東海岸 - 音楽、食、犬の娘など

クラシック音楽、オペラ、食、ふわふわの犬の娘のこと、などをつれづれなるままに...

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[Met 2012-13] L'Elisir d'Amore メトロポリタン・オペラ 愛の妙薬

2012-10-01 | オペラ

ねたばれ記事ですので、観る予定の方はどうぞスキップしてください。

 

ゲルブはオペラ座は新プロダクションで判断される、オペラ作品は自らを絶えず再生すべき、なんてことをルパージ・リングの宣伝でも言ってますが、この発言自体は間違っていない。しかし新作を出すのはより意味深い、前回言い切れていない作品の魅力をみせる、あるいは新しい観点から観客の作品への理解を深めるきっかけとなるようなもの、をやろうとするからこそ価値がある、投資の意義がある、たとえそれが失敗したとしても、というのが普通の人間の発想というか、観客が新プロダクションものを見に行く大きな理由の一つなんじゃないかしら。新プロダクションがすなわちオペラ座の自己主張なら、今回のような後進的進化がゲルブ時代の特徴なんだ、と、観客であるあたしなんかに定義されてもいい、ということなんでしょうか。

ちょうどきっかり半年前にあれほど音楽的にもドラマとしても素晴らしい妙薬を出してくれて我々を興奮の渦に巻き込んだ同じメトなのに・・・ 

 

Maurizio Benini マウリツィオ・ベニーニ指揮

アディーナ: Anna Netrebko アンナ・ネトレプコ
ネモリーノ: Matthew Polenzani マシュー・ポレンザーニ
ベルコーレ: Mariusz Kwiecien マリウシュ・クヴィエチェン
ドゥルカマーラ: Ambrogio Maestri アンブロージョ・マエストリ

Bartlett Sher バートレット・シェア演出

 

今回オールスター歌手陣、もしかしてあれだけ深く作品を読み込んだような、解釈も表現も最高に素晴らしかったフローレス&ダムラウ版の妙薬をあんな最近に観ていなかったら、「ネトレプコも期待以上の美しい歌唱、めちゃくちゃかわいい、これが封印されるなんて勿体ない、音楽も楽しい作品だし、他のソリストも最高、堪能しました!」なんて書けてた可能性が少しはあったかもしれない、のでしょうか。わたしは今回のは不満な点が多々あり、記事中不快な気分にさせるような言い方をしていたらごめんなさいと先に謝らせてください。

主役のポレンザーニはフレージングも素敵、切実な願いがこもった叫びも、気持ちを込めたソットヴォーチェの美しさも、げっぷかしゃっくりを取り入れたりのコミカルな歌唱もきっちり決まっていた。地声が格別美しいわけではないけれど、危なげなところがない、安定した、この人なら次も安心と思えるしっかりした技術で聴かせてくれるいい歌手だと思う。文句のつけどころ全くなし。人知れぬ涙での微妙なニュアンスなんて鬼の心も溶かすよう。

 

しかし、今回の演出で人物設定も納得いかないどころか、あんまり人好きがしないものですから、折角の素晴らしい歌唱や演技力が・・・ 部分部分では演出のつまらなさを超えて感動しても、すっきり共感できずに、苦しい思いがします。

シェアという人は今までホフマン、理髪師、オリー伯爵などでわたしは真似っこ乞食的な演出家という印象があって、どこかで見たことがあるような演出を表面だけ新しくした感じでやってるな、オリジナリティはなくて面白くないけど無難、ドラマを妨げもしないからまぁokという位置づけだったんですが、今回で底の浅さ、頭の悪さ、センスのなさを痛感、シェアが関わったこれまでのプロダクションは優秀な音楽家・表現者たちのお陰で面白くなっていたんでしょう。

シーアはなにを血迷ったか今回独自の歴史的重みを付随させようと企てていて、独立運動の台頭を副プロットに取り入れたとのこと。初日のラジオで、ヴィスコンティのSenso(夏の嵐)に影響を受けたと発言、なんて聞いて、「まさか今回の兵隊はオーストリア兵、それに一時うつつを抜かしたアディーナが結局は気のいいネメリーノ(イタリア)を選び、みんなでイタリア万歳、バイバーイ、オーストリア!」なんて考えた?

