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ボールはあくまでも浅野氏の側にある

2007年03月14日 00時41分04秒 | 反石原・’07東京都知事選
 東京都知事選挙で、浅野・吉田の両「反石原」陣営の間で候補者を一本化出来ないか、という話が暗礁に乗り上げています。確かに、私も率直に言って、現状では吉田陣営単独では石原三選阻止は非常に難しいと思います。吉田候補よりは可能性が高いと言われている浅野候補でも、単独で石原都政を倒すのは至難の技でしょう。候補者乱立の今のままでは、せっかくの石原都政打倒のチャンスをみすみす逃す事になるのは、目に見えています。

 「反石原」候補が一本化出来ればそれに越した事がないのは、浅野陣営も吉田陣営も、本音の所では分っていると思います。そうであるにも関わらず、候補者一本化が出来ないのは何故でしょうか。私は、「最初にボタンを掛け違えた」浅野陣営の側に、より多くの責任があると思います。そして、それは取りも直さず「ボールは今はあくまでも浅野氏の側にある」という事でもあります。

 浅野陣営の側は、「吉田陣営が独自候補擁立に固執するのは、共産党のセクト主義によるものだ」と批判しますが、私はそれは「少し違うのではないか」と思います。
 だってそうでしょう。東京で石原の独裁政治と一期目から闘ってきたのは、候補者サイドでは吉田万三さんと「革新都政をつくる会」、政党サイドでは共産党だけだったでしょう。この間の「反石原」世論の盛り上がりも、これらの人たちの今までのキャンペーンがあったからでしょう。それに対して、キャンペーンが盛り上がってからやにわに「後出しジャンケン」みたいに出てきて、最初から石原独裁と闘ってきた人たちに対して、いきなり頭から「お前らでは力不足で勝負にならないから、俺たちと代われ」なんて態度を取られたら、そりゃあ別に共産党の志位委員長でなくても、私でもカチンときますよ。最初に浅野陣営や民主党サイドがとった態度というのが、正にそれではないですか。

 元々民主党は東京では石原都政の与党でした。石原都政の大型開発優先・福祉切り捨てや側近・ワンマン政治、「日の丸掲揚・君が代斉唱」押し付けにも、無条件に賛成してきました。そんな中でも吉田候補は、昨年11月の、その後に浅野候補擁立の母体となった市民団体「東京を。プロデュース」の主催による最初の会合に出席して、「反石原」共同候補擁立にむけての協議に加わりました。その時点で吉田候補は既に都知事選に出馬表明しており、会合の席上でも共同の申し出を行いましたが、民主党に蹴られました。その頃は浅野候補は名前すら浮上していませんでした。

 それが今年に入って、当該市民団体の間で浅野候補の名前が浮上してきました。最初は浅野氏本人も出馬するのかしないのか迷った挙句、「反石原」の世論に絆された(便乗した)形で、最終的に出馬表明をしました。普通ならその次に、先に「反石原」で出馬表明していた人との間で、公約のすり合わせや政策協議、共同候補の話し合いが為されるのが筋でしょう。本当に石原に勝つ気があるのなら。しかしそれより先に、それと前後して「まず浅野在りき、吉田では勝てないから降りろ」という話がいきなり出てきました。

 「セクト主義」云々という批判は、双方が最初から「反石原」の立場でそれぞれ活動してきて、尚且つ双方の側から共同の歩み寄りの模索があって、それでも尚且つ、どちらか一方が自分の立場に固執し共同の歩み寄りを放棄した時に、始めて言える事です。今回の場合は、それ以前の問題でしょう。

 遅れて出馬レースに出てきた人が手を挙げた際に、先に手を挙げていた隣の人の顔に、うっかり手をバシッと当ててしまった。それが偶然か故意かは分らないが、顔に手を当ててしまったのは事実だ。そういう場合、普通はどうしますか。まずは、手を当ててしまった人が当てられた人に対して一言「ゴメン」というのがケジメでしょう。
 しかし手を当ててしまった方は、そういうケジメを一切つけずにそのまま手を挙げ続け、周囲の人間も周囲の人間で、先に手を挙げていた人にいきなり、「お前は普段から独りよがりで役不足だから、この際お前は手を下ろせ」と、ある事ない事お構いなしに一方的に決め付け始めた。それで、今まで先に手を挙げていた人を応援していた人たちはすっかり逆上してしまい、後で手を挙げた人たちに対して、今度はその人たちとの過去の言い掛かりを蒸し返し始めた。・・・それがこの間の経過ではないですか。

 浅野氏の出馬表明を境にして、共産党が浅野批判キャンペーンを始めた事については、いろいろ議論がある事でしょう。私から見ても、あれは少し大人気ない態度だと思います。その事によって、今度は共産党の方が更に候補者一本化の可能性を遠ざけてしまう事になりました。しかし、この共産党の、確かに戦術論としては色々議論のある所の対応ですが、これも一方的に「共産党だけが悪い」とか「共産党はセクト主義だ」いうのは、私は共産党にとっては余りにも酷な評価だと思います。逆上の原因については一切不問にしたままで、逆上した事やその程度だけを取り上げて問題視するのでは、不公平の謗りは免れません。

