若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

久々に秩父を愉しむー和同開珎の聖神社から秩父神社へ

2019年06月05日 | ドライブ


5月13日(月)妻と二人で愛車プリウスに乗って4年振りに秩父方面へ行って来ました。



最初に行ったのが「聖(ひじり)神社」です。

西暦708年に和銅遺跡(秩父市黒谷)から自然銅が発見され、これを喜んだ朝廷は年号を「和銅」と改元し、その銅を利用して日本最初の流通貨幣「和同開珎」が発行されました。

その和銅遺跡から約600m程のところに、「聖神社」がお金儲けの縁起の神様として地元の人達に親しまれています。



聖神社創建当時、採掘された和銅石13個と、元明天皇下賜の銅製の蜈蚣(ムカデ)雌雄一対が御神宝として納められ、今の銭神様として言われる所以になっています。

また、蜈蚣には足がたくさんあるので、 お金に困らないとも云われています。

聖神社のすぐ横にある宝物庫に和同開珎、自然銅と一緒に保管されているそうです。



聖神社から歩いて5分のところに秩父鉄道「和銅黒谷駅」があります。

和銅黒谷駅は、和銅奉献1300年を記念して2008年に「黒谷駅」から改称されました。



どこか懐かしいレトロな雰囲気の駅舎は、訪れる人をノスタルジックな気分にさせてくれます。



ホームには和同開珎モニュメントもあります。



和銅黒谷駅から国道140号線(彩甲斐街道)を渡り、5分ほど歩くと「秩父市指定 有形文化財 内田家住宅」が見えてきました。

この内田家住宅は、間口八間、奥行六間で中二階は養蚕部屋になっています。

土間の柱は手斧仕上げ、広間の上部に曲がりくねった太い横木がたてよこに組まれ、その下に神棚がおさめられている、とのことです。



この建てかたは、秩父地方の大工のすぐれた技術によるもので、県内には他に類のない住宅であり、建てられた年代は十七世紀初期のころだそうです。

内田家の先祖は、室町期より現在地に居住していたと推定され、江戸時代初期より明治初年まで名主役を勤めていた家柄である、とのことです。



お腹も空いてきたので「道の駅ちちぶ」まで車を走らせ、荷車屋道の駅店(秩父食堂)で私は天ぷらそば(絶品!!)妻は板そばを食べたあと、歩いて「秩父神社」へ行きました。



秩父神社は平安初期の書物「先代旧事紀-国造本紀-」によれば、第十代・崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任ぜられた知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、祖神である八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)をお祀りしたことに始まります。

ご社殿は戦国時代の末期に兵火によって焼失しましたが、現存する御社殿は、天正二十年(1592年)に徳川家康公が大旦那となって、当時の代官である成瀬吉衛門に命じて再建されたものです。



ご社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りで、彫刻群に覆われた豪華な造りです。

とくに、拝殿の「子宝・子育ての虎」、本殿の西側「お元気三猿」、北側「北辰の梟(ふくろう)」、東側「つなぎの龍」の彫刻がみごとです。

この写真では見えづらいですが、社殿正面の左側にあるのが左甚五郎作と伝わる「子宝・子育ての虎」です。

彫刻の下には、「赤子には肌を離すな、幼児には手を離すな、子供には目を離すな、若者には心を離すな」と親の心得が書かれた札があります。

狩野派の絵画は、虎の群には必ず一匹の豹を描くこととされていたらしく、そのため母虎を豹としたと言い伝えられています。

名前はつけられていませんが、社殿の右側にも虎の彫刻があります。

正面両側の虎が、秩父神社の荘厳さをひきたてています。



同じく左甚五郎作の彫刻「つなぎの龍」。

秩父神社の鬼門である東北を守護するために作られたとされています。

近くにある天ヶ池という池に棲みついた龍があばれると、いつもこの龍の彫刻のしたに水たまりが出来たので、龍の彫刻を鎖でつなぎ止めたところ龍が表れなくなったという伝説があります。



「北辰の梟」は、体は本殿がある南向き、頭は真北を向いて、昼夜問わず御祭神をお守しています。

ふくろうは東洋でも西洋でも知恵の象徴とされていますが、秩父神社でも学業成就の霊力を得るふくろうの置物や、「ふくろう=不苦労」から開運のしるしとしてお守りにも描かれています。



本殿の西側には、「お元気三猿」。

日光東照宮の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」に対して、秩父神社の三猿は「よく見て・よく聞いて・よく話す」のお元気三猿と呼ばれていて、健康長寿を願う絵馬やお守りにもお元気三猿が描かれています。



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