世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●伊藤博文の長州vs土佐の自由民権と田中正造・天皇直訴

2016年04月26日 | 日記
辛酸―田中正造と足尾鉱毒事件 (角川文庫 緑 310-13)
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帝国主義 (岩波文庫)
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●伊藤博文の長州vs土佐の自由民権と田中正造・天皇直訴

今夜は、以下の魚住昭氏の「田中正造の天皇直訴事件」を読み、田中正造の凄さを知ると同時に、板垣退助の「自由民権運動」の系譜を眺め、中江兆民、幸徳秋水、徳富蘇峰、田中正造の流れを、ネットや文献で調べているだけで、時間が過ぎていった。つまり、残念であるが、筆者のコメントを書くレベルには至っていない。一つだけ、明治政府が維新の三傑なきあと、誰もいなくなった空白に、長州勢(伊藤博文)が跋扈した歴史の皮肉を見ることが出来た。

明治政府における土佐藩の影は薄く、長州藩(松下村塾)が酷くデカイ顔で鎮座していた。維新の三傑は西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。維新の十傑は、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・江藤新平・横井小楠・大村益次郎・小松帯刀・前原一誠・広沢真臣・岩倉具視。伊藤博文などいないし、大人気の作られたヒーローっぽい坂本龍馬もいない。

田中正造の天皇直訴事件の関連を、歴史をさかのぼる形で、追いかけてみると、長州藩中心の明治政府に何故なってしまったのか?そういうミステリーも浮かんでくる。学生時代に聞いた懐かしい名前が次々と出てくるのだが、なぜか長州出身者に親近感を憶えることはない。薩摩と土佐に親近感を憶えるのは、何も安倍晋三から連想すると云う、生理的不快だけが、元凶ではなさそうだ。なぜ、松下村塾、長州が権力の中枢を独占するに至ったのか、どうも、歴史の勉強が必要な筆者だと痛感させられた。まあ、個人的なことはさておき、以下、魚住氏の田中正造に関するコラムを読んでいただき、興味の程に、歴史を遡るのも面白い。


≪ いま知っておきたい田中正造「天皇直訴事件」
  〜切腹覚悟で臨んだ明治の男たちの気概


 ■「お願いがござりまする」
西幸門前交差点は日比谷公園の角の大きな十字路だ。そこで115年前、田中正造(1841~1913年)の天皇直訴事件があったのをご存じだろうか。
1901(明治34)年12月10日のことである。明治天皇臨席のもと第16回議会の開院式が、日比谷公園の斜向かいにあった議事堂で行われた。
式が終わった午前11時すぎ、騎兵隊に守られた天皇の馬車が皇居に向け、議事堂を出立した。行列が西幸門前交差点を左折する、その瞬間、人垣から黒の紋服・袴姿の、ずんぐりした男が飛び出した。正造だった。
「お願いがござりまする。お願いがござりまする」
彼は直訴状を捧げ持っていた。騎兵がとっさに馬首を変え、正造の行く手を遮ろうとした。正造は身をかわそうとして前につんのめった。騎兵も馬もろとも転倒した。正造は警官に取り押さえられ、天皇の馬車は何事もなかったかのように通過した。
天皇への直訴は前代未聞の出来事だ。新聞各紙は争って号外を出し、直訴状全文を報じた。直訴状には、渡良瀬川流域の鉱毒の惨害が、古式に則った名文で生々しく描かれていた。
〈魚族絶滅し、田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ、業に離れ飢て食なく、病て薬なく(中略)壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦、満目惨憺の荒野となれり〉
筆者は、後に大逆事件で刑死することになる幸徳秋水だ。彼は当時、都下一の部数を誇る万朝報の記者で、中江兆民門下の俊秀として知られていた。
その秋水の友人で、後にベストセラー作家になる毎日新聞記者の木下尚江は、直訴当日、銀座の毎日本社にいた。彼の回想によると、一人の若い記者が顔色を変えて飛び込んできた。
「今、田中正造が日比谷で直訴した」。居合わせた人々が異口同音に訊いた。「田中はどうした」。若い記者は「田中は無事だ。大勢の警官に囲まれ、警察署に連行された」と答えた。

