世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●長生きは「幸福」なのか? 切実!高齢化というリスク社会

2016年03月02日 | 日記
現代思想 2016年2月号 特集=老後崩壊 -下流老人・老老格差・孤独死・・・
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青土社


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●長生きは「幸福」なのか? 切実!高齢化というリスク社会

Wikipediaによると、「平均寿命」とは、
≪人口統計では、定常な(対象となる年の各年齢の死亡率が今後も維持される仮想的な)個体群について平均寿命を求める。つまり、平均寿命とは0歳の平均余命のことである。 平均寿命は、年齢別の推計人口と死亡率のデータを使い、各年齢ごとの死亡率を割り出す。このデータを基にして平均的に何歳までに寿命を迎えるかを出す。日本の厚生労働省が 発表している日本人の平均寿命は、ある程度以上の年齢のデータについては除外して計算している。これは、あまりに少数の高齢の人物のデータを算入すると、 その生死によって寿命の統計が大きく影響を受けてしまうからである。データ除外の基準は年度によって異なり、2009年度の調査では98歳以上の男性と 103歳以上の女性に関するデータは取り除いている[1]。つまり、日本では平均寿命は実態より短めに計算されていることになる。≫、
と云うことになる。

算出基準が違うので比較は難しいのだが、1891~1898年の古いデータでは、平均寿命男性42.80歳・女性44.30歳となっている。2015年12月現在、男性80.21歳、女性86.61歳となっているので、120年あまりで、平均寿命は概ね倍になった。最近では「健康寿命」と云う言葉もあり、その人が、健康でいられた期間を表す。アバウトだが、男性は70歳、女性は74歳となっている。 幕末明治の庶民の寿命は、信長の敦盛の一節「人間五十年」よりも短い。まあ、室町時代は不慮の死も多かっただろうし、乳幼児の死亡率、疫病、飢饉等々もあったろうから、短いのは当然だったろう。

昨日、最高裁は、認知症JR事故における家族の監督義務に関して、時代を先取りする判決を言い渡した。以下は、それに関する朝日の記事二本である。この判決は、温情に基づく名判決と評価されるだろうが、情緒に流された、温情判決と云うわけではない。日本社会の、今後30年程度に起きる問題を想定した上の判決だと考えおく必要がある。最高裁が、家族の監督責任に重きを置いた最終結論を出してしまえば、高齢者の拘束・監禁を社会に蔓延させた「元凶判決」との誹りを免れないと予測したのだろう。高齢化に関する、脅しめいた言説は、最近とみに増えている。

「漂流老人」、「下流老人」、「老々介護」、「孤独死」、「独居老人」、「介護離職」、「年金不正受給」、「介護殺人」‥等。そして、その近未来予想図から暗示的に提供される言説「世代間格差」。これらの予測が相乗的に起こす、社会現象は、国を混乱の坩堝に引き込む可能性がかなりある。実は、このような社会の出現はリアルなのに、なぜか予想図と云う形で世間に流布している。現実が、余りにも残酷で、人間の尊厳など構っていられない介護社会の現実があると云うことだろう。家族間でも起きるし、介護施設でも起きる、起きているのが現実だろう。

これらの言葉を見聞きすると、若者は、俺には関係ないで済むが、40、50、60歳になれば、自分たちの両親の問題であり、まもなく、自分たちの問題であるわけだが、何となくの不安はあるが、両親もボケないだろうし、我々もボケないよね、そう云う感覚で漠然と問題を先送りしている可能性は多いのだろう。考えたくない「日本の大問題」は経済成長とか、憲法改正ではないのは確かで、この「老人問題」一点に絞られている。町に、1000万人の痴呆老人が徘徊するような社会が、ヒタヒタと迫っている。これは、安倍政権の口先脅しではない。完璧な現実なのだから怖ろしい。

