世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

ヨタ記事から見出すヒーロー山本太郎 福島辞任から浮上する政界再編と哲学

2013年07月29日 | 日記
愛国・革命・民主:日本史から世界を考える (ちくま選書)
クリエーター情報なし
筑摩書房


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●ヨタ記事から見出すヒーロー山本太郎 福島辞任から浮上する政界再編と哲学

 参院選は概ね予想通りの結果になった。筆者は、自民党が比例区でもう少し伸びるのではなかと思っていたが、比例の候補者が足りなかった!までは行かなかった。棄権の多さと共産党の伸びは、政府批判傾向と云うよりも、政治家や政党への不信の表れだろう。そもそも全有権者の30%程度は、まったく選挙に興味を示さない層なので、日本の選挙は概ね70%以下の有権者の投票行動で決まる。理由は別にして、20%近くの有権者が選挙に興味なしと思ったのだろうから、半分の国民の選択で自民党が勝利しただけの選挙だった。

 国民の半分程度は、政治によって自分の生活に、何らかの影響があると感じる人々が多くを占めているのだろう。現に、何らかの組織団体に属する人々の多くが安定的な票を得て当選している。このような現象をみて、あらためて現在回っている統治機構のシステムの中で、大なり小なりの影響を受けて生きている人が多いのだと感じる。極論だが、有権者の半数は既得権益に属する人々と考えても構わないだろう。しかし、様々な選挙分析をみると、自公与党が得た総得票数は、全得票の中50%に至っていない事実もある。この現象を取り上げて、野党の受け皿がなかったからだ。野党がバラバラに闘ったからだ、と云う意見がマスメディアを含む、多くのメディアの結論だ。

 しかし、政治における“生活争点”と云うものは、方法論の違いはあるが、景気が好くなり、企業の利益が増える、GDPが増える、財政事情が総体的に好転する、雇用が増える、給料が増える。そして、社会保障が充実する等々となるわけで、自民党から共産党に至るまで、利益配分の比重をどこに置くか、と云う論争を繰り返すだけである。小沢一郎が率いる“生活の党”にしても、現時点では、この枠組みから大きく脱しているとは思えない。脱原発、反TPP、96条先行憲法改正反対である。決して、日本の経済成長の伸びを目指すことが、愚かだとは言わない。

 社民党にせよ、共産党にせよ、政治の役割である利益分配が国民目線になっているのは良いとしても、土台成長の糊代がない先進諸国の経済の成長を期待したり、無い袖を振れるだけ振った上で、後は知りませんと云う政党も考えものだ。筆者から見ていると、今の日本の社会は、おそらく無理難題だと気づきながらも、本当のことを“口に出すのが怖い怖い症候群”に陥っているのだと考える。誰だって、豊かで、明日への不安がない、明るい未来が待っていると思いたいだろうが、何処をどの角度から押してみても引いてみても、現在の国民意識の次元では、暗く絶望的未来しか予見できないのである。

 多くの人は、このような考えを“敗北主義”とか、“悲観主義”とか揶揄するが、筆者自身は、全然暗い絶望的未来だとは思っていない。極めて、明るい未来だと思っている。その為に、“アベの暴走”が起き、国民生活がどん底に落ちたとしても、命があり、未来がある以上、悲観などする気にはなれない。個人的には、その方が、日本人が、人が生きると云う問題を考えざるを得なくなるわけで、悲惨や貧困飢餓から芸術や文学が生まれる如く、日本人の哲学が生まれる可能性に夢を持つことは可能だ。

 此処まで書いた時点で、偶然≪J-CASTニュース≫に面白い記事が出ていた。記事の趣旨が実現しても、哲学的思考経路に基づいた価値感が打ち出されない限り、単なる烏合の衆になるだけで、自公政権の対立政党とはならないだろう。それでも、維新やみんなが自公の対立軸になるよりはマシ程度の話で、民主党化するのは自明だ。それでも、内容が荒唐無稽で面白いので貼りつけておく。

