Notes3~ヨミガタリストダイアリー

名古屋市在住の俳優/朗読者・ニシムラタツヤの演(や)ったり読んだりの覚え書き

7月の5日間

2016年07月18日 | 朗読・声の周辺


■気がついたら当ブログも半年間ほったらかしで本当にすいません。正月以降、ごそごそやっておりました。そのお話は次回に回すとして、今回は昌に今月、7月のことから。
■先月、6月末から、読み手として怒濤ともいえる3週間が終わりました。これまで、同じような忙しさの中にあったことは何度も経験しましたが、今回の日々は、これからの私の歩み方にとても重要なことを学ぶことができた、そういう日々になったと感じ、是非記録に残しておこうと思いました。
■4月末、5月初旬、6月末と3回にわたって東京に稽古に通った「夏目漱石没後100年記念 漱石と賢治を読もう! かなでる×かたる」(http://kanaderukataru20160710.jimdo.com/)は、これまで参加したコンテスト類以外では、最大規模の会場での本番であり、かつ最多の共演者の皆さんとご一緒することになりました。
■加えて、東日本大震災直後に仙台市で行われた「C.T.T.特別支演会(http://cttsendai.jugem.jp/?eid=15)」での「青森挽歌」以来、本格的に手を出してこなかった宮澤賢治作品にして、そのど真ん中中(ちゅう)のど真ん中、「銀河鉄道の夜」を前に、悩む一方でした。どうしたって、どこかで誰かがやったような、ありきたりなイメージしか抱くことができない、と一読して思ったからです。
■「鳥捕り」の声なんて、黙読していた時に頭の中でイメージしていた通りじゃないですか、と複数のお客様からお褒めに与り、大変有難かったのですが、今更ながらに打ち明けると、そういう悩みを完全に解決することができないままの終演となりました。あくまでぼんやりとした、別に共演者の方などがどういうということもなく、それでもどこかしっくりいかない、程度の感じではあったのですが。
■そういう状態が、続いて参加していた「RODOKU camp3 からだ編 」の試演会の中で、まったく思いもよらないタイミングでストン、と腑に落ちた感覚を得ることができました。正確な意味での原因は、正直これを書いている今もわからないままです。ただ1つだけここまでの自身の状態と明らかに違っていたのは。「疲れ」がなかったことでした。月1〜2回、東京での稽古、そして付随していろいろ動き回ったことで、知らず知らずのうちに身体に溜まっていたものが、2回目の本番の朝まで11時間くらい、それこそ遅刻寸前の時間まで寝倒していたことで、すっかり解放された気持ちが自分を包んでいました。
■その状態は、テキストとの向かい合い方を劇的に変えました。これも正確な言い方か自信はありませんが、「作意」から解放された状態にあったのかもしれません。作り込もうとせず、役の振れ幅を意識しようとせず、自分の心と身体を読むための「メディア」として機能させようとすること、そのことに40歳、朗読23年目(ブランク含め)にして、初めて根本から意識的になることができたのではないか、と。
■今一度思い返せば、3月末以降の仕事の激しさに、すでに4月末には疲れがあり、そこに既に「作意」に対する忌避感はありました。しかしこれまでなら1ヶ月にせいぜい1度、3〜40分の読みが雨どいから落ちる水滴のように続く現場だけでは、到底掴むことのできない感覚があったのではないか、と思います。
■「かなでる×かたる」も「RODOKU camp3」も企画の立ち上げや参加開始から5ヶ月、どちらも期間を1本のテキストで走り抜けるものでした。最初にも申し上げたように、同じような忙しさはあっても、このような長期プロジェクトが重複した初めての体験において、こういう感触を得ることができたのは、半ば必然でもあり、半ば奇蹟に近い言えるのかもしれません。
■こういう分かりにくい悩みというか状態を抱えつつ参加していた私を根気よく指導して頂きました、葉月のりこ先生、紫堂恵先生、そして加藤智宏さんに心より、深く、御礼申し上げます。この度は本当にお世話になりました。ありがとうございました!