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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪真の関係≫は 無償! 

2014-06-20 06:33:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人間が感じるものは、内側を感じることが元型だったこと、そして、感じていたことはすべて肯定的だったこと。この2つは覚えておいていいことですね。

 それじゃあ、否定的なものが入り込んでくるのは、いつからなんでしょうね?

 今日はp36の第二パラグラフ。

 

 

 

 

 

 その子が育ち発達するとき、その子どもはものをありのままに受け取ることができるようになります。つまり、おっぱいを貰って満足することは、乳首と区別されますし、おっぱいはお母さんから区別されます。結局その子は、のどが渇けば、のどの渇きを癒してくれる牛乳と、おっぱいと、お母さんを、別々なものとして経験します。その子は、たくさんな別の、もろもろのものを、別物として、「そのものならでは」のものとして、分かるようになります。この時点で、その子はそれぞれのものに名前を付けるようになります。と同時に、その子はそれぞれのものをいじるようにもなって、「火は熱くて、痛い」、「おかあさんって、温かいし、嬉しい」、「木は固くて、重い」、「紙は軽くて、裂ける」と分かるようになります。その子は、人々に対処する仕方が分かるようになります。つまり、「お母さんはね、僕が食べてる時は、笑ってる」、「僕が泣けば、抱っこしてくれる」、「うんちが上手にできると、褒めてくれる」って分かるようになります。こういったことはみ~んな、一つの経験になって輝き、一纏まりになります。その経験は「僕は≪真の関係≫の中で、大事にされてる」ということです。僕が≪真の関係≫の中で大事にされるのは、僕がお母さんの子どもだからですし、僕が≪真の関係≫の中で大事にされるのは、自分ではな~んにもできないからです。私が≪真の関係≫の中で大事にされるのは、私が美人で宝物だからです。私が≪真の関係≫の中で大事にされるのは、お母さんが、私なしにはいられないからです。これをもっと一般的な形にすると次のようになりますね。「私が≪真の関係≫の中で大事にされるのは、私の≪いまここ≫にこうして生きているからです」ということです。もっと正確に申し上げれば、「私が≪真の関係≫で大事にされるのは、私が自分自身を生きているからなんです」ね。お母さんから≪真の関係≫の中で大事にされた、この経験は、受け身の経験です。私が≪真の関係≫の中で大事にされるために私がしたことは、な~んにもありません。お母さんが≪真の関係≫で大事にしてくれることは、無償のものなんですね。私がしなくちゃならないのは、「≪いまここ≫にこうして生きていること」だけです。お母さんの子どもであることだけです。お母さんが≪真の関係≫の中で子どもを大事にするのは、恵みですし、平安なんですから、その子は何かを身に着ける必要もなければ、立派になったり、正しかったりすることなど、必要もないんです。ところが、お母さんが≪真の関係≫で子どもを大事にする、その無償性にも、消極的な側面もあるんですね。子どもは立派になったり、正しかったりする必要などな~んにもないだけじゃなくって、何かを身に着けたり、何かを作り出したり、何かをコントロールすることもありえないんですね。お母さんが≪真の関係≫の中で子どもを大事にすることがあれば、それは神様が下さる恵みのようですね。でもね、それがなければ、素晴らしいものはぜーんぶ、人生から失せてしまったかのようでしょう。しかも、僕がその「お母さんが≪真の関係≫の中で、僕を大事にすること」を作り出すことなんて、まったくできゃしないんです。

 

 

 

 

 

 ここは、エーリッヒ・フロムが、エリクソンの言う根源的信頼感 a sense of basic trustは、こういうものですよって、教えてくれているところですね。その条件は、神の恵みのような、≪母親の献身≫。子どもの方では、その≪母親の献身≫を作り出すことなどまったくできないんです。全くの受け身の関係なんですね。

 

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