なんとこれは冗談では全くなく、パンフレットには大真面目でこの珍説を語るシェアのインタビュー記事が載ってました。ネモリーノはイタリア精神を代表、俺に降参しろ!のベルコーレはオーストリア人、そのベルコーレに、おまえがNoと言ってもどっちにしろ俺は侵略するんだから結果は同じことと迫られているのがアディーナ! 
名誉のために言うと、このインタビューの書き手もドニゼッティにそんな意図があったか不明との内容を記事中、一度となく言ってました。



影響を受けたというフェニーチェ劇場でのトロヴァトーレのシーン(参考クリップ)を見ると、普通の人間の妙薬、夏の嵐、Viva V・E・R・D・I・の理解のレベルを超越したシェアの発想におどろきます。単純にフェニーチェもオペラ座つながりでイェー! 以外に見出せる限りの類似点は視覚的なものしかない、オケ席のオーストリア兵へ天井桟敷の観客が花や色とりどりの紙吹雪(あれは政治的メッセージが書かれたビラ、ふふ)を投げつけるのは確かにコプリー版に絵としては似たような場面ももしやあったかもしれない。これ見て、「おぉ兵隊さんがいっぱい、それに対する気の強そうなイタリア人女性やその仲間たち、似てる! グッドアイディア!」とシェアが思い込んだとしたら、なんとも恐ろしい。

ドゥルカマーラの登場時のせりふに独立運動台頭の兆しが読める、というのをこのスキームの拠り所にしているようですが、そう聞こえなくもない、と、ふとにやり、とする人も居たかもしれないし、独立運動を絡めるのは発想としては面白みがないわけではない。だけどこのスキームを本当にこの作品の音楽・リブレットを通して観客に伝えられるのか、あえて本筋から離れてそれをする意義があるのか、そしてその自論をを伝える舞台演出力が自分にはあるもんだか、には考えが及ばなかったんでしょうかね。

シェアの力不足か音楽家たちの抵抗か、舞台裏は知りませんが、結果的に出てきたものは中途半端、超能力者じゃなければシェアが固執した独立運動の台頭、も読み取れませんし、中途半端な試みの残骸として残ったのはアルコール・暴力・セックスが絡む猥雑さ。わざわざ作品本来の魅力をぶち壊す意義がある興味深いドラマが描けていれば、大問題じゃないですが、今回の演出にそんな価値のあるものは全く見出せませんでした。ちょっとホワイト・トラッシュ的な下らない連続TVドラマを見てしまったような後味です。

ベルコーレ率いる兵隊の登場場面では侵入軍的な暴力性を出したつもりか、兵隊が少女たちまでちょっと乱暴に手を引っ張ったりして村の女性たちを一列に並ばせ、ベルコーレが、おいお前たち、好きな女を選べ、みたいなことやったり・・・

ネモリーノはベルコーレに平手打ちされたり兵士たちにぼこぼこにされたり・・・(そういえばポレンザーニは平手打ちが続いてます)

妙薬を飲んだネモリーノは酔っ払いのおっさん的に、通りすがりの女性に絡んだり・・・
アディーナはまるでアル中からお酒をとりあげる風・・・

人知れぬ・・・からのドラマのピーク、観客としてはじんと嬉しい余韻を味わいたいのに、2人はいそいそとすすき野原での野合(? 野交? でしたっけ? )になだれこみ・・・


今回のネモリーノ、最初の登場は序奏中、妙に深刻な顔をして思索散策している。学はないけど一生懸命なお人よしだったり、恋する盲目な十代、でもない悩める成人男性? 先のインタビュー中、シェアは、今回は「ネモリーノのハムレット的な面」を描いた、と言っておられました (ぷっ)

装置も少し奇妙。町でのシーンは3本の太い柱だか工場の煙突風なのがあって、あれはわたしはなんだか分かりませんでした。そして結婚の食事の場面はなぜか馬小屋なんですけど、馬は出てこなくとも、あんな場所は動物特有の匂いとかひょっとしてフンの匂いが染み付いてるはず、こんなところでよくお祝いのテーブルを設けるわ。それともあれは敵兵と結婚なんて(馬の)くそ食らえ!というジョーク?