 ■憤る尚江、秋水の覚悟
2ヵ月前、衆院議員を辞職したばかりの正造にとって、天皇直訴は最後の手段だった。
初当選から11年、彼は国会で鉱毒問題を追及し、足尾鉱山の操業停止を求めてきたが、政府はまともに取り合わなかった。流域では失明者が急増し、乳幼児が死んだ。田畑を耕作できなくなって自殺する者も出た。このため流域4県の農民は大挙上京して請願する「押出し」を繰り返し、明治33年2月には 100人余が逮捕された。
正造は日記に〈毒ニ死スルモノ千六十四人(略)此ウラミヲ晴サデ置クベキカ〉と記した。
尚江は、そんな正造の絶望的な心境をわかったうえで直訴という手段に不快を感じた。キリスト教社会主義者の彼は、正造が天皇の権威にすがったことに反発したのである。
やがて毎日の主筆・石川半山が議事堂から帰ってきた。式に参列したので燕尾服にシルクハット姿だった。尚江と半山は応接室のベランダで直訴の感想を語り合った。そこに直訴状の筆者は秋水という続報が届いた。
「幸徳が書くとは何事だ」と尚江は憤った。「まあ、そう怒るな」。秋水と同じ兆民門下の半山がなだめた。尚江は空しくなって話を止め、街道を見下ろした。そのころはまだ銀座の大通りを鉄道馬車が走っていた。
「やあ」と半山が出し抜けに大声を出した。尚江が振り向くと、応接室の入口の小暗い所に秋水が立っていた。「君らに叱られにきた」と秋水は言った。 「叱るどころじゃない。よく書いてやった」と半山が応じた。
「そうかねえ」と言いながら秋水は応接室に入り、「実は、昨夜、田中が来てネ」と、ことの顛末を話しだした。
麻布の秋水宅を訪ねてきた正造は直訴を決意するに至った、苦しい胸のうちを明かした。そして直訴状に粗漏や欠礼があってはならぬから、代わりに書いてくれと頼んだという。
「直訴状など誰だって嫌だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、嫌だと言うて振り切ることができるか」
秋水は徹夜で筆をとった。今朝、芝口の正造の宿を訪ねると、正造はすでに身支度を整えていた。秋水から直訴状を受け取ると、黙ってそれを懐の奥に入れ、用意の人力車に乗り込んだ。
「腕を組んで車に揺られて行く老人の背中を見送って、僕は無量の感慨に打たれた」と語る秋水の目に涙が光ったという。
この時代、直訴は死ぬ覚悟なしにはできなかった。むろん秋水もただではすまない。投獄や失職の恐れもあった。まだ一記者だった秋水は、そのリスクを承知で引き受けたのである。
ただ、直訴前夜に突然、依頼を受けて徹夜で書き上げたというのは、おそらく秋水の虚構か、尚江の記憶ちがいだろう。
秋水の自筆年譜には、直訴状を書いたのは明治34年11月12日と記されている。また、秋水の妻だった師岡千代子の回想によると、同年の「歳暮近くの或る日」、書斎で秋水と正造が話し込み、千代子は秋水の命で新橋に行き、10枚ほどの奉書を買って帰ったという。
「確かその翌日の夜になつてから、それも危篤の報に依る見舞客でごつた返して居る、小石川の武島町の中江兆民先生のお宅で、私は初めて翁が足尾鑛毒事件に就いて、その日議院で直訴されたことを知り、その直訴文を秋水が書いたことを、秋水自身の口から直接聞いて知つた」
この証言と秋水の年譜が正しければ、秋水は決行のひと月前に直訴文の草稿を用意し、直訴前日に清書したのだろう。
このころ兆民は咽頭がんで死の床にあり、昏睡状態に陥っていた。兆民の妻は秋水が直訴状を書いたことを知ると「そうですか!」と言い、感極まって涙を流しながら「もし主人の意識がはっきりしていたら、そのことを聞いてどんなに喜んだでしょう」と何度も繰り返した。
秋水の名文は人々の心を打ち、彼の名声を一気に高めた。だが、尚江も千代子も知らないところで正造の直訴を計画し、演出した影の男がいた。やはり兆民門下の石川半山である。 (次回につづく)≫


