官や文科省のソフトな反乱のお蔭で、加計問題に限定されない、数限りなく噴出しているスキャンダルや犯罪的行為が“疑惑化”され。内山の謂う“民主王朝制”に陰りを齎している。東京都議選最中の政権幹部らの問題発言や疑惑が相次いで報じられ自民逆風となっている。内閣支持率も大きく下落した。

都議選終盤において、民主王朝が盤石だと高を括っていた自民党幹部からは、朝日、毎日、東京などの新聞や各テレビ局、タブロイド紙や週刊誌、ネットメディア等々の責任で問題が起きている等と恨み節が聞こえてきている。自分達の意に沿う報道機関に寄り添い、何とか危機を乗り越えようと試みているが、味方が読売、産経二紙だけと云う状況では、あまりにも心許ない。何故なら、読売は発行部数一位だが内容において二流紙として評価は定着しているし、産経に至っては日本会議御用達新聞なわけで、実質安倍政権寄り新聞は読売新聞一紙と云う奇妙な現象が現れている。

ハード民主王朝を確立しかけた瞬間に、ソフト民主王朝勢力の反撃を喰らっている状況と言える。最終的に、民主主義からはみ出した安倍政権を下野させることが出来るかどうか判らないが、その兆しは相当程度明確な動きになっている。しかし、現状の政治分析から考える時、政権が変わるというドラスティックなものではなく、自民党内部の勢力争いの範囲内での政権交代だろうから、ハードな民主王朝制が継続する。まぁ、改憲の道が遠のく程度のことはあるだろう。

以上、巨視から微視的考察などを簡単に加えてみた、民主主義の限界は、“マスマーケット”においては“民主的機能不全”をおこすものだという結論は間違っていない。つまり、プラトン、アリストテレスにはじまり、ホッブス、モンテスキュー、ルソーらによって近代民主主義デモクラシーは概念的にまとめられたが、“ユニット(規模)”と云う、前提条件が抜け落ちていた点が重大問題なのだろう。

要するに、デモクラシー成立には、その守備範囲に大きさの限界があることを示唆している。貴族内の政治において、賢人たちの範囲において、そんな感じで成立するデモクラシーを論じていた。そこには知恵や教養、矜持の精神がバックボーンにあるのだから、賢者も愚者もごちゃまぜで、尚且つ顔も知らない人間たち同士で、デモクラシーの構築を目指すことは、不可能に近いことを示している。マスマーケットには、おそらく“社会主義”がお似合いのようである。

その意味において、徳川政権が長期にわたり、日本と云う国を治めてこられたのは、グローバル世界と関わりを最低限にとどめ、国家を分権的に藩主に政治を委託して、国の重要事項のみを、幕閣官僚らの政に限定して行った形は、今後の日本の持続継続的国家論において、非常に示唆的だ。各藩に、多くの独自性や自主性を与える(地方戦略特区とも言える)ことで、国家戦略特区などは、愚の骨頂なのだ。まずは、地方分権を構築、その地方に多くの権限を持たせ、より国民に見える化した政治ユニットを用意して、民主主義を地方ごとに構築してゆくのが、これからの課題かもしれない。以下、内山氏のコラム“たそがれる国家”をお読みください。


 ≪ トランプ政権は必ず行き詰まる!? いま問われる民主主義の「限界」
【連載】たそがれる国家(4)