そして今回のアディーナはほろっと泣いちゃう。人知れず、の涙じゃないんです。あれはずっとアディーナを見つめ続けているネモリーノだからこそ気づいて、彼だけが人前ではいつも強気なアディーナの女の子らしい心を垣間見る、そしてアディーナも恐らく自分でもびっくりして自分の気持ちに向かい合う第一歩となっていたかもしれない、そういう心の中だけの微妙なさざなみ、だったんだろうと観客がそっと察する、そういう奥ゆかしいものじゃだめなんですか、ね。
あれだとドゥルカマーラの前に誰かに見られて、おっさてはホの字か、なんて噂が先に立っちゃいそう。
ドゥルカマーラとのシーンではアディーナはさらに、うぇーんというかびぇーんと大泣きしてます。どうせこういう説明的な幼稚な仕立てにするんなら、ここも大きなクマのぬいぐるみみたいなマエストリ(と思うのは変態的なわたしだけ?ふふ)を上手く使って、怪しくて見掛けは怖くて妙だけど、アディーナがなぜかそこまで気を許してしまう不思議な魅力もある心は優しいドゥルカマーラ、と、役名通りビタースイートな人物描写をもっと色濃くしたらもうちょっと面白いことになったかもしれないのですが。宣伝写真が出た頃はそれに引っ掛けてチョコレート工場のウォンカ社長のように描写してくれるのかと想像してたのですが・・・

中途半端。



今回唯一気づいた改善点は、二幕二場のジャンネッタと村の女の子たちがネモリーノに遺産が入ってくるらしいと噂をする場面。コプリー版では階段を利用していて、かなり様々なドレスの色もあって、絵的にごちゃごちゃしている感じ、そして少なくとも先シーズンのレンツェッティの指揮では音的にもきゃぴきゃぴうるさい感じだったと記憶しているのですが、今回は女の子たちがちょうど一列に並ぶ感じで音響的に親切、ベニーニはオケとコーラスの音量を抑えて、こそこそ噂話をする、という描写にしていてとても良かったです。しかしこれは別にシェアのおかげじゃないですから、演出のプラス点にはなりません。

あと良かった要素としては、毎回幕前に紗がかかって、後ろの村人たちの風景に絵画的美しさがあることです。一幕目はミレーのようでした。照明はでかした、よくやった、と思いました。

衣装に関してもauthenticだ、という宣伝ですけれど、村民はともかく、時代考証に本当に合ってるか非常に怪しいなぁ。ネトレプコの妙なシルクハットもこれもまたさておいといて、スペインのたばこ工場で働くジプシーとかちょっと後のアメリカ西部の酒場の娘とかじゃあるまいし、あの頃のまともなイタリア人女性が真っ赤なスカートを穿くなんてこと、しかも裾を一部たくし上げてたまに足をちら見せしてるなんてこと、ちょっと考えられない。あの頃の娼婦でさえあんなカッコで昼間歩き回るかどうか、道を歩いたとたん風紀を乱すとして当局に連れて行かれたんじゃないかと思うのですけれど。個人的には衣装も装置も必ずしも時代考証が正しくなければならないとは思っていないですし、ネトレプコの長所の一つのむんむんなお色気を強調したいのも分かります。そしてあんなしどけない派手な娼婦的なかっこをしてたらベルコーレにいきなり鷲づかみにされたりおけつ叩かれたりする流れもおかしくない。そうか、そうされてもおかしくないそっち系タイプの人物設定だったということなんでしょうか。あのう、これ妙薬で、お色気むんむんのネトレプコのためのショーじゃないんですけど。そしてあのあほなシルクハットに茶色の上着のコンビはなんなの?、アディーナは農場経営もしてたけど、チンドン屋でもあった、とでも言いたかった?

