世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●デマゴーグとテロルの「長州レジューム」 江戸幕府の見直し

2017年07月21日 | 日記
幕末維新史の定説を斬る (講談社文庫)
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明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕 (講談社文庫)
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日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)
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赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢
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●デマゴーグとテロルの「長州レジューム」 江戸幕府の見直し

明治、大正、昭和、平成という日本と云う国には、なぜか日本人と云う「矜持」が失われていった。安倍と云う男の「戦後レジューム」からの脱却は、なぜか明治維新回帰になっている。英国の軍門に屈し、傀儡となり、幕府に多大な迷惑をかけ、平和で、幾分ノンビリしていた江戸幕府を、デマゴーグとテロルの恐怖政治だった幕末維新時代の明治が回帰場所なのか。なぜ、我が国の歴史の中で、概ね平和であった江戸時代(265年)に基点を置かないのか、さっぱりわからない。

いや、実際には判っている。安倍の目的は長州下級武士(相当怪しい出自者含む)が中心だった国学、松下村塾、長州・国家神道と云う、反主流派の群れに当時列強だった「英国」が長州の群れを、現在で言うところのアルカイダ、IS化させ、内乱を起こさせ、傀儡勢力を日本に確立し、日本を中国化させることだったことに起因する。

アルカイダ、ISの後ろ盾が、アメリカの軍産複合企業及びペンタゴン、CIAと利害を一致させるワシントン議会による、小競り合い的な戦争の持続可能性に他ならない。使用期限の限られている武器弾薬は消化されなければ、再生産が出来ないわけで、軍産複合企業は経営の危機に瀕する。極めて常識的に経済原理主義思想に毒されたアメリカは、そのように振る舞うしかないのが原理であり、実情だ。ゆえに、自国に被害の及ばぬ範囲でアメリカは世界中で、小競り合い的な戦争が起きることを好むと云うのが原理だ。

明治維新当時の英国も似たような立場にあった。この辺りがロスチャイルド陰謀論を生む素地になっている。まぁ、当時は、英国、フランス、ロシア、アメリカと四すくみ体制であったため、現在のアメリカ一国独裁に比べ、選択の余地があった。それでも当時の幕府は、アメリカやロシアと、それなりに意味のある通商条約を結び、インドや中国が結ばされた過酷な通商条約に比べ独立国な地位を確保していた。

早い話が、現在のシリア政府を悩ませるIS及び反政府勢力は、その発生において、すべてアメリカ政府が関与していることは、ほぼ確実な事実のようである。アメリカは、自分の足元に戦渦が及ばない限り、世界中で小競り合いが起きていることを好む体質と趨勢を持っている。薩長は、当時の英国にとって都合の良い「IS」であり、テロに次ぐテロの連鎖で、江戸市中を恐怖に陥れたと云うのが史実だと言える。江戸時代の人々も、テロや辻斬りは怖かったのだ。

当時の英国は、近代的軍艦と大砲を、薩長土肥に支援することで、費用の出世払いを画策したと云うことだ。江戸時代に貯めこんだ「国富」は、幕府は貧乏だったが、各藩はそれ相当に豊かな「冨」を持っていたわけで、収奪するに相応しいだけの富であった。士農工商最低ランクの商人も個別に富を蓄えていた。いま現在、国民は豊かだが、国家財政は火の車と云うのと似ている。この薩長土肥の連合は、早々に土肥が切り捨てられ、最後に薩摩が切り捨てられた。残ったのが長州である。

しかし、なぜ貧乏であった長州が生き残ったのか、その多くは謎だが、謎の多くは、当時の長州軍に属する人々が、心おきないデマゴーグ(生まれつきの嘘つき)とテロルを実行出来る人々の集団であったと云う解釈が妥当だろう。つまり、武士道の精神や儒教仏教と云う縛りの精神がない集団であった可能性が高いと見るべきだ。まさに、「IS」なのである。長州人は首切りが大好きだったとか、まさにISそのものだった。