■民主的に生まれた「独裁権力」
1804年、ナポレオン・ボナパルトは国民投票によってフランスの皇帝となった。フランス革命後の混乱やヨーロッパ諸国のフランス包囲網との戦いのなかで、ナポレオンはその前から完全に権力を掌握していたが、ついにこの年、独裁権力を完成させたのである。
1933年には選挙結果を受けて、ドイツでヒトラーが首相に就任している。翌年には総統となり、ナチスによる独裁権力を確立した。
 このふたつの政権がおこなった政治の内容は、もちろん大きく異なっている。だが国民投票や選挙によって独裁権力を確立したという点では共通性をもっている。
国民の投票という「民主的」方法で権力を確立し、しかしその結果生まれた権力は、「民主的」な政権とはほど遠いものであった。このような政治権力のあり方を、私は「民主王朝制」と呼ぶことにする。民主的な手段で、王朝を確立したということである。
それとは逆に、「王朝民主制」というかたちも成立しうるだろう。王朝としての絶対権力を揺るがさないかぎりで、民主的な手法を取り入れるということである。
 民主主義は政治権力が民主的に選ばれるだけではなく、政策の成立過程やその実行過程もまた民主的におこなわれることによって完成する。だがこのような完全な民主主義は成立したためしがない。実際には程度の差こそあれ、民主王朝制のような性格をもちながら現実の政治はおこなわれてきたといった方がいい。
ただし古い王朝制と民主王朝制には、国民投票や選挙によって王朝が生まれるか否かという相違だけではなく、次のような違いがある。
古い王朝制は特定の階級、階層を基盤にして成立していた。近代以前の王朝は、その多くは領主権力を基盤にしている。
それに対して民主王朝制は、「全人民」のための権力という性格をもつことになる。
ナポレオンはフランスの「全人民」の皇帝であったし、それがゆえにこのような権力のかたちはボナパルティズム権力といわれるようになった。ナチズムも全ドイツ人の権力としてみずからを位置づけている。決して特定階級の権力ではないのである。
そしてそれがゆえに、民主主義と民主王朝制は区別がつきにくくもなる。

 ■トランプ政権の行方
たとえば、まだはじまったばかりではっきりとはしないが、アメリカのトランプ政権の方向性は、いまのところより強権的な民主王朝制に向かっているように思われる。
あたかも絶対権力をもった王様であるかのように、大統領令の連発やツイッターによる攻撃、閣僚の任命をおこないながら、いわば独裁的な大統領になろうとしているかのごとくである。
ところがトランプは、「全人民」の大統領になる基盤を失っている。彼を支持する人たちの大統領なのである。
そしてそうである以上、彼を支持しない人たちとの軋轢を生みつづけることになるだろう。この対立があるかぎり民主主義は維持されるのであり、彼の政策のいくつかは法的にも否定されることになるかもしれない。
とすると民主王朝制的な権力が生まれた結果、民主主義が維持されるということになる。
 
■民主王朝制の国・韓国
もっとわかりやすいのは韓国である。
韓国でも大統領は選挙によって選出される。ところが当選した大統領は、あたかも王朝の王様であるかのごとく一族や側近を優遇し、近づいてくる資本家などに便宜を与える。まさに民主王朝制なのである。
だから政権が変わると、敗北した王朝のように不幸な日々がもたらされてしまう。
そういう構造だから、王朝は権力を維持しなければならないし、他の政治家たちは権力の獲得のためには何でもするという行動にでる。一方は王朝を維持しようとし、他方は新王朝を確立しようとするのである。
ところがそのために必要なことは選挙で勝つことだ。とすると「国民の意志」に迎合することや国民を扇動することが必要になってくる。典型的なデマゴーグの政治が発生するのである。ポピュリズムは大衆迎合だが、デマゴーグは人々の支持を得るためには何でもやる扇動政治家である。
だが韓国の状況も、そう言って片づけてしまうこともまたできない。
なぜなら選挙へと向かう国民のプロセスのなかには、政策の確立過程やその執行過程の民主的な運営を求める意志が内包されているからである。
民主主義を内包しながら、民主王朝制が展開してきた、それが李承晩独裁政権が終わってからの韓国の歴史だったといってもよい。

