世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●日本文明を捨て、明治維新にはじまる「日米地位協定」の醜悪な不平等

2018年04月03日 | 日記
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続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち (講談社文庫)
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●日本文明を捨て、明治維新にはじまる「日米地位協定」の醜悪な不平等

安倍の馬鹿野郎は、明治150年の祝賀を行いたいと言っているらしい。日本会議の連中も、真偽が不明だが、その準備に取り掛かっていると云う話も聞こえてくる。以下の琉球新報の記事と原田伊織氏のレポートを読んでみれば、明治維新以降の150年が、いかに日本という国を、辱めている歴史が底流に存在することが理解出来る。本日も多忙につき、詳細な解説は省略するが、長州閥によって歪められた、我が国の歴史を、我々は、150年目にあたり、敢えて考えるべき時代がきたと言っても良いのではないだろうか。大河ドラマ「西郷ドン」をも含めて考えてみたい。

以下の琉球新報の参考図を比較すれば歴然だが、極東の黄色人種の敗戦国に対する仕打ちは、今もやむことなく継続中である。同じ敗戦国であり、無差別殺戮の東京大空襲、広島長崎への原爆投下。結局、このような扱いに甘んじなければならない遠因が、明治新政府の岩倉使節団による日米交渉に起因しているという論考は、日米問題を考える上で重要だ。徳川幕府による第一回日米交渉が如何に対等の立場で交渉に望んだかがよく判る。戦後の日米地位協定に至っては、宗主国と農奴の約束事のように見えてくる。正直、徳川幕府を、無能で野蛮な賊軍として扱った明治の政府こそが、最大の問題を抱えていたと云うことになる。安倍が心酔する長州軍こそ、農奴扱いの日本を貶めた重大な元凶のひとつであることを、我々は忘れてはいけない。




 



≪日米地位協定、イタリア・ドイツと何が違う? 沖縄県が4月にも特設サイト

 沖縄県は早ければ4月にも、日米地位協定の研究に関する特設サイトを基地対策課のホームページ内に立ち上げる。日本と同じく米軍が駐留するイタリアやドイツが米国と交わしている各種駐留協定の内容と、日米地位協定を比較し、地位協定の「抜本改定」を求める県の立場に理解を広げたい考え。
外務省のホームページなどにもこうした詳細な比較は掲載されていないため、県が独自に発信する。県の担当者は「研究者の研究活動にも活用してもらいたい」としている。県はことし1、2月にイタリアとドイツに職員を派遣し、米軍駐留の状況を調査した。30日にはこれら2カ国と日本での米軍駐留の条件の違いを説明した「中間報告」を発表しており、特設サイトには中間報告も併せて掲載する予定。
 県によると、日米地位協定のほかに、ドイツと米国が締結した「ボン補足協定」、イタリアと米国が結んだ「モデル実務取り決め」などの具体的な条文を掲載し、日本国内での駐留条件との違いを紹介する。条文は日、英両語で掲載予定。  ≫(琉球新報)



 ≪ 日本を150年間支配し続けてきた、アメリカの「不平等条約」の正体
    祝賀に酔っている場合ではない

■「明治精神」という言葉への違和感
二月に『明治維新という過ち』の続編として『列強の侵略を防いだ幕臣たち』を上梓させていただいたところ、予想外のスピーディで大きな反応をいただいた。
 
昨年以来、各地で講演をさせていただく機会が増えているが、そこで参加者から頂戴する生の反応と重ねて考えると、拙著に対する鋭敏な反応は、多くの方が「時代に対する危機感」とも呼ぶべき気持ちを抱いておられる一つの証ではないかと考えている。
 
私の主張に対する賛否は当然分かれるものとして、手にとっていただいたことに感謝と敬意を表すると共に、この国はまだ大丈夫なのではないかという希望と言ってもいい感情が湧いてくることを否定できない。

というのも、正確な日時を記録していないが、現政権の中核を成す政治家が記者団に対して「明治精神」という言葉を使い、明治精神へ思いを馳せることの意義をアピールする主旨の発言を行う様のテレビ報道に接し、慄然としたばかりであったからである。
 
言うまでもなくこの発言は、現政権が執着している「明治(維新)百五十年」という祝賀運動に関するもので、「明治精神への回帰」の重要性を説いたものと聞くことができるのだ。

「明治精神への回帰」……いつか聞いたことがないか。そうなのだ、戦前=昭和前期に燃え盛った「昭和維新」運動を繰り広げた軍人や国粋主義者が掲げた狂気のキャッチフレーズそのままなのである。