おそらく、2060年くらいまでが、この怖ろしき時代は終焉するのだが、まだ40年以上耐え抜かなければならない。問題なのは、この現象には、人口減少国家と相乗的に起きるので、問題はさらに厄介になる。この高齢化問題に政策を集中すると、40年後には、不要な施設が廃墟になる。介護労働者の過剰現象が生まれるからだ。しかし、それもこれも、戦後の急速な復興により出来上がった社会構造であり、農村共同体の崩壊だったのだから、経済成長のツケだと言える。いまさら、都会に来たのは「自己責任」と主張するのは、歴史に空白を作るようなものである。こう云う問題を解決するために、政治があり、官僚がいる筈なのだが、その多くが、自己権益を専らにしている。

 ≪ 認知症JR事故、家族に監督義務なし 最高裁で逆転判決  
愛知県大府市で2007年、認知症で徘徊(はいかい)中の男性(当時91)が列車にはねられ死亡した事故をめぐり、JR東海が遺族に約720万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は1日、家族に賠償責任はないとする判決を言い渡した。 JR東海は、男性と同居し、在宅介護をしてきた妻(93)と、当時横浜市に住みながら男性の介護に関わってきた長男(65)の賠償責任を求めていた。
 訴訟は、責任能力がない人の賠償責任を「監督義務者」が負うと定めた民法714条をめぐり、認知症の人を介護する家族が監督義務者と言えるかが争点となった。判決は、上告した妻は監督義務者に当たらないと判断し、賠償責任もないと結論づけた。
 最高裁で 2月に開かれた弁論でJR側は、男性の妻と長男が監督義務者にあたり、事故による振り替え輸送費などの賠償責任を負う、と主張。一方、遺族側は「家族だから監督義務者になるとは言えない」「一瞬の隙もなく見守ることは不可能」だと訴え、家族に賠償責任を負わせるべきではないと主張していた。
 家族の賠償責任について、13年の一審・名古屋地裁判決は、男性の妻と長男の両方に責任があると認め、全額の支払いを命じた。14年の二審・名古屋高裁は妻のみが監督義務者にあたると判断して、半額の約360万円の支払いを命じる判決を言い渡した。
 最高裁判決について、長男は「大変温かい判断をしていただいた。良い結果に父も喜んでいると思います」とのコメントを発表した。  ≫(朝日新聞デジタル)

 ≪ 遺族「施錠・監禁でいいのか」 認知症で徘徊事故訴訟  
愛知県大府市で2007年、認知症で徘徊中の男性(当時91)が列車にはねられ死亡した事故で、JR東海が遺族に約720万円の損害賠償を求めた訴訟の弁論が2日、最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)で開かれた。この日で結審し、判決は3月1日。認知症の高齢者が起こした事故の賠償責任を、介護してきた家族が負うべきかについて、最高裁が初めての判断を示す。
 「一、二審の判決は、認知症の人や家族にとって、あってはならない内容。最高裁には、認知症の人たちの実情や社会の流れを理解した、思いやりのある判決をお願いします」。長男(65)は弁論を前に、そうコメントを寄せた。
 JR東海から「監督義務者だ」と訴えられた長男は2年前に会社を退職。昨年2月に横浜市から愛知県大府市の実家近くに戻った。今は、父が営んでいた不動産業を継ぎ、母親(93)や妻(63)と生活している。
 事故当時、妻は介護のため、父の自宅近くに住み込んでいた。妻が片付けのために玄関先に出て、そばにいた母もまどろんだ一瞬の間に、父は自宅を出た。
 小銭も持たず、自宅近くのJR大府駅の改札を抜け、一駅先の共和駅まで列車に乗って移動。駅のプラットホーム端にある階段から線路に下りたとみられ、列車にはねられた。階段前には柵があったが、鍵のかかっていない扉から線路内に下りることができた。
 「どうして大府駅の駅員は、父を入場させたのか。なぜ共和駅の駅員は、一般の乗客と逆方向に向かう父を呼び止めてくれなかったのか」。家族は裁判で疑問を投げかけた。
 父は事故に遭った際、お気に入りだったニューヨーク・ヤンキースの帽子をかぶっていた。帽子にも衣服にも、妻が、連絡先を記した布を縫い付けていた。この名札をもとに、警察は家族に一報を入れた。  事故の約10カ月前、認知症が重くなり「要介護4」の認定を受けた際に、家族は一度は特別養護老人ホームへ の入所も考えた。だが、結局は在宅介護を選んだ。「父は住み慣れた家で生き生きと毎日を過ごしていました」。長男は振り返る。一瞬のすきなく監視しようとすれば、施錠・監禁や施設入居しか残されない。それでいいのか――。そんな思いが、事故からの8年を支えてきたという。(斉藤佑介、市川美亜子、河原田慎 一)
■介護家族、訴訟を注視  
「認知症の人と家族の会」(本部・京都市)副代表理事の田部井康夫さん(68)は弁論を傍聴した後、「最高裁では、介護する家族が免責される判決を望みます。これまでの判決はあまりに酷です」と語った。同会は一、二審の判決後に出した見解で「認知症の人の実態をまったく理解していない」などとし、判決を「時代遅れ」と批判している。
 多くの介護家族がこの訴訟に自分を重ね、注目する。一人暮らしの認知症の義父を支えるために仕事を辞めた千葉県の女性(48)は「介護で苦労した家族だけが責任を負わされた。判決が最高裁で変わらなかったら、私も介護から逃げ出したい」と話す。
 家族の責任は、いま介護中の人だけにかかわるものではない。認知症の人は2012年に高齢者の7人に1人で、25年には5人に1人になる。徘徊(はいかい)中の事故のほか、車の事故や火の不始末などのトラブルの増加も避けられず、誰もが認知症と無縁でいられなくなる。そんな社会に最高裁の判断が与える影響は大きい。
 一方、徘徊がからむ事故などの損害にどう備え、どう賠償するのかも、この訴訟が投げかける問題だ。  一般に、個人ができる対策として民間の「個人賠償責任保険」がある。火災保険や自動車保険などの特約として付ける場合が多い。日常生活でけがをさせたり、商品を壊したりして賠償を求められたとき保険金がでる。ただ一定の条件があり、すべての事故がカバーされるわけではない。
 介護関係者からは、個人の責任で賠償するのではなく、国が関わる公的な救済制度の創設を求める意見も出ている。(編集委員・清川卓史、友野賀世)  ≫(朝日新聞デジタル)