沖ノ島、国家神道と云う壮大な嘘も、神道系群れの常とう手段、歴史の改竄乃至は歪曲性である。現在の安倍晋三や、その政権に群れる人々も、嘘や改ざんが大好きなようだ。ユネスコの強力スポンサーである日本政府に、世界遺産登録に関する検討で、手心が加えられたのもユネスコ陣営の「忖度」に他ならない。それにしても、普遍的価値(黙っていると、自らの嘘がばれる恐怖が常在した集団)が好きな国家神道の群れである。廃仏毀釈も嘘とテロの精神からして、見事なまでに精神と実践が合致している(笑)。 安倍晋三も、その長州の精神を踏襲し実践している。いや、国民が知らないこととは言え、それを後押ししたのは事実だ。しかし、国民も馬鹿ではない。気づけば、その危険さに、動物的感で抵抗するに違いない。

エキセントリックな明治の麻原彰晃こと吉田松陰の塾(松下村塾)と猿真似に過ぎない明治産業革命遺産が、世界遺産登録された時にはビックリこいたが、今度は、神宿る島「沖ノ島」とその関連遺産の世界文化遺産登録が決定したと云う話に及び、どこまで国家神道的勢力がのさばるのかと、呆れてしまった。沖ノ島を、国家神道や靖国神社とどのように無茶苦茶に結びつけるつもりか判らないが、そろそろ、日本人は江戸時代に範を求めるべきである。長州勢のデマゴーグと強圧政治(テロル的)からの脱却精神が肝心だ。細川護熙曰くの「腹七分目の世界」である。以下、参考になる現代ビジネスのコラムを参考掲載しておく。