あの時、「天誅」の名の下に何人の反軍部の政治家を中心とした要人が暗殺されたか。よもや知らぬとは言えないはずだ。

「五・一五事件」「二・二六事件」は、その代表的な昭和のテロ事件である。この種の出来事は、歴史の部類に入らないほど「つい先頃」の厳然たる事実であるが、選挙権年齢を引き下げ、自国の歴史など知らない平成の若者が政治参加することは、現政権にとって実に都合のいいことであろう。
 
私は、俗にいう「明治維新」というものは、私たちの民族にとって過ちではなかったかという切実な問いかけを一貫して行ってきた。そして、その時以降今日に至るまでの史実としての出来事を、時の政権にとって都合のいいことも悪いことも、逆に政権に対峙する勢力にとって都合のいいことも悪いことも、すべて一度作為なく白日の下に曝して検証する必要があることを繰り返し訴えてきた。

現政権中枢の昨今の発言を聞いていると、この作業を急ぐ必要のあることを痛感せざるを得ない。

凡そどの国、どの民族においても、百年も経てば自国の歴史を自ら検証するものである。ひとり維新クーデター以降の「明治近代」を生きる日本人のみが、敗戦という惨禍を体験してもなおこれを行っていないのだ。

共産中国になる前の中国人は、「歴史の評価は百年を経ないと定まらないものだ」 :という主旨のことを、普通に語っていたものである。
 
また、今日のドイツが世界でもっとも信頼される国の一つとして国際社会で重きを成しているのも、彼らが厳しく自らの歴史を検証したことを、旧敵国を含めて世界が認めているからに他ならない。
 
歴史を検証しないことが、今日の私たちに何をもたらしているか。

ここでは、あくまで一つの検証切り口の事例として日米交渉の歴史にスポットを当て、検証を行ってこなかった不幸を浮き彫りにしてみたい。

日米交渉とは、我が国にとっては対外交渉の代表的なものである。そこで、徳川幕府による第一回日米交渉、明治新政府の岩倉使節団による日米交渉、そして、平成をも含む戦後日本を支配している日米地位協定の三つを対象として、そのポイントを整理したい。

どれ一つを語るについても、書籍一巻を以てしても事足りるものではない。従って、ここでは文字通りそのポイントに言及するのみで精一杯であることにご理解を賜りたい。

最初の日米交渉とは、ペリー来航時に行われた徳川幕府と米国海軍提督マシュー・ペリーの交渉である。
 
周知の通り、ペリーは二度に渡って来航しているが、公式に日米交渉がもたれたのはペリー再来航時、即ち、嘉永七(1854)年のことである。日本側交渉団(応接掛)は、全権林大学頭以下五名であった。
 
林大学頭とは、幕府の官学であった朱子学を正しく継承することを担っていた林羅山を始祖とする林家第十一代林復斎のことで、この日米交渉の直前とも言うべき前年に林大学頭家の家督を継いだばかりであった。
 
“鎖国”などという施策は採っていなかったものの、幕府が閉鎖的な対外方針を堅持してきたことは事実であり、従って、幕府には外交を専門に扱う組織は存在しない。当然、今日でいう専任の外交官もいないのだ。林復斎は学問ができる、だからお前がやれ、といった感じで全権に指名されただけであった。

ところが、この林大学頭が軍人ペリーを相手にして見事な外交交渉を展開し、ペリーが最大の目的としていた通商要求を取り下げざるを得ないほど押し気味の交渉をやってみせたのである。

凡そ外交という国家行動を考える時、軍事力という背景をもたない外交交渉というものは成立しない。しかし、幕府はまだ海軍力をもっていない。一方のペリーは、その海軍力を背景として恫喝的な交渉を仕掛けている。

例えば、ペリーは対メキシコ戦争を引き合いに出し、具体的に「戦争」という言葉を使って恫喝したが、これに対して林は、まず、 :「戦争もあり得るだろう」

と堂々と受止めてから、冷静に反論する。
 
結局、この交渉によって締結された日米和親条約(神奈川条約)は、アメリカ側が主張した二十四カ条案は簡略に十二カ条に圧縮され、幕府は漂流民保護と薪水給与のために箱館、下田二港を開港したが、アメリカの治外法権は一切認めなかったのである。

■マンガのような話だが…
永い日米交渉の歴史において、日本がアメリカと対等に、或いは対等以上に渡り合ったのは、幕臣によるこの第一回の日米交渉のみであろう。このことが、この交渉の詳細が明治近代になってから殆ど語られることがない最大の理由であると考えられる。