以下に、2本の関連コラムを載せておく。筆者を含めてだが、自分の両親が要介護になる。或いは、自分が、そうなると云う立場で読んでもらうと、ウンザリはするが、身につまされる。


≪ 90歳の入居者が激白!介護ホームの“悲惨なる日常”
川崎市幸区の老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で、入所者の男女3人が相次いで転落死した事件で、殺人容疑で逮捕された同施設の元職員の男は、 「(介護に)手がかかる人だった」 「ベランダまで誘導し、男性を抱きかかえて投げ落とした」 といった供述をしているそうだ。
 介護のいかなる状況にあっても、暴力や虐待は許されることでない。 だが、 「他人事ではない」ーーー。介護現場で働く人たちは、口をそろえる。 「……誰にでも、実はそういう事件を起こしてしまう立場にあるんだなぁって…」
 いや、働く人たちだけではない。
 ホームに入所している“高齢者”の方も、だ。
 現在、90歳。ご主人が要介護となり、ご夫婦で入所されている方から寄せられたメッセージを紹介します。介護現場のリアルを「我がごと」として一緒に考えてみてください。

 「Sアミューユ川崎幸町で起こったことは、他人事ではないような気がしています。殺害なんて絶対に許されることではないし、虐待も暴力もいかなる場合も許し難いことです。
でも、入所者の中には大声で喚き散らす人、たえずヘルパーを呼びつける人、自分が判らなくなってしまった人、思うようにならないとヘルパーの手をかみつく人など、さまざまです。
そんな人達の家族に限って 面会に来ることがなく、ホームに預けっぱなしなのです。
私は夫とともに、毎日、食堂で食事をしているのですが、食事は終わったのに、食べた感覚がなく「食事を早くください!」「死んでしまいます」と大声でわめいている女性がいて、若いヘルパーが優しく対応している姿に頭の下がる思いがしています。
ヘルパーさんたちがあまりに大変そうなので、食器を運ぶくらいお手伝いしようと申し出ました。 でも、絶対にやらせてもらえません。ナニかあったときに、施設の責任になるからです。
先週、またヘルパーが二人辞めてしまいました。理由は『給料が少なくて結婚できないから』ということでした。離職者があとを絶たず、その補充もなかなか見つからないので、残ったヘルパー達が、過重労働を強いられているのが現状です。
ホームには各部屋にインターホーンが設置してありますが、認知症の進んだ入所者がひっきりなしに夜間押すこともしばしばです。 夜勤ヘルパーは、その度に対応しなくてはならない。就寝前に投薬が必要な人もいるので、夜勤の仕事はかなり重労働です。
ヘルパーの中には夜勤はしない、という条件で勤務している人がかなりいるので、限られたヘルパー達が順番でやっているのです。
すぐに順番がやってくるので、真面目なヘルパーは体重は減るわ、顏はやつれるわで見ていて可哀想になります。私はいつもそんな彼等に感謝と激励の言葉を送っていますが、そんな感謝の言葉だけでは、彼女・彼らが報われません。
みなさん、献身的にやってくださります。でも、……人間には限界ってものがありますよね。
政府は施設を作る、と言っていますが、その前にヘルパーの待遇を改善すべきだと思います。ヘルパー不足は入所者へ深刻な影響をもたらしているのです。オムツ交換が4回だったのが3回になり、夜間見回りもなくなり、適性があろうとなかろうと採用するしかない。悪循環です。
高齢者へ3万円支給する余裕があるなら、介護関係に回すべき、だと思います。 ここはまさしく姥捨山です。入居者たちはみんなそういっています。 入所者は家族が介護の限界にきたために本人の意志でなく入れられた人が多いので、私のように発言できる入所者は滅多にいないと思います。 私のコメントがお役に立つようでしたら、こんな嬉しいことはありません。どうか薫さんのお力で、たくさんの方に現状を知ってもらってください」