ネトレプコについてはかなり複雑な気持ちです。先シーズンのマノンはHD日はこれで最後!の頑張りがあったのかもしれませんけれど、こちらで紹介したWSJの記事を読むと、今から思えばもう既に「あたしはマノンはもう卒業、撮影も済んだし」という気持ちでやってたから、わたしが見た日はあそこまでいかにもやる気がなさそうな気の抜けたマノン だったんだ、と納得もし、もう過去のことですから、なんともネトレプコらしいとは思っても今さら腹立たしいとも思えません。今回、出だしは随分馥郁とした声のアディーナだとは思ったりもしましたが、マノンの時ほどは役と違いすぎてへん、的な違和感は感じませんでした。ただ今回最小限に留めたような数少ない装飾音符部分もちょっとおっかなびっくりな感じで、外しはしないかしらとはらはらするものがあって、「なんとかイーナ」役ということじゃなくて、もともと抜群に素晴らしいとはわたしには思えなかったベルカントもん、この際すっきり封印でいいんでないの?なんて不敬なことも思ったりしましたが。

ネトレプコのアディーナが残念に聴こえたのは、これはつい6ヶ月前に聴いたダムラウが素晴らしかったから、というのも大きいと思います。ただ、ダムラウのコロラトゥーラは素晴らしくて、いまや完全にドラマティコなんだろうネトレプコはそれができてないとか、声のタイプ、テクニークを問題にしている訳ではないです。
ダムラウはアディーナの喜怒哀楽そして心の移り変わりというか成長過程が歌唱を聴いているだけでも観客に伝わってくるようだった。あれはダムラウがこういうアディーナを演じたいというのがあったから、自分のアディーナ像、妙薬はこ ういう話なんだ、というヴィジョンを持っていたから、そしてそれがあの素晴らしい喉と技術で表現されていて、我々に届いていたのではないんでしょうか。

ネトレプコのアディーナは強弱のニュアンスはあるけれど、色の変化が乏しくて、ドラマを通した心の移り変わりの大きな弧はもとよ り、それぞれのアリアでもなにを伝えているのかが視覚的にはともかく音楽的にはなかなか伝わってこないことがよくある。彼女自身が今回のアディーナで何を表現したいと思っていたか、の問題なんじゃないかと 思います。多少声のタイプや歌唱に難があっても表現したいものがあれば、観客に聴こえてくるもんなんじゃないかしら。

これは今回の、表面的なものしか読み取る力のない、作品を無視したような演出家のせいも多少あるかもしれません。彼の頭の中では、ひょっとしてもしかすると今回のアディーナは最初から確信犯で、ネモリーノも聞いているのを承知で思わせぶりにトリスタンとイゾルデの話しを出したりして、こうなりたいと思ってるんだから妙薬のせいにしてでも何でもいいから決着つけなさいよ、ともじもじしもたもたしたネモリーノが男になってくれるのを(イタリア立ち上がれ!を)焚きつけていた?、ベルコーレのことも表向きは承知したような(政治的)駆け引きをしてただけで、内心は(馬の)くそ食らえ! だった? ネト子ちゃんはそれを買って、だからなんとなく中途では表面的な歌唱をわざとしていた?

先のあほなシルクハットですが、ベルコーレとの婚礼の食卓でドゥルカマーラにお歌を歌わされる場面で椅子に座った時、ネト子ちゃんはぽろんと落としてしまいます。あ、やっちゃった!の気持ちを隠さず地を出してお茶目に手で顔を隠して笑いをとるネトレプコ。わたしは別に舞台上では何があっても役からbreakしてはいけない、という古い頑固頭じゃないですけれど、こんな小さいコスチューム的ミスがあった時、話の流れと全く関係ない「ネトレプコというあたし」を大げさに出すのは、たとえ出し物がブッフォものだとしても、ちょっとプロとしてどうかと思います。
(ちなみにあの帽子、その後も落としてクヴィエチェンが後でそっと拾い上げたりしてました、あのあほな帽子は見目も奇妙・座りも悪い、でそこまでして使う存在価値は全くありません。アディーナは女であると同時に(当時の)男性的役割を担って農場をちゃんと経営している、というのを男性用帽子を被らせることで説明したつもりだったのか、また上記のSensoのシーン中、騒ぎになる前に怪しげなシルクハットの紳士が二人、一人はオーストリア兵に混じり、もう一人はビラを天井桟敷の人々に渡しているのですが、そんな誰もシルクハットを被っていたかどうかを気にすることもなく印象深く覚えている筈もないようなつながりをつけたつもりだったのか。全く下らない)