それほど、その後の日米交渉は、日本にとって惨めなものであったと言える。明治新政権が派遣した岩倉使節団は、その最たるものである。この使節団に関する歴史叙述は、虚飾に満ちている。

官軍正史は、幕府が締結した“不平等条約”の改定を目的としていたかのように語るが、出発時に岩倉具視にも、大久保利通にも、はたまた木戸孝允にも、それについての強い意思は全く認められない。もともとこの使節団派遣構想は、大隈重信の発案であった。大隈には確かに条約改定という目的意識があったが、彼ははるかに小さな規模の使節団を構想していた。
 
ところが、大久保が岩倉と組んでこれを潰してしまった。要するに、新政権内部の主導権争いなのだ。大隈は、肥前佐賀藩出身。切れ者の多い佐賀藩を妬む大久保にしてみれば、大隈使節団の成立は我慢がならない。
 
政敵木戸まで巻き込んだ岩倉・大久保主導の使節団は、閥の思惑が絡んで、あちらを立てればこちらもという具合に膨れ上がり、最終的に留学生を含めると百名を超える大使節団に膨張してしまったという経緯がある。
 
政府首脳の大部分が、成立したばかりの新政府を二年近くも放ったらかしにして「聘問の礼」と称する物見遊山の旅。薩摩・長州が、討幕後の青写真を全く描いていなかったことをあからさまに示しているが、新政府の財政状況を考えても、バカバカしいにもほどがある。

明治四(1871)年十一月に横浜を出港したこの使節団は、最初の訪問国アメリカで早速準備の怠慢と外交経験の無さを露呈することになる。 アメリカ側は、この東洋の後進国からはるばる訪れた使節団を、好奇心もあって大歓迎した。ただ、これはあくまで外交儀礼の範囲内のことであった。ところが、薩摩出身の駐米少弁務使森有礼が、この歓迎、歓待を勘違いした。森は、アメリカ側の歓迎ぶりから、ここは親善訪問だけに留まらず、一気に条約改正交渉に入るべき好機だと考えたのである。
 
功名心の塊のような、長州伊藤博文がこれに同調し、二人は岩倉や、大久保、木戸を煽った。旧幕臣と違って外交経験のない岩倉以下首脳陣は、すっかりその気になって、本格交渉に入ろうとした。

ところが、マンガのような話であるが、彼らの持参していた委任状は条約改正交渉の権限、調印の権限を付与されたものではなかったのである。つまり、彼らにはそもそも交渉する権限がなかったのだ。アメリカ側がこの点を衝かないわけがない。

初歩的な話であるが、交渉の権限を証明する全権委任状が必要であることを知り、使節団はその交付を求めることとし、何と大久保と伊藤が急遽帰国することになった。
 
使節団のワシントン到着が明治五(1872)年一月二十一日、もはや笑えぬマンガであるが、二人は二月十二日、ワシントンを発って取り急ぎ帰国の途についたのである。現代のように飛行機で急ぎ帰国できる時代でないことは、付言するまでもないことである。

この大失態によって、使節団の旅程は、当初の十カ月から一年十カ月と、二倍以上に延びてしまった。そして、木戸は「只管涙のみ」と悲嘆し、大久保も「大失敗」と悔悟している。その頃、次のような狂歌が流行った。

  『 条約は結び損ない金は捨て  
    世間へ大使(対し) 何と岩倉 』

そもそも薩摩大久保が、錦旗を偽造し、天皇の勅諚まで偽装するという討幕戦時の陰謀実行の同志岩倉を抱き込み、肥前、長州から外交を中核とする政権の主導権を奪取することを企んで編成した使節団であったことが、失敗の根源的な原因であろう。

先の幕臣林大学頭や、その後の対外交渉において欧米各国と渡り合った川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順、木村喜毅等々の幕臣官僚と比較するのは酷というものであろうが、アメリカに旧幕府とのギャップを印象づけた岩倉使節団の罪は大きい。
 
それは、「明治六年政変」「西南の役」にまで影響を与えているからである。

 ■これほどの「不平等条約」も珍しい
三つ目の「日米地位協定」。これは、今の私たちがその存在に責任をもつ日米間の“条約”である。
 
昭和二十七(1952)年、対日講和条約が発効し、日本はようやく外国軍の占領から形式的には解放されたが、その直前アメリカは日本と日米安全保障条約(旧安保)を締結した。
 
これによって、米軍は、実質的には占領軍の状態と殆ど変わらず日本に引き続き駐留することとなった。この旧安保は、昭和三十五(1960)年、新安保に引き継がれたが、その第六条に基づき制定されたのが「日米地位協定」である。この協定は、我が国の法令区分では「条約」に当たる。
 