 ■……これが介護現場のリアルです。
  介護職の方たちの多くは、「おじいちゃんやおばあちゃんに、少しでも笑顔になってほしい」と献身的に働く人たちが多い。だが、そもそもそういう方たちでさえ、常に心の葛藤に襲われるのが介護の世界だ。
 だって、関わるのは全員「人生の大先輩」。それぞれの人生、価値観で長年過ごしてきた高齢者の方に、注意するのはとても気を使う。自分の親でさえそうなのだから、他人であればなおさらだろう。 「本当にこれでいいのだろうか?」 「他にもっといいやり方があったんじゃないのか?」 そんな不安に苛まれる。
 相手が“人”である以上、10人いれば10通りの問題が起こる。一つひとつは小さなトラブルで、ちょっとした対応で処理できるかもしれない。だが、「ホントにコレで良かったのかな?」と不安になる。特に高齢者の“変化”は突然起きるので、対処が実に難しい。
 本来であれば、そういった不安を現場のスタッフたちで分かち合えればいいのだが、全員が自分の仕事でいっぱい いっぱいで時間的にも、精神的にも、余裕がない。他の職員を気にかける余裕など微塵もない。おまけに夜勤、早番、遅番とシフト勤務なので、顔を合わせるこ とも少なくなる。
 介護の現場というのは、実に「孤独」なのだ。
 さらに、平均月収は21万円程度で、他の職種より10万程低い。ただ、これには施設長や看護職員など、比較的高い賃金の職種の方たちも含めた数字なので実際には10万程度という人もいる。
 この低賃金を一般平均である30万程度にするには、年間1兆4000億円ほど必要となり(NPO法人社会保障経済研究所算出)、労働人口で単純計算すると「ひとりあたり年間3万円弱の負担」が必要になる。
 ご存じの通り、昨年、4月から介護報酬が2.27%引き下げられたが、これは2006年の2.4%の引き下げから2回目のこと。介護施設の 人権費率は約6割、訪問系介護は7割と大きいため、報酬引き下げはダイレクトに労働力不足に影響を及ぼす。前回の引き下げで労働力不足に拍車がかかったに もかかわらず、再び引き下げを決めたのは狂気の沙汰としか言いようがないのである。
  「月額1万2000円引き上げるっていってたでしょ?」
 そのとおりだ。だが、それが本当に労働者にちゃんと支払われているかどうかは確かではないのが実情なのだ。 また、前述の女性のメッセージからも人手不足なのは痛いほどわかるのだが、2020年代には、さらに約25万人もの人材が不足するとされている(厚労省算出)。
 重労働、低賃金、超高齢化社会ーーー。この先どうなってしまうのだろう……。 「高齢者へ3万円支給する余裕があるなら、介護関係に回すべき」という、“高齢者”からの意見を、どう政府は受け止めるのか。
 もし、質の高いサービスを望むなら、もっともっと介護保険料を国民が負担すべきで、それができないのであれば、サービスの質を下げるしかないと思う。
 食事、排泄、入浴のニーズに対応するためだけのサービスと割り切り、現状の劣悪な環境を変え、当然、残業はゼ ロ。1人でも離職者を減らし、1人でも多くの人たちが介護士さんを目指し、1人でも多くの高齢者がケアを受けられ、1人でも多くの家族が自分の仕事と両立 できるようにする。 「でも、それじゃあ……」
 うん。それでは……だ。だが介護現場は、頑張りすぎた。頑張らないことから、議論し直す。崩壊するよりその方がまし。
 だって、このまま質を求め続ければ、介護業界は破綻する。
 これ以上の甘えは、暴力と同じ。崩壊も、虐待も、破綻もイヤ。誰もが老いる。親も老いる。自分も老いる。その人生最後の終の住処が、こんなにも悲惨な状況じゃ誰1人、幸せにならないのではないか。 そして、私も、もっとこの闇の解決策を現場に耳を傾け探して行きたいと思っています。