 若しこのまま仮に、共産党が安易に吉田候補を降ろす形で決着を図ってしまったら、今まで吉田候補を支持していた人たちから総スカンを食います。「では、今まで吉田候補を支持してきた事は一体何だったのか?」という事ですから。私自身も、こんないい加減な決着の仕方では納得できません。だから共産党も、安易に浅野候補に収斂する形での候補者一本化は飲めないのです。たとえ、戦術的には「一歩後退、二歩前進」という可能性も考慮に入れなければならない事が分っていても。これは「セクト主義」とか「主要社民打撃論」とか言う以前の問題です。

 浅野陣営からすれば、私の言っている事は、「やっとこさ当人をその気にさせて出馬表明まで漕ぎ付けたというのに、何を外野が偉そうに」という事になるのかも知れませんが、私は何も間違った事を言っているとは思いませんし、浅野氏に無理難題を押し付けているとも思っていません。浅野氏も政治にズブの素人ではないのですから、私の言っている事ぐらいは分る筈です。また、若し民主党がこの事でとやかく言ってきたとしても、今は浅野氏の方が民主党を引っ張っている優位な立場に立っているのですから、当人にその気さえあれば、浅野氏の方から充分説得出来る筈です。
 まずは、浅野陣営の方から吉田陣営に対して、ボールをきちんと投げ返す事が先決だと思います。候補者一本化に向けて、政策をどうすり合わせるかとか、誰に一本化するかとかいう事は、全てそのケジメがついてから後の問題です。


※追記:
 上記内容の文章を、先程ほぼそのままの形で、「浅野史郎・夢らいん」の、マニフェスト募集のページにも送信しました。「マニフェストの提案でもないのにそのままの形で送信するのは、流石に如何なものか」と思いましたが、もう都知事選告知日までそう日数がありませんので、とりあえず今の自分の思いの丈を書いて送らせてもらいました。
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「ボールがどちらにある」という発想は次元が違うのでは? (草加耕助)
2007-03-14 21:18:41
それはどうでしょう。「ボールがどちらにある」という発想そのものに違和感を感じます。吉田さんや共産党の努力も正当に評価するべきだということなら賛成しますが、都知事選で誰を支持するかとはまた次元の違う話ですし。

私は現在の浅野さんたちの「誰にでも門戸を開くが誰にも頭は下げない」という態度を堅持してほしいと願っています。民主党も社民党も、勝手に浅野さんを応援しているだけです。浅野さんが礼儀として頭を下げたのは、両党が浅野さん支持を決めてからです。市民団体が支持しているのも、北朝鮮を擁護する学者が支持しているのも、逆に北朝鮮を批判し続けてきた私やまっぺんさん達のような「過激派くずれ」が支持しているのも、みんな自分が勝手にしていることです。これは仮定の話ですが「強制して歌わせるなど君が代に失礼だ」と怒る右翼団体が支持したって別にかまわないのです。

だから誰でも集まれる。何でも言える。自発的意思で支持してくれる人なら誰でもいい。ただし、選挙の時の支持者だからといって、当選後にその人の言うことを聞くわけではない。なぜならみんな勝手に支持したのだから。「情報の公開・問題の共有化・市民との対話による問題解決・強制や恐怖政治との決別」といった、立候補時の立場から変質することは勝手に支持してくれた人への裏切りだが、民主党のような大きなところを含めて個別の支持者の特定の意向に左右されないことは裏切りとはならない。むしろその逆である。それが「浅野陣営」の持ち味です。浅野さんは「どんな選挙をしたかでどんな知事になるかがほとんど決まってしまう」と言っておられます。

ここで共産党に自分から支持を求めたら、この持ち味が半減してしまいます。勝利のためには「大人」になることも必要かもしれませんが、個人的にはできることならそういうことはしてほしくない。共産党も、私のような「過激派くずれ」の連中と、全く対等の立場で、この勝手連の一員になってほしい。単に「門戸は開かれている」というだけでなく、今でも仲間だと思っているし、努力に敬意も払って大歓迎する。対立しないで輪に入ってほしい。そういうことです。最初は「エープリルフールかと思った」という浅野さんを、ある意味「包囲」し、かきくどき、ついに出馬を決意させたのは、こういう反石原の全国の市民の悲鳴にも似た熱意です。同じ悲鳴と熱意に今度は共産党がさらされており、浅野さんがそうしたように、是非、共産党にもこの声に応えてほしいと、浅野さんを勝手に支持している人々は考えています。

「ボールがどちらにある」ということではなく、市民の声で政党や行政や権力を包囲していきたい、私たちの声を届けたい、最初に推進や阻止ありきではなく、あらゆる情報を公開・共有化し、大政党や行政とも対等の立場に立ってみんなで決めたい。誰かが決めたことに従ったり、強制されたりするのはもうご免だ!それだけは許さない。それへの賛否はあるでしょうが、少なくとも私(たち)はそういう「ボールがどちらにある」という発想とは全く次元が違う発想をしているということです。
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