≪「沖ノ島」世界遺産登録の光と影〜歓喜のウラで覆い隠されてきたもの
アジアでは絶大なブランド力を持つが…

2017年7月9日、福岡県の沖ノ島とその関連遺産の世界文化遺産登録が決定した。
:登録直前の状況については、ニュースなどでご存知の方も多いだろう。日本が申請した資産に対し、ユネスコの諮問機関イコモスは一部だけの登録を勧告した。だが、ポーランドでの世界遺産委員会で勧告がくつがえされ、申請したすべての資産が登録されることになったのである。
:勧告をくつがえしての登録は、関係機関・関係者の運動が結実したものであり、大きな成果と言って良い。他方で、歴史や伝統文化をめぐる学術・観光・政治のバランスという点では、今回の一連の動きは一考に値する。
:欧米と異なり、世界遺産はアジアでは絶大なブランド力を持つ。日本でも世界遺産に登録されたとなれば、とりあえずは人が集まる。そのため、世界遺産登録それ自体が目的となるような状況すら生まれている。
■世界遺産制度の理念
:そもそも世界遺産制度はどのような理念の下に作られたのだろうか。
:きっかけは、1960年、エジプトでアスワン・ハイ・ダムの建設が始まったことだ。ダム建設が進むと遺跡が湖底に沈むことが判明し、ユネスコの働きかけで数十ヵ国の協力が取りつけられ、大規模な遺跡移設が行われた。
:これ以降、遺跡や記念物を国際的な協力の下に保護しようという機運が高まり、1972年に世界遺産条約がユネスコ総会において採択された(1975年発効)。
:そして、1965年に文化遺産保護に関わる非政府組織として設立されたイコモス(国際記念物遺跡会議)が、世界遺産条約の採択以後、世界遺産登録審査やモニタリングなどを諮問機関として行なっている。
:まず重要なのは、世界遺産は遺跡や記念物を「保護」するための制度であることだ。観光客集客とはまったく異なる文脈に棹さしており、むしろ観光によって対象が危機にさらされる例もあるくらいだ。
:そして、こうした保護が想定されていたのは主として発展途上国であった。発展途上であるからこそ、先進国よりも開発の与える影響が急速かつ広範囲なものになりうる。それによって貴重な文化や自然が失われないように、たとえば文化財保護のための法整備なども含めた枠組み作りを促進することが目的だったのである。
:しかし、現在では、世界遺産はミシュラン・ガイドなどと同じような対象の観光的価値を保証するブランドのように見なされている。
:特に日本では、対象保護とはまったく異なる地域活性化や観光振興を目的に世界遺産登録を目指そうという運動も目立つようになってきた。世界遺産検定のような不思議なものまである。
 ■イコモスが勧告したこと
:沖ノ島の世界遺産登録について、イコモスがどのような勧告をしたのか少し振り返って見てみよう。日本側が申請した主な資産は以下の5つである(http://www.okinoshima-heritage.jp/know/)。
【1】宗像大社沖津宮(沖ノ島、女人禁制、男性も通常は立ち入り禁止)
【2】宗像大社沖津宮遥拝所(大島、九州本土からフェリーで30分弱)
【3】宗像大社中津宮(大島)
【4】宗像大社辺津宮(九州本土)
【5】新原・奴山古墳群(九州本土)
:沖ノ島は立地的に古代の日本と大陸の海上交通の要所となった島であり、それを裏づける遺物が大量に見つかっている。しかも、それらは土中に埋まっているのではなく、露出した状態で発見された。8万点もの遺物が国宝指定されており、沖ノ島は「海の正倉院」と称される。
:日本側は、沖ノ島そのものに加え、沖ノ島・大島・本土で三女神を祀る宗像大社、そして、その信仰を担ってきた宗像氏と関わる新原・奴山古墳群を「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として世界遺産登録を申請したのであった。
:こうした申請を学術的に評価検討するのがイコモスの役割である。イコモスは文化遺産保存の専門家から成る組織だ。建築をはじめとして、保存科学・考古学・美術史・博物館学など多様な研究者が参加している。
:イコモスが出した結論は【1】のみ、つまり沖ノ島とその周囲にある3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)だけが登録に値するというものであった。
:イコモスが呈した疑義の一つが、宗像大社が古代からの沖ノ島信仰を継承しているという祭祀の連続性に関する主張についてであった。沖ノ島で4~9世紀頃に祭祀が行われていた痕跡はある。
:だが、9世紀の途絶えた祭祀を宗像大社が継承したという科学的根拠は見当たらないというのである。 :宗像という神社名が『日本書紀』や『古事記』に登場するという主張についても、名前が書かれているだけで、神社の場所についての記述がないことが指摘された。
:沖ノ島への信仰は、当然、本土・沖ノ島・大島での宗像大社の建立に先立つ。イコモスの評価では、前者と後者の連続性は学術的に証明できていないというのである。
:さらに、【5】の宗像氏を祀る古墳は、飽くまで地域や国のレベルに留まる遺跡であり、世界遺産の条件の一つである普遍的価値を持つものではないとしている。
:さらに、沖ノ島を語る際に必ず言及されるタブーの歴史も疑問視されている。