*河合薫 健康社会学者(Ph.D.,保健学)。
千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。 2004年東京大学大学院医学系研究科修士課程修了、2007年博士課程修了(Ph.D)。産業ストレスやポジティブ心理学など、健康生成論の視点から調査研究。フィールドワークとして行っている働く人々へのインタビュー数は600人に迫る。医療・健康に関する様々な学会に所属し、東京大学や早稲田大学で 教鞭を取る。2月下旬発売・新刊「考える力を鍛える『穴あけ勉強法』・難関資格・東大大学院も一発合格できた!」(草思社)  ≫(yahooニュース:個人―河合薫)


 ≪ 声に出して言いにくい「日本の大問題」第2回 藻谷浩介×湯浅誠 
人口減少社会 日本人が「絶滅危惧種」になる日 地方が消滅し、都会は認知症の老人ばかり 毎年20万人以上が消える「人口減少社会」となった日本。このまま人は減り続け、地方は消滅してしまうのか。「絶滅」を避けるためにすべきこととは。地域振興と貧困問題の専門家が激論を交わした。

 ■介護離職が激増する
藻谷 団塊の世代 が生まれた直後の'50年には、日本には0~4歳の乳幼児が1120万人もいました。団塊ジュニアが生まれたばかりの'75年には、1000万人です。それが、2010年には530万人。生まれる子供の数は半分になってしまった。今の日本はまさしく「人口減少社会」だと言えますね。 例えばトキの雛の数が半分になったら、これは絶滅危惧種として保護しようという話になる。それなのに日本では、子供の数が半減しても、誰も自分たちが「絶滅するかもしれない」とは言わない。

湯浅 危機感が足りない。

藻谷 子供が生まれなくなったのに伴って、15~64歳の生産年齢人口もどんどん減っています。今、日本には就業している人が2人に1人しかいないんです。正規でも非正規 でも、パート、アルバイトでも、1週間に1時間でも働いておカネをもらっている人は、日本人の半分弱しかいない。高齢者が増えて、若い人が減っているからです。

湯浅 人口減少によって、社会はどんどん疲弊している。それはこれからもっと深刻になります。その大きな要因の一つが「介護離職」です。今、40代後半から50代の人たちが親の介護のためにどんどん仕事を辞めている。'12年のデータでは約15万人に上りました。