≪ 田中正造「天皇直訴」をプロデュースした陰の人物
  日本初の公害「足尾鉱山猛毒事件」

 ■巡り合った秋水と半山
幸徳秋水は大逆事件で処刑される3日前の1911(明治44)年1月21日、市ヶ谷の東京監獄から北京滞在中の石川半山(はんざん)あてに手紙を書いている。
半山は秋水と同じ故・中江兆民の門下生だった。しかも、前回ふれたように、田中正造の天皇直訴事件(1901年)の陰のプロデューサー役をつとめた男である。秋水はその半山にこう語りかけている。
〈兄の手紙うれしかつた、夢物語は奇抜だ、兆民先生在さばアンナことをいふかも知れぬ、併し人間誰でも一度は死ぬんだ、死といふことは問題ではないよ〉
夢物語は、半山が秋水のために書き送った架空の物語だ。夢の中で亡き兆民に会い、秋水のことを相談したら、兆民はこう言った……という展開らしいのだが、当の書簡が残っていないのでそれ以上はわからない。
秋水の手紙はさらにつづく。
〈問題は唯だ日本におれのやうな極重悪人が現出したといふことにある、おれは唯だ此問題を提供しただけで満足だ、顧みて四十年の生涯、甚だ幸福で、甚だ愉快であつた、そして最早親もなし子もなし財産もなし浮世の執着となるもの一つもなし、詢とに身軽に感じて居る、君と年十九歳初めて兆民先生の玄関で邂逅してから、常に君の厄介にばかりなつた、君はおれに取て真に得難き益 友、知己の一人であつた、息のある中に深く感謝して置く〉
友情の厚さをうかがわせる文章だ。二人の出会いは1889(明治22)年に遡る。自由民権運動を弾圧する保安条例の公布で東京を追放された兆民は大阪・曾根崎に居を構え、秋水がその玄関番をつとめていた。
郷里の岡山から大阪に出てきた半山が兆民宅を訪ねると、秋水が家の前の小川で洗濯していた。それから二人は親しくなり、時勢を論じ合う仲になった。 秋水はその後、東京の中央新聞記者をへて都下随一の部数を誇る万朝報に入社。舌鋒鋭く藩閥政府を批判する名文記者として注目を浴びるようになる。
一方、半山も秋水と同じ中央新聞の記者をへて毎日新聞の主筆となり、「当世人物評」の連載で好評を博した。ハイカラ(=当初の意味は西洋かぶれ)という言葉を唱えて流行語にしたのは半山である。
秋水と半山が記者として成長していく過程は、足尾鉱毒事件が深刻化する時期とぴったり重なる。もともと二人は1901(明治34)年の直訴事件で各々の役割を果たすべく運命づけられていたのだろう。

