世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●安倍が中韓首脳に“ていねいに説明” 話せば問題はこじれ、本音が出たら戦争だ

2014年01月07日 | 日記
アメリカン・デモクラシーの逆説 (岩波新書)
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●安倍が中韓首脳に“ていねいに説明” 話せば問題はこじれ、本音が出たら戦争だ

 身のほど知らずな人が偉くなるくらい怖いことはない。現在の安倍晋三が典型であるが、その前の野田佳彦も酷かった。その前の菅直人も酷かった。麻生太郎と云うのも酷かった。こんな按配で政治が動いて行く限り、我が国の平和は遠ざかるばかりだろう。なにも、筆者のイデオロギーに合うとか合わないとかの問題ではない。人間としての品格と矜持が見当たらない点が、もっとも問題だ。

 日本の不幸は、世界を取巻く金融財政状況と安倍首相が提唱するアベノミクスが、一時的に同一周波数の上に乗り、同一路線を歩んでいるような時期が、一定程度続いたと云う経済政策への幸運が押し寄せたのだと理解できる。金融で、金儲けをしたがっている世界中の連中にとって、適切な戦場を提供した点は、当然一部の金儲けビジネスに関与する人々からは、好評価を受けるのは当然である。中国や韓国が、首脳会談に応じない姿勢を、困難に立ち向かうためにも、前提条件抜きで、胸襟を開き話し合うべきだ、と尤もらしい主張をするのだが、首脳会談が出来なくなった、原因とか結果を横において、“困難に立ち向かおう”と云う声明は、世界の外交ではあり得ない主張である。国内のノータリンな熱烈支持者の集会で語る内容に過ぎない。

 「私の方の扉はいつでもオープンだ」等と世間に吹聴しながら、彼らが望まない歴史認識を、世界中にふりまき、言説で中国、韓国の指導者たちに足枷を噛ませた上で、正義があるなら、堂々と話し合おうではないか、そういう態度は日本の伝統的武士道の精神からしても、姑息にして浅ましい。筆者の偏見と毒を混ぜ込んだ口からは、だから長州の田舎侍だと云うのだ、と云う悪口になってしまう。尖閣や竹島の領有権の帰属の主張が話し合われる首脳会談であれば、中韓の首脳の腰も動くかもしれない。しかし、それはさておき、胸襟を開こうと云う呼びかけは、自ら行ってきた一連の言動を忘れた物言いである。

 「靖国神社参拝について私の真意を直接、誠意をもって説明したい」とも言っているが、まさかあれは長州の土着信仰の神社であって、祀られている戦犯はついでに過ぎず、心は長州の先輩諸氏への参拝に過ぎない、等と言えるわけもなく、サンフランシスコ講和条約の歴史的認識を、安倍晋三流の解釈で認識している、と言い出すのがおちで、火に油を注ぐ以外のなにものでもない。たしかに、全面降伏するに際し、多くの日本側の言い分が無視されたのは事実だろう。米英軍もロシア軍、紅軍も似たりよったりの乱暴狼藉をなしたことは、想像に難くないわけでが、第二次世界大戦のように、戦勝国と敗戦国が明確に色分けされた以上、日本の地位が賊軍の地位に据え置かれる処遇も、甘んじて飲みこむ度量が、まず必要。その上で、素晴らしい国を世界の人々に理解して貰うためにどうするかが、王道である。

 現在の世界秩序は、不愉快であるが、第二次世界大戦の戦勝国、敗戦国と云う色分けに立脚した上で、世界の基礎的枠組みは成り立っている。敗戦国である、ドイツと日本が、戦後紆余曲折を経たのち、米国に次ぐ経済大国として復興出来たのも、この戦後の基礎的枠組みの中で起きた事である。様々な歴史的思惑があったとしても、戦勝国の枠組みの中で、敗戦国だった日本とドイツが経済的にのし上がることが可能だった事は、戦勝国の枠組みではあるが、そこのフェアな精神があったことも無視は出来ない。