:沖ノ島は女人禁制であり、男子の立ち入りも厳しく制限されている。神職が島へ渡る時も全裸で禊を行う。さらに島内で見聞きしたことは語ってはならず、島の一木一草一石たりとも持ち帰ってはならないとされる。
:イコモスによれば、こうしたタブーも17世紀以降にしか記録されておらず、それほど古いものではない。
:さらに、沖ノ島や宗像大社に関連する祭りや信仰実践も、近年になって再発見されたものや、過去に断絶した実践を再解釈したものであり、連綿と受け継がれてきたものではないと評価されたのである。
:しかし、ポーランドで開催された世界遺産委員会では、イコモスの勧告がくつがえされ、すべての資産が登録された。ただし、これは学術的に疑問点が解消されたということではない。ロビー活動の成果と考えるのが穏当だ。
:世界遺産委員会では、しばしば学術的勧告が政治によって覆されてきており、イコモスを尊重すべきだという議論が委員会内部ですら生じているのである。
 ■国防の島から神宿る島へ
:イコモスの勧告がどのようなものであっても、沖ノ島や宗像大社の価値がわずかでも損なわれることはない。信仰と学術は異なる領域での出来事であるからだ。
:ただ、世界遺産登録を目指せば、自分たちの文化や伝統が学術の視点から徹底検証されてしまうことは強調しておきたい。「世界遺産化」とは、文化や伝統にグローバル・スタンダードを持ち込むプロセスなのである。
:そして、対象をグローバル・スタンダードにかなったものとして提示するため、ある側面が強調され、別の側面が覆い隠されるようなことも行われる。
:沖ノ島については、タブーに守られた「神宿る島」という側面が一貫して強調されている。他方で、同島が戦争と関わりの深い島でもあることはあまり語られない。
:沖ノ島に一般人が唯一上陸できたのが5月27日の現地大祭だ。抽選などで選ばれた約200名の男性が前日に大島に泊まり、翌朝、禊を済ませてから沖ノ島に上陸して参拝する。
:現地大祭のきっかけとなったのは、実は1905年同日の日本海海戦だ。日本の勝利を祝って本土の宗像大社で戦勝が祝われ、戦後になってから、戦死者慰霊の意味も込めて沖ノ島への参拝が行われるようになったのである。
:日本海海戦当時、沖ノ島には海軍のやぐらがあり、兵士・神職・漁民など30名ほどが戦いを目撃した。その一人で当時16歳だった少年の語りは宗像大社の『沖津宮日誌抄』にも記録され、戦後になって書かれた本人の手記も見つかっている。
:日本海海戦から1週間後の読売新聞では、島に東郷平八郎の名を冠した大灯台を建設する案が紹介されている。
:実用的なだけでなく、多くの軍艦が往来する海域であるため、「海軍将卒はその灯火を見るごとに精神的感化」を受けるだろうと論じられている(「東郷灯台建設の義」1905年6日3日)。
:本土の宗像大社神宝館には、沖ノ島の出土品と共に、東郷の発意で海軍から寄贈された軍艦三笠の羅針儀や東郷の書が展示されている。
:こうした国防の島、戦争の島というイメージはその後も継続した。
:1936年、画家・中村研一がスケッチのために島に上陸している。沖ノ島という名の水雷敷設艦が造船され、その館長室と士官室を飾るために、福岡出身の中村に沖ノ島を題材にした絵画制作が依頼されたのだ。中村は食料4日分を持って島に渡ったが、滞在が9日に延びたため、貝や海草をとって腹の足しにしたという。
:その後、第二次大戦においても、沖ノ島は国防の要として軍用地となった。島内には要塞・防備衛所・砲台・軍道などが建設された。とはいえ、これら軍事施設が造られる際には、神の島を畏怖する地元の人々からの抵抗があった。その結果、兵士上陸時の禊、島内での排泄禁止、樹木伐採や土地の形状変更を最小限に留めることなどが定められたのである。
:沖ノ島の戦時遺構については、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議が編んだ『沖ノ島研究』第2号(2016年3月)巻頭に、現地踏査に基づいた論考が掲載されている。
:著者の岡崇氏は、戦時遺構は負の遺産として重要であり、「沖ノ島の歴史と信仰を理解する上で不可欠なもの」だと述べている。同氏が指摘する通り、祭祀遺構も戦時遺構も沖ノ島が海上交通の要だからこそ存在する。それにもかかわらず、前者について語り、後者について沈黙するのは歴史文化の伝達という点で問題があるだろう。
:さらに、世界遺産登録決定から1週間もしないうちに、現地大祭の中止も決定された。国防の島の記憶を伝える数少ない実践であり、一般人が沖ノ島を目にする唯一の機会が失われたことになる。
:登録決定直後、ある全国紙に、沖ノ島の登録はGHQの影響で妨げられてきた神社への信仰や歴史文化を国民に伝えるきっかけであり、訪日観光客が神道を知っているのに、日本人がその歴史文化を知らないのは恥だという趣旨の文章が掲載された。
■あまりに素朴な感想だ。
自分たちの文化や歴史を知ったり誇ったりするのに国際機関の承認はいらない。世界遺産登録されて初めて湧き上がる程度の愛着や誇りなど大したものではない。歴史や伝統文化が安っぽい愛国に動員されて改変されることの方がよほど恥であるように思われる。
 ≫(現代ビジネス:北海道大学准教授:岡本亮輔)


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