■伝説の義人にならえ
事件が起きる半年前の半山の動きを見てみよう。以下は、東大法学部にある「半山日記」の明治34年6月8日の分を私が意訳したものである。
〈新橋より人力車で帰宅の途につく。橋の畔で田中正造に会う。田中は人力車の上から頻りに語る。彼の車は常雇いだが、僕のは辻で拾った車だから長話はできない。切り上げようとしたが、田中は天を仰いで頻りに語る。
「面白いことがないので気分がクサクサする。よければどこかで話しませんか」と言うので車を連ねて麻布の拙宅に帰った。
夕食をとりながら田中が(政府が前に設置した鉱毒)調査会のことを語りだしたので僕は冷然と言った。「鉱毒問題を解決するのに調査会は役立たぬ。平和的手段は君の柄ではない。10年も平和的手段をとってなお解決できないではないか。今は唯一の策あるのみ。ただ君がこれを実行しないのが残念だ」。
田中「その策とは?」僕「容易に語れない」田中「謹んで教えを受けたい」僕「君が実行するというのなら言おう。君はただ佐倉宗五郎たるのみ」。田中は決起断行を誓った。僕はすぐその方略を彼に授けた〉
佐倉宗五郎は江戸時代、将軍に直訴して妻子もろとも刑死したという伝説の義人だ。鉱毒問題を解決するには、正造が死を覚悟して天皇に直訴するしかないと半山は言ったのである。
2日後の6月10日の半山日記には〈朝幸徳を訪ふて田中正造ノ件を協議す。相携へて出社す〉と書かれている。〈幸徳を田中氏に紹介したるも余なり〉という半山の覚え書きも別に残っている。直訴状の書き手として秋水を正造に推薦したのも半山とみて間違いないだろう。
同年10月23日、正造は衆院議員の辞職願いを出した。直訴を視野にいれた予定の行動だったろう。チャンスは天皇が議会に姿を見せる開院式しかない。
そのとき正造が天皇に駆け寄れば、護衛兵に殺されるかもしれない。しかし、直訴状の中身を新聞各紙が報じれば、世論の同情は正造に集まり、政府は鉱毒防止の抜本対策をとらざるを得なくなる。半山はそんなシナリオを描いていたらしい。
布川了著『田中正造と天皇直訴事件』(随想舎)によると、半山は直訴に向けた世論形成も怠らなかった。毎日新聞の女性記者を現地に派遣し、鉱毒の惨害を訴える長期連載を始めた。連日一面を飾る毎日のキャンペーンが、鉱毒問題への人々の関心を急速に高めていった。
が、12月10日の直訴当日、計算ちがいが生じた。正造は無傷で取り押さえられ、罪にも問われず、夜には定宿の越中屋に戻された。その日の半山日記も意訳して紹介しよう。
〈田中が僕の案を実行した。秋水が(毎日新聞に)来て密議した。夜、田中放免の知らせが入る。すぐ越中屋に行き面会した。僕「失敗だ。失敗だ。一太刀受けるか、殺されなければものにならん」田中「弱りました」。僕は田中を慰めるため「やらぬよりはよろしい」と言った〉
正造の直訴は社会に大きなインパクトを与えた。足尾鉱毒事件の解決を求める世論は一気に高まり、被害地支援の輪は急速に広まった。当時、学生だった河上肇(経済学者)は被害地救援のための演説会に行って感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを脱いで寄付したほどだ。
その意味で正造と半山・秋水の目論見は当たったと言っていいだろう。だが、日本の工業化を至上命令とする明治政府を動かすことはできなかった。直訴で沸き立った世論は1年もたたぬうちに冷め、日露開戦の熱狂の中に埋没していく。
 ≫(現代ビジネス:わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ・週刊現代より)

田中正造と天皇直訴事件
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1 コメント

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Unknown (武尊)
2016-04-26 18:08:24
何だか山本太郎の直訴に被りますなァ、、。
違いは伝えるメディアが薄らトンカチで、御身大事ばかりになていた事と本人も謝罪してしまうなどという、少々腰砕けだった事ですかね、、。
矢張り住民(国民)全てを動かすには、『死』を覚悟するくらいじゃないと難しいんですね。それでも日露戦争に揉み消されていく訳ですか、、。
この部分も今の世情に似ていますねェ、、。但し、今は態と作ってるだけな様には見受けられますが、、。何でも防衛省研究部署が以前から、今の状態を提言していた、と東京新聞が報じています。
もう完全に予定調和そのものなんですね、、。

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