あの態度に少々釈然としないわたしには、その後、かわいく美しく、のぶりっ子的な表情や演技がいやに気になってきてしまいます。そしてはっとする美しい歌唱、あ、ここは言いたいことが聞こえた!という箇所が所々あっても、リサイタル的というか文脈なしというか、ここではこういうことを表現したいというより、ちゃんと歌えてるから文句ないでしょ的なrenditionも目につく。この全体的にはムラがある感じ、はよくないなぁ。そして頻繁な、どう、わたしこんな大声を何度も出せるのよ、またやるわよ、Are you ready?的な勿体つけたような凄まじい大音量の高音を出すのもどうも。
ちょうど「一年前はあなたはこんなことを言ってました」というメールがブログ・システムから届いてて、それがグレギーナの高音爆音爆弾攻撃に参った、なんて書いてあったので、おぉそんなこともあったなぁ、と随分昔のように感じてたんですけれど、今日のネト子ちゃんが大音量の高音を伸ばす時は少々あの爆弾攻撃に似たところがあった。歌唱で何かを表現するというより、わたしはこんな凄いことができますと主張している印象の方が強い。大音響を出せるのは、それはそれで凄いのかもしれないけれど、なんとなくわたしは冷めてしまったのは、わたしが「ネトレプコ」を聴きに行ったんじゃなくて、「ネトレプコ演じる愛の妙薬という作品中のアディーナ」を聴く心構えで望んでいたからでしょう。

今回のプロダクション、かなり毒舌な記事がニューヨーク誌に出てて、わたしは内容に随分異論もありますが、今回の演目は単にメトの3年連続ネトレプコ特集の一環に過ぎない、という点はわたしもそう言われても仕方ないものがあったと思います。最初はわたしは気まぐれと言っておいて、最後は「あなたを愛してる! 愛してるのはあなた!」に飛躍する経緯がネトレプコ・アディーナから伝わってこなかったのは、本人もアディーナを演じてるつもりよりも、どちらかというと大スターネトレプコをたまたま出ることになった妙薬を通して魅せている意識の方が強いからなんじゃないかと勘ぐってしまいたくなります。ピンとくる箇所は思いがこもってすごくいいのに、いまひとつあたしじゃないと思っているようなところはただ歌ってる(勿論それ自体がかなりのレベルの歌唱であるのだけれど)、だからあそこまで今回のアディーナに少々フラストを感じる結果になったんじゃないか、とも思いました。
このアディーナもレパートリーから外すような発言したネト子ちゃん、わたしは深みを増した喉では確かに難しいだろう、と当初は理解していましたが、レパートリーから外すのは、アディーナの気が知れない、気持ちも入れられないしなりきれない、という理由もたしかに大きいんでしょう。あ、そういえば、今回も前回のマノンも、わたしが歌唱も演技も心が入ってて生き生きと登場人物が舞台にいる! と感じられた部分はなんらかの性的イニュエンドがあるような、異性との絡みの場面が多かったかもしれない。熟女のお色気むんむんなネトレプコってやっぱりそういう人なのかなぁ。
わたしは映像はまだ見ていませんが、夏のザルツブルクのボエームは異様に非日常的に聴こえた2幕以外は実に素晴らしかったと思ったし、記事中挙げていたマノン・レスコーやレオノーラで今後出てきてくれる際は素晴らしいものを聞かせてくれるかもしれない、引き続き期待はさせてもらおうとは思っています。