 敗戦国であった日本が、戦後の枠組みの中で、それなりの大国になれたのには、世界のそれなりのフェアな視線が原則であった事を忘れてはならない。ドイツは東西ドイツの分断など、この世界のフェアな基本的精神を強く意識して、世界の仲間入りをしてきたのだが、どうも日本の場合、その辺の感覚が希薄な人々の多さが気にかかる。戦勝国が国際連合を形づくる上で、第二次大戦の歴史観は、史実に関係なく“斯く斯く然々なものであった”と云う暗黙の約束事が存在していた。つまり、“斯く斯く然々なものであった”という暗黙の了解が存在することを意識することで、戦後、敗戦国であるにも関わらず、ドイツも日本も経済大国として復興出来たのである。

 それゆえに、今さら「あの戦争は侵略戦争ではない」と主張出来るのは、歴史家であったり、巷の右巻きの人々の口から発せられる分には問題はない。たしかに、敗戦国が史実と異なる事情確認を迫られたのも事実だろうから、それはそれで構わない。しかし、日本政府や官僚がそれを口にしてはいけない。不満が大いにあるとしても、それを否定することは、現在の我が国のアイデンティティそのものをも否定する事になるからである。無論、内閣総理大臣や閣僚が、戦後の暗黙の約束事を無視するような言動を行えば、戦勝国の枠組みの下で、権益を享受した敗戦国であるドイツや日本に対し、厳しい国際的評価が下されるのは自明なのである。

 最近、20代、30代に、勇ましい考えの人々が増えていると云う調査結果が出ているようだが、彼らは、日本が鬼畜米英を叫び、日本人がアメリカ軍と血みどろの戦争をした歴史すら知らない層や、知っていても、なんら身近な実感を伴わない、ただ過去のひとコマくらいにしか感じられないだろう。それはそれで致し方ないことだろう。特に責める気にはなれない。多くの生活追われ、人生観より生活感だ!と思い込んでいる庶民も、責める気にはなれない。日本のリーダーであるべき、政治家や論壇が、この戦後の枠組みの暗黙の約束事を、当時の国民に充分に伝えることもせず、パニックを怖れ、今後の日本がどのような立場で、国際社会に向き合うかの確認作業を怠ったのだと思う。当然のことだが、知らない国民の子供として生まれた彼らは知る由もない。

 このような言説を書き記すと自虐史観と云う言葉が返ってくるが、それは間違いだ。筆者が主張しているのは、自らの国家の歴史を自虐的に捉えようとしているわけではない。敗戦国にも、戦勝国にも、戦争に参加した、それなりの事実関係があるわけで、その時の判断が是であったか非であったかではなく、第二次大戦後の世界の枠組みが、どのようなものになり、どのような精神構造に裏打ちされているか、その部分を、シッカリと認識することが重要だと言っている。この問題から目を背けて、戦勝国オンリーのルールはケシカランとか言っていても始まらない。芯から反撃し、敗戦の汚名を晴らさんとするのであれば、戦後の戦勝国の枠組み、そこに流れる精神を、先ずは受けつけることだ。苛立ちや、義憤や、怒りが生まれるだろうが、それは胸の中におさめるべきである。

 胸の中に仕舞いこんだ義憤や怒り、悲しみと云うコンプレックスを、大きな力に変化させ、清水の舞台から飛び降りるのではなく、あの太い柱にしがみつき、いつ落ちるかと云う恐怖感を味わいながら、地面に足のつく日を待つべきなのである。余程の忍耐が必要であり、壮大な戦略性も持たなければならない。誤解されないために言っておくが、そのコンプレックスの力を発揮する事が、大戦時の戦勝国をやっつけることでは点、一言申し上げておく(笑)。日本と云う国が、自国民にも優しく、他国民にも優しく、そしてリスペクトを得られる「穏やかで、しなやかで、強い国」になるための、戦略性を持とう、と言っているだけである。

日本人は民主主義を捨てたがっているのか? (岩波ブックレット)
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