アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

自動人形

2006-10-31 20:27:34 | 思い
みなそれぞれ自分の人生を生きている、と言う。そのことに誰も口を挟む人はいない。
でもそれらがすべて「自分で選んでいる」生だと言い切れるだろうか。
中には人生を「歩まされている」人も、いるように思う。

人の心がある種の刺激に対して必ず特定の反応を示すことに定着すること、私はこれを「心の機械化」と呼んでいる。
例えばなにか気に入らないことを言われたりされたりした場合などに殊のほかよく現れる。そんな時などにカッとなるのは人間誰しもあることだ。しかしそれをストレートに表に表わすかどうか、となると人により、また場合によって大きな違いが生じる。その時の当人の気分や心理状態が影響するのは言うまでもないし、相手や状況に応じてこの場合どう表わしたらいいかを立ち止まって瞬間的に考えるのが人間の本質だと思う。
闇雲に感情に流されるままではなく、時と場合に応じた臨機応変の判断ができるということは人間特有の能力だ。だから内心腹を立てたとしてもそれを露ほども表に出さないこともあるし、また逆に全然怒ってないのにあえて怒ったふりをすることさえある。
しかし世の中は種々様々な人によって成り立っているのだ。中にはある性質の刺激に対して時や場合などお構いなしに、必ず同じ反応を返してくる人がいる。つまりこれは、刺激に対する心の働きのパターン化。わかり易く言えば「機械化」である。なぜならそれは人間の特殊性が発揮されない、単なる機械的反応に過ぎないのだから。

先にも述べたとおり、その現象がとてもよく現れるのが、他人から軽んじらたり疎かにされたと感じた場合だ。そんな時にまるで「打たれたら打ち返す」ことのみをインプットされた機械さながらに、ただひたすら相手を攻撃し喧嘩を仕掛けてくる人は確かにいるものだ。
このような性向の強い人はさながら「自動人形」である。その内部では『刺激→感情→行動』がその間に思慮や分別を介在させず、そのままに伝えられる。その点で言えばその人の行動はかなりの部分予測可能とも言えるし、反面ある特定の状況の下では素晴らしい性質を発揮するものかもしれない。なぜならばそのようなパターンは過去に繰り返し現れた同質の状況に適応しつつ作られたものだろうから。でもとり巻いた条件の一角でももし欠けるならば、その人の存在は一転して周りに悲劇をもたらす台風の目のようになってしまう。

そして更に悲劇的なのは、機械化された当人にその現状から脱却する術がないことだ。これは機械化の度を深めるほどに事態は絶望性を増す。それはもがけばもがくほど沈み込む泥沼。ここまで来るとその人の人生は、自由選択で歩んでいるのだなどとは到底言えないと思う。もしそこから脱却する道があるとすれば、それはパターン化を自ら打ち破ることに他ならない。
だから自動人形に堕した人間は、もはや幸せから離れることはあっても決して近づくことはない。自らの運命をいつか現れる飼い主に依存した、街角に捨てられた子犬のようなものだ。しかしそのような人に対して充分に寛容な人間というものは、えてして現れないものである。

ではどうして、人は自動人形になってしまうのだろう。
やはりそれは、自制力の欠如が原因だと私は思う。感情に対しての行動をコントロールする力を失っている。それはつまり、心の働きに必要な基本的エネルギーが足りないということなのだ。
機械化の傾向の強い人にはある種の共通点があるように見受けられる。例えば心理プロセスに余裕が無く、すべて「反射」形式で外界とのコミュニケーションを行うこと。または、日常的に何かに固執したり執着したりする性向が強いことなど。
これは、一面独創的で常識にとらわれず、当意即妙でたまにつき合う分には漫才のように飽きさせない人。または浅くつき合う分には外面的に洗練されていて隙がなく、充分然るべきものにはこだわって強烈な個性を感じさせる人。狭い自己のテリトリーを越えない限りそつなく疎遠感なく更には内密的な親近感さえ感じさせる人などにそういった傾向が強い。もちろんすべての人がそうというわけではなく、あくまで傾向の話である。

