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あげちうのブロマガ

正義の果てに有る一つの結論

理解に、少しの異相はある。

「テレビとは、業界の人々のみで形成、運営されているのか?」だ。

テレビの職務に携わってない人々は、そのテレビの運営に対して何の影響もないのか。

これはむしろ逆だ、「単なるお客」視聴者、”それ”の存在あって初めてテレビは維持出来る、それを失ったら、この世界も維持は出来ない。結局?このテレビと言う世界は、内部の人々”以外の”「関与」を9割以上必要として、初めて”テレビとして”維持されてる訳だ。その外側を無視して、この世界は構成出来ない。

むしろ逆に内部が全滅しても、外から「新しい入植者」がやってくる…だけではある。

テレビに求める物、それはシンプルだ。

「なんか面白い話は無いか?」

視聴者の要求はシンプルに言えば”それだけ”だ。”それ”を見つけ創り提供する、そこにこそ、この世界の存続、その理由と鍵がある。昭和の頃は、本当に重要な世界だった、しかし、平成に入っては、何だか、そうでもなくなってしまった。

テレビを存続させる為に、何をすべきか?

外と中と、”そこ”には何らかの温度差は、ある。

 

色々考えるに、テレビは重い「過失」を昭和の頃に、或いは犯している。表面的と言うかは「岡田有希子」そのアイドルの自殺、それは、或いはテレビによる過失として、どうも何かの記憶として残っている。”何か”は、彼女をフラグシップに、対抗する「何か」を、今の想定では「テレビゲーム」だ、”それ”を倒そうとしたか、その結果、彼女は自殺に追い込まれた。今の理解で言えば「大賀さんの決定に逆らった」訳だ、負けが確定した戦いを、命を賭けても覆せ!と要求してしまった。

直接的な加害者は「少女漫画」らしい、しかし。”彼ら”は当時であってもそんな自由は出来たか?だ。その上があって、その要求に従い続ける結果?結果で発生する「だったら死ね」の言葉は、”主人公”を死に追いやった。誰の責任になるのか、そう描いてしまった”作者”に有るのか?

混沌としたまま、それは今に残る、ともかく「岡田有希子を自殺させてしまった」その、或いは”自覚”と共に。


マクロで見れば、これは「テレビその物の過失」である。テレビはこの結果を産んだ構造を否定し、改善しよう、とはしてない、とは思う、”当時のまま”続いている。テレビに関わる全ては思う話か、「私が悪いんじゃない!」乗っていた車が勝手に。飯塚幸三氏のそれは、ここでも、不意に重要な問題としては、出てくる。

ともかく、テレビによる過失は有った、訳だ。

構造に、これは欠陥を抱えている、訳だ。

”それ”を理解された上で、問題を起こさない様に「管理」されないと、この構造は再び、いやもっと大規模に問題と損失を加速させるだろう。今のテレビには、その上位としての「管理者」が必要だ、飼われねば、これは存続させるには危険すぎる代物ではある。

以前に考えた、「テレビ」と「インターネット」でのサイコロ二つ、というそれは、どうも「ちょっと問題がある」訳だ。テレビは、インターネットとの等価なサイコロ、それを形成出来ない。サイコロとしてはイカサマが可能な、”ダメなサイコロ”ではある。手品のネタには使えるかもしれないが、これは今の視点では、過去の栄光に縋った欠陥品ではあって。

正論、だろうか?

だとしたら今後、テレビはインターネットに支配される事には、成る。インターネット側の要求に応えたモノを放映しない限りは、この環境の存続は無い、それをテレビは続けるか否か?ではある。

正義それは、何処に有るのだろう。

 


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10793944
https://publicdomainq.net/piet-mondrian-0054119/

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