≪ 次期党首は山本太郎か菅直人?大穴は小沢一郎! 社民、党勢復活「仰天プラン」はあるのか
 福島瑞穂氏の党首辞任でますます退潮ムードの社民党に、復活への「仰天プラン」がささやかれている。次期トップに「脱原発男」山本太郎氏、あるいは民主党を追い出されかかっている菅直人元首相を担ぎ、「リベラル」総結集を図るという奇策だ。
 これに生活の党・小沢一郎代表、鳩山由紀夫元首相も加わって「オールスター」大集合、なんて話も。現時点ではネットなどで語られるヨタ話だが、あるいはひょっとすれば、ひょっとするのか?
社民は山本太郎との連携すでに模索
 社民党は今回の参院選で議席をさらに減らし、衆院2、参院3という「政党」としてのがけっぷちにまで追い込まれた。責任を取り福島瑞穂氏は 2013年7月25日、10年にわたって務めた党首職を辞任したが、もはや福島氏に代わり「党の顔」になれる人材もなく、又市征治幹事長が「党首代行」として指揮を取るまさに「存亡の危機」に陥っている。
  そんな中、社民が「救世主」として熱視線を注ぐのが、参院選に当選したばかりの山本太郎氏だ。山本氏と社民とは政策も近く、今回の参院選でも 社民党は山本氏を支援している。
 福島氏も25日の会見で、「入党という話まではしていませんが」としつつ、山本氏に対し統一会派の結成を持ちかけたことを明らかにした。山本氏は即答を避けたようだが、「脱原発」を掲げ市民活動との連携を目指す社民党にとって、まさに山本氏はかっこうの「顔」で、ネット上では「もはや山本太郎しかないのでは」「いきなり党首就任もありうる」といった話が大真面目に語られている。
 もう1人、社民党の次期党首候補として話題の人物がいる。なんと、民主党の菅直人元首相だ。菅元首相は今回の参院選、党執行部の方針にそむき東京選挙区で無所属の大河原雅子氏を支援して民主「共倒れ」の事態を招き、一時は党「除籍」直前にまで追い込まれた。
 結局は党員資格停止3か月に落ち着いたものの、民主党ではすっかり居場所を失った状態だ。思えば菅元首相も元々は市民活動出身、政策も脱原発を旗印に掲げ、社民との距離は比較的近い。そこでツイッターなどでは、「社民党次期党首、山本太郎じゃないだろう。菅直人だ!!それがいい」「菅直人氏 チャーンス!!」などと、まさかの菅元首相「擁立論」が冗談混じりながらかなりの数飛び交う。
山口二郎教授「社民と小沢G結集すれば…」
 意外な「大穴」が、生活・小沢一郎代表だ。すでに生活の党と社民党は共闘を続けているが、これを一歩進めて両党を合併させる――という壮大な プランで、政治学者の山口二郎・北海道大学教授もツイッターで、 「社民党の最大の資産は、衰えたりとはいえ地方組織を持っていること。これを基盤に、環境運動系や小沢グループなどとの結集を図れば、まだ日本の政党政治の中に居場所を見つけられるのではないか」と発言している。実際に福島氏も辞任会見で、自民党内のハト派も含めたリベラル結集の必要性を力説しており、ここからネット上ではいっそ鳩山由紀夫元首相、民主の有田芳生参院議員らをみんな社民党に集めてしまえ、などといった暴論も飛び出すほどだ。
 さて、山本氏らの社民党合流、あるいはリベラル結集の可能性はあるのだろうか。政治評論家の有馬晴海氏は、細野豪志幹事長らが進める民・み・ 維結集などをめぐり民主党が分裂した場合、その人数次第で、政党交付金などを受け取るための数合わせとして、山本氏や菅元首相、社民党などがそれぞれ一時的に手を組むというシナリオを指摘する。もっともその実現性には、かなり否定的だ。
 「組んだところで多数になれるわけでもありませんし、組めばそれだけ自分の意見を殺さなければならなくなる。今の民主党もそうですが、意見が違うのに一緒になるから党内が割れるわけですから」
  なお山本太郎氏については、特に合流などせずとも、知名度などを生かして活動していけるのではないか、と見ているという。社民党は、「原発反対などで、独自にやっていくでしょう」。≫(J-CASTニュース)

 “社民党”と“生活の党”の併合はゼロだとは言えない。鳩山由紀夫、亀井静香や山本太郎の参加も荒唐無稽ではない。ただ、上述したようにグローバル経済の推進が経済成長の肝であるとか、適度な経済成長で富の再配分の比重を変えるような主張とか、単に脱原発とか、反TPPと云った個別具体的政策で一致しても、日本の経済はどっち道グローバル経済社会の中では、ジワジワと衰退していくわけで、20世紀の政治家らしからぬ哲学を持ち込まない限り、大きな支持は得られないだろう。まぁ反自公政権と云う受け皿だけでも作っておくことは意味があるが、金銭的価値観に代わる価値観(哲学)を国民に提示していく姿勢をみせる政党にならないと、展望を開けない。

 小沢の語る中央集権の打破は維新もみんなも言っている。ただ、それが新自由主義、市場原理主義の餌食にする為の打破でないことを充分に伝えているとは思えない。いまだ自由貿易賛成論者だと言い訳している限り、21世紀の日本の姿を俯瞰的には見えていない気がする。(見えていても、政治家として語る限界があるのかもしれない)先ほど、山本太郎のインタビュー(朝日新聞による)1時間以上を飛び飛びに聞いていたが、おや?と思う言葉を彼が語っていた。市場原理主義者に国家を奪われるくらいなら、「自給自足でも生き抜く」気持が必要だ、と云う部分である。彼の評価は、筆者の中で従前以上に、大きく変わった。

 想像以上に素直に世の中を見ている。そして、“変なものは変と言おう”と云う精神だ。彼を表層的にみて“サヨク”と言っている馬鹿どもがいるようだが、彼は愛国主義、民族主義者だね。その点では、誤解を招きながらリベラル派にされている筆者と同様だと感じた。彼も筆者も、超民族派なのだろう。超右翼保守はリベラルにも見える。一水会の鈴木邦男にしても、真右翼だがリベラル風にも見えるのが面白い。おそらく、人間としての“愛”と云う共通項が存在している気がする。安富歩の考えなども一脈通じるものなのだろう。

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)
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