クヴィエチェンは今回は荒ぶれた強引さのある軍人ベルコーレ、人物設定は肯定はしませんが、これで前回より男性的魅力のある彼の歌唱が引き立つ感じがあった。かつらもなしの自毛のままで、颯爽とセクシーな魅力を発揮していて、クヴィエチェン好きにはたまらないかもしれません。



 

シェアの頭の中では恐ろしいことにひょっとしてもしかするとビラを配って独立運動を扇動して村々を回るデマゴーグであったかもしれないドゥルカマーラのマエストリ 、登場人物の中では唯一妙な人物設定じゃなかった (確かに助手たちは上記のSensoのシルクハットの怪しい二人風ですが、そんなのヴィスコンティ本人だって気づきはしないでしょう)。というか宣伝写真ではほんとに、もっとあくが強い変人的な様子だったので、逆にかなりな無難さにがっかり。
この人はバリトンの魅力がある声質がいい、勿論イタリア語のディクションは完璧、つい笑ってしまうようなコミカルなニュアンスはあっても、年配のバッソ・ブッフォだったら話し言葉風にしてしまうだろう箇所も歌で歌っているのもいい感じ。しかしうおっと音量を出すことがたまにあっても、なんとなく歌唱も演技も遠慮がちでおとなしかったのが残念。
食卓の場面で、変なピーという音が聞こえていて、最初は偶然か、ブルゾンのsの音もこういう鋭い空気音が出ることもあるし、こういうのたまに喋っててもあるよね、と思っても、それが何度も。誰か脇の人が冷やかして妙な口笛風の音を絶妙のタイミングで出してるのか、どの人がやってんだろうと探してしまいましたが、どう考えてもマエストリの歌声というか呼吸とシンクしてて、あれは面白いかと思ってわざとやってるの? それとも歯に妙な隙間があるの? へんなの。
大男らしくパスタ(なにもソースがない?!)を手掴みでむしゃむしゃ食べてましたが、大抵の歌手は、歌いだしまでに咀嚼し終わるようにすると思うのですが、マエストリは食べ物がまだ口に入ったまま平然と歌ってた。ふふふ、へんなの。
しかしこの人はこんな体型じゃなくて見栄えが良かったなら、随分レパートリーが違ったかもしれないなぁ。先シーズンのアドリアーナほどはっとするパフォーマンスじゃなくてがっかりですが、近年イタリア人歌手を生で聴くことも珍しくなったせいもあるのかな、ディクションの一語で片付けられるのかもしれませんが、自然なノリというかわざとらしくないあの感じはほっとする、わたしはまた来てね、そして今度はハメはずすぐらいの勢いでやってね、と思います。

ベニーニの指揮、今までぼんやりと(あのおっさんと違って)イタリアもんをちゃんと小気味よくやってくれる人、という印象を持っていましたが、いい感じです。先の村の娘たちの噂話のところも面白かったですけれど、ネモリーノのCredimiあたり、一応今回の重い(ふふ)シェアの演出の意図を汲んであげたか、まるでヴェルディのどっしり悲劇的な運命が重く心にのしかかってくるような盛り上がり!、にニヤっとしてしまいました(と同時に切々としたポレンザーニの表現が心に差し込む、次ぐ重唱も素晴らしい、しかしそれをぬってネモリーノの悲劇的叫びが響いてきて、胸が引き裂かれるよう。) 普段この作品を振るときにはここまで重くしてないんじゃないだろうか、演出者が出したかったドラマにシンクした音楽のドラマを聞かせてくれるのはなかなか。ポレンザーニの苦悩の歌唱をさらに盛り上げて、是非はともかく、たしかにあそこは演出家が意図した「ハムレット的悲劇」が音楽的に描かれてました。ベニーニ氏、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。


これはもともとHD日の券を持っていたのですが、都合がつかずにお取替え、面倒がらずに普通の日に替えてほんとに良かったです。シェアも挨拶に加わるだろうHD日のマチネのままだったら、幕後の挨拶の時、わたしはブーイング屋デビュー、なんてことになったかもしれなかった、あぶないとこでした。

 