藻谷 まだ働けるのに、仕事を辞めざるを得ない。

湯浅 ええ。もし 要介護となっても、介護保険だけでは足りないので、子供が離職して親の面倒を見るしかない。ところが、戦後続いた人口減少で核家族化が進み、今では日本の ほとんどの高齢者は子供が1人か2人しかいません。つまり、「親なんて知らない」と言えなければ、仕事を辞めざるを得ない。
 しかも介護は、終わりがいつ来るかわからない。ようやく介護が終わって復職しようにも、年齢が足かせになって仕事が見つからない。介護中から親の年金に頼るようになって、亡くなっても仕事がないから、死亡届を出せなくなる。そうして起きたのが、年金不正受給事件でした。

藻谷 '10~'15 年の足元5年間には、団塊世代が退職していくため、就業者が220万人減ると推計されます。そして、75歳以上の人口は230万人も増えるので、介護の担い手は到底足りない。介護離職も、5年間で80万人にはなるでしょう。220万人と合わせれば、300万人も働く人がいなくなることになる。

湯浅 それだけではありません。中高年の独身の問題も広がっているんです。'05年の国勢調査で40~50代の独身者で親と同居している、いわゆるパラサイトシングルが 200万人を超えたんですが、彼らは概ね'60年頃までに生まれた人です。比較的、ちゃんと就職して、結婚して、子供を作ることが幸せだと考える、「自立」が善だという価値観で育っている。でも、実際にはそうできなかった人が200万人もいる。'05年の調査から10年たって、パラサイトシングルはもっと増えたと言われています。
 さらに、その後にはフリーターとか、非正規雇用が広がった団塊ジュニア以降の世代が控えている。経済的な理由から、子供を作るなんて考えられない人が激増しているんです。

藻谷 東京五輪が開催される2020年頃には、その人たちが45歳以上のパラサイトシングルとなって、社会問題として顕在化するでしょう。そして働いている人たちも、その時期から親の介護が始まる。働けるのに、介護でやむなく働けなくなる人が増えていく。

 ■みんな見て見ぬふりだけど
湯浅 街に認知症の老人が溢れて、その介護のために現役世代が働けなくなるわけです。経済が滞り、年金保険料の負担は増え、支給は減額。介護の虐待事件がいたるところで起こって、町が暗くなってしまう。
 経済も社会も不安だし、支える制度もないから若者は子供を作ろうと考えない。この負のスパイラルが少子高齢化、人口減少を加速させていく。そうな ることは、みんなわかっているはずです。これだけ統計的なデータが示されているのですからね。わかっていながら、見て見ぬふりをしている。

藻谷 私は今の 「経済成長が何よりも大事」という風潮自体が問題だと思っています。日本のGDP(国内総生産)は戦後ずっと成長しっぱなしでした。不景気だったはずのここ20年を見ても、総じて横ばいで減っているわけではない。貿易額に至ってはバブル期の1・5倍に増えている。その一方で子供の数は半減しています。カネを基準にすれば成長はしていても、人を基準にすれば衰退です。これが幸せと呼べますか。それなのに今の安倍政権は、まだGDPを押し上げる政策ばかりを旗印にしている。

湯浅 株価が上がっても、人口は増えない。

藻谷 アベノミクスで「円安だ、株高だ」と言っていますが、その円安のせいで日本の経常収支は昨年後半から、ついに赤字基調になった。日本からどんどんカネが出て行っているのに、「これから内需回復だ」と言っている。円安で輸入している燃料や原材料も値上がりし、国民の生活コストは上がっている。しかしほとんどの人の賃金は上がっていない。ですが、家計から支払われるコストが増えるとGDPは上がるんです。おかしいでしょう?

湯浅 介護や子育てのコストも、上がるとGDPが上がる。子供が増えない社会を進めたほうが、成長していることになる。 藻谷 欧州では子供に対して日本の4~5倍の予算をかけ、少子化を食い止めています。一方、日本では、輸出大企業を優遇して経済成長というのが最優先のまま。
 これはアメリカの銃規制問題の議論に似ていると思いませんか。オバマ大統領が「銃規制をしよう」といくら叫んでも、共和党保守派は反発しています よね。日本人なら銃規制して、町に銃がなくなるほうが、銃犯罪は減ると思うでしょう。でもアメリカでは「銃犯罪を減らすために銃を増やして自分を守るんだ」という理屈がまかり通る。これと同じで、日本では、いくら経済成長しても子供の減少は止まらないという現実に目を背けて、GDPが上がれば何でも解決するという理屈がまかり通っている。

