それは、つまりテロリズムだが。
起点は、「大賀さんで勝てない」そこからでは有り。
「大賀さんの決定は絶対か?」は、その時、常に付きまとう疑問で。
「間違ってますか?」に対して、自分には返答できない、のだけど。
第三者が間違いを指摘出来ない訳では、無い。
「価値」とは、人々の同意の束、だ。
「これは良いモノだ」人間の主観、その合算がそこにそれとして有り。
それは、そのまま「お金の担保」に成る。
お金とはつまり、そんな「価値」を担保とした証書の事であって。
しかし、人間は、価値を食べてしまう。飽きたり、”古く”なったり。
それは、環境全体が徴収するショバ代の如く、だ。常に減少し続ける。
だから、不足する”それ”を補わないと、価値は次第に減っていく。
価値が下がると、”それ”を担保にしていたお金も減少し、経済は悪化する。
だから、何とかしてその価値を補い続けねばならない、それが創作者の仕事だ。
その時逆に、創作者の仕事それは、尽きる事が無い。
と言う道理の上で、「必要な創作」と言うのは必然として有る訳で。
それを提供しないと、利益に成らない、そもそも「欲しい」と言う事に成らない。
現状、”これ”に乗っからないと、「売れた!」と言う事に成らない現実はあり、そして。
つまり「大賀さんで勝てない!」それは、このシステムに上手く乗れない訳だ。
サーフィンで言うなら、上手く波を捕まえる事が出来ない、のだが。
良識?で言えば、つまり「下手なんだからしょうがないだろ」で終了、だが。
反抗する?彼らは、このシステム、道理に疑問がある。
その中には前の、「今の麻雀ルールを創って破綻させた人々」それも居る訳だ。
破綻したのは参加した連中が馬鹿だからだ、自分が悪い訳じゃない。
”これ”もまた、今はその道理の中心である「大賀さん」その存在故ではある。
今もってなお、”彼ら”を抑止し得た、とは言えない。
飯塚容疑者は自爆したとしても、或いはその理屈で「自分は悪くない」それを言い続ける。
今、王に成った奴の「主観」より、私の「主観」の方が遥かに優れているのに!
”それ”は果たして、神に仇成すと言う事なのか、或いは。
状況に変化が有るから、だろうか。