たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出写真_ベルサイユ宮殿

2016年04月30日 14時57分36秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 流れが前後してしまいますが、2007年10月26日、旅の最後に訪れたパリからバスで一時間ほどのベルサイユ宮殿の入場券とパンフレットの写真のご紹介。現地で購入した日本語の冊子は部屋の中で行方不明中。気付いて少し焦っていますがどこかにあるはず。まだまだ色々とグチャグチャで整理しきれていないことを実感しています。

 ベルサイユ宮殿への旅はツアーには組み込まれていなかったので、現地の英語によるオプショナルツアーに一人で参加しました。二階建てバスの二階に乗ったらベルサイユ宮殿に到着した時シートベルトがすぐに外せず、ひそかに冷や汗をかきながら焦ったことを思い出します。とにかく広大な広さで見学したのは、ほんの一部に過ぎません。鏡の間や、アントワネットが押し寄せた群衆の前に立ったという場所には行きました。プチトリアノンに行こうと思ったら、自転車を使って一日かけないと無理。短い時間で全部を回り切れるような場所ではありません。この贅沢さと市井の人々の暮らしはあまりにもかけ離れていましたね。


池田理代子『ベルサイユのばら大事典』2002年集英社発行、54頁より

「国王一家の住居・ベルサイユ

 ルイ14世は衛生状態や環境のよくないパリを嫌って、テュイルリー宮を放棄し、パリ郊外の狩の館を建て増ししてベルサイユ宮殿とした。政府機関もすべて移したため、国家規模の大プロジェクトとなった。

 ベルサイユの庭園は造園家のル・ノートルが設計。当時ヨーロッパでは野趣あふれるイタリア式庭園が流行していたが、ル・ノートルは端正な左右対象の、後にフランス式庭園と呼ばれる豪華な庭園を作った。また、十字架を模した1KM*1.5KMの運河は、ゴンドラを浮かべて遊ぶことができた。手入れのための費用は気にしなくてよい、宮廷ならではのデザインである。

 建物は王室主席建築家のル・ボーが設計を担当し、彼の死後はマンサールが後を継いだ。建設は1661年から始まり、実に20年余の年月をかけて見事なバロック建築が作られた。

 宮殿の室内の多くの間にはそれぞれ名前がつけられている。

 室内は芸術家や職人が集められ、壁画やゴブラン織りのタペストリーで飾られた。イタリアのムラノ島から、ガラス職人を連れてきて鏡の間を作らせた。建物は格式ばったバロック様式であったが、インテリアは次第に軽快で曲線的なロココ様式に映っていく。明るく優美なロココ様式は、建築だけでなく当時のヨーロッパの芸術全般にその影響を与えた流行であった。

 マリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノンは、宮殿から歩いて約15分の場所にある離宮である。もともとはルイ15世が愛人のポンパドール夫人に贈ったものだったが、アントワネットがルイ16世からさらに譲り受け、庭園とした。」


ベルサイユ宮殿、日本語の入場券
















ベルサイユ宮殿、簡単な日本語のパンフレット










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