 ■精神論では解決しない
湯浅 日本にはもの凄く強い「勤労イデオロギー」があるからでしょう。「働かざるもの食うべからず」の精神です。現役世代が多い時代はそれで良かったかもしれませんが、今の日本には働ける人が2人に1人しかいない。
 高齢者や障害者に対してはいたわりの精神があり、介護離職者にもそれなりの理解があるけど、そうではない現役世代で仕事がない人間や妻子を養えて いない人には「人間失格」という烙印を押してしまう。こういう考えの人は年配の富裕層に多くて「私たちは戦後の酷い状態でも子供を生んで子育てをした」という自負心がある。

藻谷 だから頑張りなさいと。しかし彼らもこれから必然的に年金も減るし、介護も受けられないという問題に直面する。現実を目の当たりにすれば、勤労イデオロギーが通じないことは、わかってくれるんじゃないでしょうか?

湯浅 いや、それは難しいと思いますね。なぜなら、彼らは必死に働いて、戦後の貧しい時代を生きぬいてきた。勤労イデオロギーを否定することは、自分の人生を否定することになるからです。今後10年間で団塊の世代が後期高齢者になって、要介護者が激増し、そのために介護保険や年金が崩壊しても、彼らはそのリスクを受け入れる覚悟はあると考えている。

藻谷 そこで出てくるのが、自己責任論ですね。

湯浅 はい。自己責任論は、働けないということも含め、うまくいかないのはすべてその人個人の責任だという考え方。日本人の根っこには勤労イデオロギーがあって、それが近年の経済第一の競争社会の中で強まってしまった。働けない奴は振り落としてしまえと。仕事がないのも子供が作れないのも、介護が受けられるだけのカネがないのも、「結局その人の頑張りが足らなかったからでしょう?」という風潮になった。

藻谷 自己責任論を唱える人たちは、結局は介護離職や子育て、人口減少という問題を解決できるとは思っていない。ただ、若者に頑張れと精神論を振りかざし、マイナスを押し付けているだけ。こんな状況で、若者が子供を作りますか?

湯浅 自己責任論が蔓延する社会になって、成果主義がエスカレートし、ブラック企業がはびこって、うつ病になる人が激増したのに、対策は取られなかった。「できないやつが悪いんだ」「若者がたるんでいる」と言って押し切られる。

藻谷 地方の若者も、まじめな人ほど勤労イデオロギーに染まって、未だに東京に出てくる。

湯浅 ええ。「地方消滅」と言われるのも、本来地方が支え、地方を支えるべき若者が、アテもなく東京に出て行っているという側面がある。地方の若者が東京に来るのは、「地方の疲弊」という言われ方で、東京の生活のほうがいいんだという価値観を植え付けられているのでしょう。
 仕事を求めて地方から出てくる若者は、「地元は針のむしろだった」と言うんですね。30代で定職につけなくて、結婚をする見通しも立たない。この段階で「人間失格」と烙印を押されて、引きこもりになるか、アテもなしに東京に出てくる。でも東京は家賃も高ければ、物価も高い。それなのに得られる仕事 はアルバイトなどの低賃金。それでどうにもならなくなって、生活困窮者になる人が多い。

藻谷 しかし、 「地方の疲弊」と言っている人たちは何を見て疲弊したと言っているのですかね。東京のマスコミが地方のシャッター通りを映して、地方の疲弊と言いますが、 じゃあ東京にはシャッター通りはないんですか。ちょっと駅から離れたところは軒並みシャッター街になってますよ。 確かに、地方消滅は危ぶまれます。でも、東京だって状況は厳しい。ブラック企業を除けば、仕事がないのも似たようなものです。地方の疲弊を言う人は 「東京は地方よりましなんだ」と信じたい東京の人間と、「地方の疲弊を言うことで東京からカネが来る」と思っている地方の人なのでは。