ひと言で言えば、これほどの「不平等条約」も珍しい。否、こういう条約が存在すること自体が、信じ難い。沖縄で多発している米軍犯罪が正当に裁かれないのも、すべてこの「不平等条約」が米軍とその関係者を法的に保護しているからである。
 
例えば、米兵が職場で飲酒して、帰宅途中に事件や事故を起こしても「公務中」と扱われる。これについては、日本側は密約で第一次裁判権さえ放棄しているのだ。

昭和四十九(1974)年に発生した「伊江島住民狙撃事件」では、さすがに在日米軍は「公務外」を認めたが、直ぐさま本国の国務省・国防総省がこれをひっくり返し、事件概要そのものを改編して一次裁判権を日本から取り上げたのである。
 
更に、米軍機やヘリコプター事故が相次いでいるが、今では「米軍機事故の現場はすべて米軍管轄地」という拡大解釈がまかり通っている。つまり、日本は、警察力さえ行使できないのである。

 ■現政権に贈りたい言葉
そもそも、今現在、何人の米兵が日本に在住しているかという基本的な現況すら日本は正確に把握する「権利」を認められていないのだ。米兵の出入国は、出入国管理法の適用外となっているし、営外居住をする者がいても住民登録は当然行う必要もなく、外国人登録さえ適用外である。
 
もっと身近な例を出せば、米軍車両の有料道路通行料は、私たち日本人納税者が負担しているのだ。在日米軍はこの証明書を、私用のレンタカー、果ては米軍関係者の観光旅行にまで乱発している。車については、米軍関係者のみは、本人が「保管場所は基地内」とさえ言えば、他の外国人にも義務づけられている車庫証明は一切不要である。
 
更に、つけ加える。

米軍関係の無線局のみが、我が国の電波法の適用を受けない。米軍機のみは、航空法による高度規制や迷惑飛行規制の適用を受けない。彼らは、好きなように日本の空を飛びまわることができるのだ。
 
私たちが日頃利用しているJALやANAといった民間航空機は、米軍に許可された範囲内でしか航路を設定できない。日本人は、日本の空を米軍に支配され、自由に飛ぶことはできないのである。
 
更に更に、頻発する米兵による日本女性強姦事件においては、真っ当な裁きを受けることなく、降格などの単なる人事処分だけで済まされているケースが如何に多いことか。軍国日本の時代に「鬼畜米英」という官制キャッチフレーズが盛んに叫ばれたが、このような強姦事件のもみ消し的な処理に対してこそ、「鬼畜米兵」と声を上げるべきなのだ。

このような「日米地位協定」という「条約」を「不平等条約」と言わずして何と言うか。その前に、現在の日本国は「独立国」の要件を満たしているのか。

明治近代(明治~平成)の政権中枢は、徳川治世下で締結された通商条約などを「不平等条約」として一貫して幕府を蔑む材料としてきた。しかし、ここで挙げた三つの日米交渉を簡略にでも比較検証してみれば、それが全く的を外れた歴史認識であることは明々白々であろう。

日米関係、日米交渉の歴史をみるだけでも、今の「明治近代」という時代が、如何にアメリカに隷属することによって成り立っているかが浮き彫りになるのである。同時に、改めて徳川政権の対米交渉力、対外交渉力のレベルの高さを思わずにはいられないのだ。
 
ロシア大統領を長州にまで招き、見事に北方四島に対する経済協力を約束させられるだけで何ら本来の外交成果を挙げられなかった現政権は、「女性活躍」だ、「一億総活躍」だ、「働き方改革」だと軽々しいキャッチフレーズだけは賑やかに掲げるが、現在の対米不平等条約に手を付けようという意欲をもっているとは全くみえない。
 
逆に、憲法第九条への自衛隊の明記に躍起となっているが、これは占領軍憲法を固定化、強化するだけで「憲法改正」でも何でもないことは明白にも拘らず、これについてはまるで気がつかないかのように黙している。

さて欧米列強に正面から立ち塞がった幕臣たちは、この貧弱な「明治近代百五十年」をどのような思いでみているであろうか。

日米・日蘭・日露修好通商条約締結に関わった国際派幕臣岩瀬忠震の言葉を、「明治百五十年」の祝賀に酔っているかのような現政権にお贈りしておきたい。

   五州何ぞ遠しと謂わん 吾亦一男児

 ≫(現代ビジネス:政治・原田伊織)


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赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢
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