Notes3~ヨミガタリストダイアリー

名古屋市在住の俳優/朗読者・ニシムラタツヤの演(や)ったり読んだりの覚え書き

浪曲師・春野恵子@岐阜市民会館2

2008年12月08日 | ヨミモノ・キキモノ・ミモノ
■昨日、岐阜市民会館における国本武春師匠の会で、前座を務められた春野恵子師のこと、続きである。昔、「進め」だったか「進ぬ」だったか記憶が定かではないのだが、坂本ちゃんの東大合格プロジェクトというのがあった。そこに出ていた「ケイコ先生」が彼女であるという。プロフィールを見てもそう書いてあったので間違いないと思うのだが、いい意味で全く見違えてしまったのだ。
■彼女の魅力は、何もないところから作り上げた声の確かさにあると思う。泣くところは泣き、唸るところは唸る。筋立てに対して真っ正面から立ち向かう舞台上での姿が、とても清々しいと感じたのだ。今回、岐阜の一席では、共演した菊池まどか師が民謡の世界で長年活躍してきた実績そのままの迫力で演じられたのとは対照的になっていたのも、そう感じた一因かもしれない、と思う。
■演劇における演技でも、当然私がやっている朗読でもそうだが、声量の操作は表現そのものに直接影響する、極めて重要なファクターだ。自分もまだまだ探求の途中ではあるけれども、今のところの考えで言うならば、自分から出る声そのものについて、どこまで意識的であり、かつどこまで自由でいられるかというのがカギになると思う。平田オリザ氏の「演技と演出」の一節っぽく言えば、意識は分散しているのだが、高い集中力で声の各パーツ(声量、高低、抑揚etc)がきちんと制御されている状態を目指さなくてはならないのだと思う。そういう側面でいえば、民謡のコンテクストでの節回しが勝ってしまっている菊池師より春野師ということになるのではないだろうか。
■なお、春野師の演目は、おなじみ岡本綺堂の「番町皿屋敷」の中の一節を引いた「お菊と播磨」。実はもともとの番町皿屋敷と戯曲として書かれた綺堂の作は若干内容が異なるのだが、会場で出会った、主催者の財団職員のO嬢にはそれをきちんと教えなかった。しまった。今頃彼女は話を真に受けて、夜な夜なお菊さんが皿を数えるという筋立ての、続編の戯曲があると思って探しているかもしれない。悪いことしたが、差し入れの栗羊羹で勘弁してほしい。

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