湯浅 本当は地方で生活するほうが家賃も安いし、物価も安い。
 実は2~3年前までは、僕は地方経済が良くなり、人口減少に歯止めがかかる芽が生まれ始めてきたと楽観していたんです。地方を見て回ると、闇雲に経済成長を目指して箱物を作っても今後はやっていけないと、人々が気づき始めていた。藻谷さんが提唱する「里山資本主義」のように、地域の循環型経済を目 指す機運が高まってきていた。

藻谷 しかし、アベノミクスでまた逆戻りしてしまった感がありますね。陳情に行けば、また公共事業で食えるんじゃないか。そう思う人が再び増えてきた。

湯浅 全然、地方は儲かってないのですけどね。地方の事業のカネが東京に戻るようなカラクリになっていて、地域での循環経済にならない。日本はまた、暗礁に乗り上げてしまった。

藻谷 「里山資本主義」には大きな反響がありました。自然豊かな地方で、例えば製材工場から出る木くずでできたペレットを燃料に使えば、乱高下する原油価格に悩まされなくてもすむ。地域独自の少量の農産品をブランド化する。小さな企業も年々増加し、都会から移り住む若者も増えている。東京より賃金は安くても、食べ物も近所の人たちで融通しあったりして生活しやすい環境がある。人口減少社会を乗り切るのにふさわしい、低コストで楽しい生活が実現できるのです。
 そもそも、東京は出生率が1・1しかない。それに対し、地方の出生率は1・5前後です。地方が活性化すればもっと子供が増える。

 ■「消費者」がいなくなる
湯浅 それに地域の元気なおじいちゃんおばあちゃんが子育てや介護に参加してくれる仕組みができれば、介護離職、子育て離職も減らせ経済も活性化する。そのためには核となるコミュニティが必要です。  例えば、東北の被災地ではコミュニティ作りのためにいろいろな試みが行われています。こんな例があります。学生が中心となって、仮設住宅のベンチ や棚を作る日曜大工を請け負うという活動があったんです。そしたら、力仕事だから、おじさんたちも参加してくれて、それでおばあちゃんたちが感謝して。日曜大工のチームを作るということになった。役割って与えられるだけではダメで、その仕事で感謝されることが大事なんですよね。でもその活動は、結局は自治体から勝手にモノを作るな、とストップがかかってしまったそうです。

藻谷 それは残念ですね。しかし、こういうことはやっぱり地方のほうがやりやすい。東京は人を集めるだけで施設の利用料などでカネがかかってしまう。

湯浅 何か地域でやろうとすると、いろいろな抵抗勢力がいる。さらに、目先の経済成長がすべてだという価値観では、結局カネにならないことは何もしないほうがいいということになる。この価値観を払拭しないと。

藻谷 そうですね。私たちは何も経済成長そのものを否定しているのではありません。しかし経済成長だけを求め続けると人口減少に拍車がかかり、消費する人がいなくなって、結局は経済成長の足かせになる。このパラドクスに日本人は気付いていない。
 でも日本にも稀有な例はあるんです。長野県の下條村では20年前から生産年齢人口が減っていません。そして子供の数も増えています。一定の数の子 供がいるから、保育所や小学校の数も増やしたり減らしたりしなくいい。下條村では30年も前から村を上げて子育て支援をやっています。我々も今からでも遅くはない。社会全体で子育てしたり、介護したりする仕組みを考えるべきです。

湯浅 同感です。途上国型の成長ビジョンから、成熟型の成長ビジョンへの転換が必要です。自己責任論で誰かを排除するのではなく、みんなで支えあう包摂社会を目指したいですね。

*藻谷浩介(もたに・こうすけ)/'64年生まれ。日本総合研究所調査部主席研究員、日本政策投資銀行特任顧問。地域振興の各分野で研究、講演を行っている。著書に『デフレの正体』『里山資本主義』など

*湯浅誠(ゆあさ・まこと)/'69年生まれ。社会活動家。'08年末「年越し派遣村」村長として一躍その名を知られる。日本の貧困の現実を記した『反貧困』で大佛次郎賞受賞。'14年度より法政大学教授就任予定  ≫(現代ビジネス:オトナの生活・賢者の知恵・2014年02月21日週刊現代)

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