もしかして自動人形化に陥る人はみな、自我を途方もなく肥大化させてしまったのかもしれない。巨大な自我を維持するために持てるエネルギーのほとんどを費やしてしまっていて、その一方で大切な心の働きに十分な力を与えることができない。自我の強大さと心の硬直性とは、その意味で抜き差しならない関係があるような気がする。
肥大化した自我は、肥満した体のごとくその容量に応じて際限なくエネルギーを消費する。自分を見せることや繕うことに神経を注ぎ、かけられたちょっとした褒め言葉や気に入らない体験に一喜一憂し、本質的に大して価値の無い後から考えれば詰まらないことに対して恒常的に多くのエネルギーを注いでいる。つまりこれらの心的行為こそが、生命エネルギーのあらかたを奪っている源なのだ。
すなわち自我の肥大化は基本的エネルギーの枯渇をもたらし、ひいては人間らしい心の働きの不活化を誘引する。そしてそれは必然的に、人として生きる不満足と不幸せとを招く元凶となるだろう。
だから私たちは日常、あまり大切ではないこと、本筋を外れたことにエネルギーを費やさないように気をつけていなければならない。

心の機械化、それは心の「非人間性」を表わしている。つまりその程度に応じて、人格がどれだけ人間的なものから離れているかを証明しているようなものだ。これは心理をより複雑精妙化させた人間に特有の現象なのかもしれない。人は自らの有する緻密な「こころ」を機能させるのに、他の動物たちとは比べ物にならないほど莫大なエネルギーを必要としているのだから。
思えば現代の日本で、人間の自動人形化はますます進んできているのではないだろうか。物質文明というのは、生き物を含めてすべての存在を機械化せずにいられない、もしかしたらそのような性向を内包しているのかもしれない。



【写真は猫の置物化。
戸棚の脇にいると招き猫化してしまうヤマトです。】



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4 コメント

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おっしゃるとおりですね (菅原)
2006-11-02 09:36:30
そんな人間がいたるところに蔓延さえしています。無意味なお付き合いは御免こうむるようにしています。それが日常の仕事に関わるときなど、仕事を失って苦境に陥ることさえあります。

ところでいろんな種類の猫が登場しますね。写真にある招き猫まで。家の三毛猫(大多数がメス)もときどき棚の上に乗って招き猫そっくりになります。ただし片手は挙げる様子はありませんが。メス猫らしく両前足をややはすかいにすんなりとそろえて伸ばし、足首辺りに長い尻尾の端をきれいに巻きつけ、まるでおつに気取った娘のありさまです。

ついでにこちらの猫も箱があれば、必ずその中にもぐりこみ、しばらくでてきません。箱入り娘だからなあと家族にいっていました。だからこの前の写真のクイズもすぐに見つけましたよ。
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箱入り息子もいます。 (agrico)
2006-11-02 19:31:22
あまりに箱入りが多いものだから、家の内外がダンボール箱だらけです。特にこれから冬になるので、それぞれの箱を日干しして中に敷く古毛布を探すのに手間がかかるんですよ。

この「自動人形」もそうですが、人間についての考察は(ほとんど)すべて自己に対する考察から端を発しています。自分の中の機械化した心、自動人形化した部分を見つけた時に、なぜ今の自分はこうなのか、今までどうしてそうだったのか、以前より少し見えてきたような気がしました。私たちはみな、心の大部分を自動人形化してしまってるんだと思います。
もしかしたらこれを脱却するところに新しい生き方、違った世界への門があるのかもしれない、きっとそうだろうとこの頃思ってました。
読む人が少しわかりにくいだろうなとは思いましたが、思い切って書いてみた最近の「思い」です。

菅原さんのところもブログで自動人形にとり憑かれてますね。だけど菅原さんよりも当人の方をなんとなく可哀想に思ってしまいます。もし友達だったならば、親身になって思い留まらせたいところなのですが。
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あきれています (菅原)
2006-11-03 14:11:57
あんな人間がいるんですね。東北にお住まいのような感じですが、もしそうなら東北の人々に抱いてきた親しみが少し崩れてしまいそうです。ブログは本日をもって中断しました。不愉快な時間を費やすほど、時間に余裕がありません。こちらへはまた寄らせていただきますので、ご健勝にお過ごしくださいますよう。
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少し残念です。 (agrico)
2006-11-03 18:27:26
決して問題を生じさせるような発端じゃなかったんですけどね。結果として菅原さんのブログの活動性が激減するであろうことを残念に思います。
自制力の欠如を身をもって示したような方でしたね。彼自身のブログはまともらしく見えるのですが、これはブログの内容と書いてる人間との乖離の事例でもあるかもしれません。幾つかの点で勉強になります。

こちらからコメントを発することできないので、この場を借りて申し上げます。これから冬へと向かいますが、お身体大切に。
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