 ■民主主義の危機?
近代になって生まれた政治制度には、つねにこのような問題がつきまとってきたのである。 :その原因は、国家があまりにも大きな権力をえてしまったことにある。
大統領制であれ議院内閣制であれ、選挙に勝ってしまえば強大な権力を手に入れることができる。
もちろん制度としては行政と立法、司法は別だ。立法府の同意がなければ行政は法律や条約をつくることはできないし、司法は憲法にしたがってそれを監視することになる。
だがこの三権分立も理想どおりに展開したことはない。
行政と立法の関係でいえば大統領制の方が大統領と国会の対立を生みやすく、内閣と国会が一体化してしまう議院内閣制よりはましだということもできるが、実際にはさまざまな懐柔や選挙への思惑などがあって、立法府による行政府への批判が正当なものである保証もまたないのさらには司法の独立性が十分に機能している国を探すことの方が困難なのが現実である。
すなわち、選挙に勝てばあまりにも大きな権力を手に入れることができるがゆえに、つくられた権力は民主王朝制的な性格を大なり小なり帯びることになり、選挙に勝つことが絶対化されるためにポピュリズムやデマゴーグの政治が跋扈することになる。 それは民主主義の危機というものではなく、民主主義がもつ属性だと考えた方がいい。

 ■完全な民主主義などない
中国などは、独裁権力を維持しうる範囲で民主的な制度を取り込もうとする。ある程度民主的な制度を取り入れないと、独裁権力を維持できないからである。
そういうあり方を王朝民主制と呼べば、他方では民主王朝制が生まれてくる。現代世界は、このような構図のなかでとらえることもできる。
ただし民主王朝制には、ソフトな民主王朝制とハードな民主王朝制があると考えておいた方がいい。ハードな民主王朝制としてはナチス・ドイツがあった。それは批判を許さない独裁権力として成立した。
だが自由な批判が許されている国でも、批判する過程での意思表示の過程などで民主主義が機能しているだけであって、政治権力としては強大な権力が維持されていることに変わりはない。
かつてマックス・ウェーバーは『職業としての政治』のなかで、「『すべての国家は暴力の上に基礎づけられている』。トロツキーは例のブレスト―リトウスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい」(岩波文庫 脇圭平訳)と述べていたが、国家は暴力を独占することによってその機能を維持している。
ウェーバーは、ゆえに高い倫理性を政治を職業とする者たちに求めていたのだが、そう提起するほかないほどに、国家は権力を集積させているのである。
そしてそのことがひとつの王朝を成立させてしまうことになる。ただし王朝の成立のためには選挙に勝つことが必要になる。それがポピュリズムやデマゴーグを発生させることになる。
比較的民主的だと思われている国にあるのはソフトな民主王朝制であり、強権的だと思われているのはハードな民主王朝制であるという違いはあっても、国家が強大な権力をもつ以上、完全な民主主義は成立しようもないのである。

■トランプ政権のジレンマ
とすると現在世界で争われているのは、ソフトな民主王朝制を維持するのか。ハードな民主王朝制が必要なのかという対立だということになる。
前者は自由、平等、友愛、民主主義といった近代の理念、近代の建前の維持を求め、後者は何よりも自分たちの利益を重視する。強い国家をつくることによって、自分たちの利益を守ってもらおうとするのである。
トランプ政権は、後者の立場を支持する人たちを基盤にして成立した。そしてそれがゆえにジレンマに陥るだろう。
後者の人たちの希望に応じなければ支持基盤を失うし、その路線だけで動けば「全人民」の大統領としての強い王朝をつくることはできないからである。それだけでは、絶えず強い批判を受ける政権になってしまう。
完全な王朝をつくるためには「全人民」の支持が不可欠なのである。たとえそれをポピュリズムやデマゴーグによって成立させるとしても、その技術に長けている必要がある。だがいままでの過程でみえてきていることは、トランプ政権にはその能力がないようだということである。
ただし私たちに突きつけられている課題は、近代の民主主義が民主王朝制を生んでしまうことをどう克服するかにある。
この問題が克服されないかぎり、私たちはソフトな民主王朝制の下で管理されるか、ハードの民主王朝制の下で縛られるかという選択しかなくなってしまうからである。
そしてそのことがみえてきた時代のなかに、私は黄昏れる近代、黄昏れる近代国家の時代を感じている。
 ≫(現代ビジネス:政治・内山節―たそがれる国家4)



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