緑のカーテンとゴルわんこ

愛犬ラム(ゴールデンレトリバー)との日々のあれこれと自然や植物、
本や映画などの勝手な独り言を書き留めています

詩人「茨木のり子」

2011年02月17日 | 
私の大好きな詩人で、茨木のり子という人がいます。もう亡くなってしまったのですが、彼女を描いた「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(後藤正治著・中央公論新社発行)という本が出たので、読んでいます。今その本の最後を読んでいたら、2006年の2月17日に亡くなったとのこと、凛とした詩を書いた人ですが、この凛とした寒さの季節に夫亡き後の1人住まいの自宅で1人ベッドで横たわり亡くなったそうです。

茨木のり子は戦争中に青春時代を過ごし、敗戦の時は20歳(はたち)だったそうです。「わたしが一番きれいだったとき」という詩に戦争中に青春を送った悲しみといたけなさ、そして憤りが描かれています。
戦後、父親と同じ医師である三浦安信と結婚して主婦として生活しながら詩人としての活動を始めた人です。

私は、彼女の50歳のときの詩集「自分の感受性くらい」という本が出版されたときからファンになり、図書館でかつての詩集を探して読んだり、彼女に関する記事などがあれば読んで心にとめたりしていました。

亡くなったときの記事で、我が家からそう遠くない東伏見に住んでいらしたとか、一度会いに行きたかったなと臆面もなく思っています。出版社や映画の仕事をしていたので、有名な人やこれと思った執筆者にはダメもとで会ってみるのが役得でもあり、ミーハー的な興味でも割りに臆せず会いに行ったりしていました。
今でも残念だったと思うのは、かつて映画の仕事の関係で今は亡き民族音楽研究者・小泉文夫に会ったときで、私はまだ小泉文夫のすごさの何たるかを知らず、ありきたりな原稿のやり取りに終わってしまったのです。私の後に原稿の約束をしていた「キネマ旬報」の女性記者はきっちりといろいろ話し込んでいました。まあ、猫に小判だったのですね。

話がそれてしまいましたが、茨木のり子の詩ではいくつも好きな詩があります。「汲む ―Y・Yに―」という詩や後年の「倚りかからず」という詩も何度読んでもいいなと感心してしまいます。もちろん初めて彼女の名前を知った「自分の感受性くらい」も大好きな詩ですが、どの詩も何気ない日常の中で培われた言葉たちにしっかりと力と気概を与え、なんの背景を知らなくてもその詩一篇を読んだだけで豊かな志を感じられるものばかりです。

茨木のり子と同時代の詩人で石垣りんという人がいるのですが、彼女の詩も私は好きなのですが、どうも彼女の詩を読んでいると学級委員の前に立ったようなきまり悪さを私は感じてしまいます。どうも私は、石垣りんの詩を読むには少々やくざっぽいところがあるようです。その点、茨木のり子の詩にはそうした少々悪さをしている人間でも安心して読める面もあり、ユーモアもあり、ひょっと肩すかしをしてみせる自在さもあり、読んでいて楽しいというか、喜びを与えてくれます。自分と同じように感じている人が同じ時代、同じ国に生きていて、私の分かる日本語でこんな詩を書いて届けてくれたのだとうれしくなります。

茨木のり子の一人暮らしの晩年を記した部分もあるその本なのですが、そうした箇所に彼女が、自分の死んだ後に知人達に送ってほしいと書き残した「別れの手紙」が載せてありました。なんという潔さ、凛々しさなのでしょう。私にはとても真似ができませんが、書き留めてみます。

「このたび、私 2006年2月17日
 くも膜下出血にてこの世におさらばすることとなりました。
 これは生前に書き置くものです。
 私の意志で、葬儀、お別れ会は何もいたしません。
 この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。
 『あの人も逝ったか』と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。
 あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか・・・。
 深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。
 ありがとうございました。」

このお別れの手紙は、死去の年月日と死因を空欄にして、医師である近くに住む甥夫婦に託されていたそうです。ひそやかな密葬が行われたひと月後に知人二百数十名に送られたというこの手紙は、最後の茨木のり子の詩のように凛としてすがすがしい美しさに溢れています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