☆☆☆

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6 コメント

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私よりも怒ってらっしゃいますね (Madokakip)
2012-10-07 13:29:29
こんにちは。あまりに怒っておられるのでついチャイム・インしたくなりました♪
私もここでKinoxさんがおっしゃっている点について、大体同意見です。
ほんと、この演出は中途半端で今一つ何がしたいのかよくわからないですよね。
コプリーの演出を○(キャンセル)して、この演出と取り替える意義がよく見えません。
だし、そうそう、独立運動とか言っていたのも一体何だったんだろう、、って。
『夏の嵐』を思わせる部分って、ベルコーレが来ている軍服のブルーがフランツのそれと似ている、
それだけで、私にはそれ以外何のインスピレーションを受けたのか、全く不明でした。
クヴィエーチェンとかマエストリとか、ポテンシャルに実力がある人材も、
これじゃ実力を出し切れないと思います。
きゃあ、ようこそ! (Kinox)
2012-10-09 09:21:33
また自分で読み返すのがちょっと恥ずかしい記事を書いてしまって、反省していたところ、Madokakipさまからのコメント、本当にありがとうございます。

そして昨晩お返事を書き始めたら長くなってしまって時間切れ、遅くなってすいません。

これは一体再演はあるのか、そしてあったとしたら、ネトレプコ仕様の感じに特にソプラノが、そして筋立てに他の出演者が、ずいぶん苦労すんじゃ(そもそもこれに出演したいというトップクラスの歌手がいるのか)、それとも次回はオリジナルの演出家の「鬼のいぬ間」で面白い風に発展したりするのか、この後も心配なような。


そしてアドリアーナのこと、Madokakipさまのサイトだと、またこのしつこい人が出てきた、とみなさんに思われるかな、と思って・・・

カーテンコール中、カウフマンがブニなんとかちゃん(Madokakipさまのあのタッカー氏ねたの拝借、ふふ)をゲオルギューから守るようにしていた、というのは非常に納得、です。大告白すると、実はあの日はもうあきれかえってしまって、幕後の拍手が始まったとたん、同列の人々に、ちょっとごめんなすって、と言いながら、その場を飛び出してました。扉口に歩きながらマエストリには拍手を送ったんですけれど、あの「どや顔」のアドリアーナに気持ちのない拍手をするために残るくらいなら、早く帰って寝る前にその分余計に娘と遊びたい、なんて失礼なことを思ったんです。だからそんな面白い感じだったのは知りませんでした。ブニちゃんは相当遠慮してやってたんでしょう、そしてあの指揮者も、もしかして幕間に、あんたはもういいからずっとあたしに集中して、流れはオケ自身に任せておやんなさい、とでも言われたからその後はあんな首を曲げてゲオルギューばっかり見てた?、さぞかし後日首が痛かったことでしょう。やれやれ。

彼女、劇中、皆に賞賛される人気女優って、まさにディーヴァのあたしらしい、とでも思ってたからあんなアドリアーナだったのでは。
わたし自身のアドリアーナ像ってちょっと違う、人気があってちやほやされても芸術家としての真摯な態度を持ち、人情・仁義・思いやりのある偉ぶらない女性、それを端的に表しているのが、あの時の「あたしってディーヴァ」さんが気持ちを歌い込めなかった(少なくともわたしにはそのように聴こえた)出だしの「神のしもべ」だと思います。このアリアはおそらく多くの真摯な音楽家たち、ハンブルに作曲・作詞家が言いたかったことは何かを自分なりに追求しつつも、次の瞬間にはもう空中に消えてなくなってしまうような楽興の時に、全身全霊を尽くす音楽家たちだったなら、分かる!、と思わせるところがある。音楽家だったら相当思いが込めやすいアリアだと思ってました。
(奇遇にも昨日素人耳さまが別のページで、「クライバーは音楽の世界で、神と人間をつなぐ完璧な仲介者でした」と仰ってましたが、このアリアってこういう風な姿勢でいたい、というアドリアーナを表しているのでは)

アドリアーナって作品としてはさほど好きではないので他の人で聴いたことがない。やっぱりわたしにとって思い出に残っているのがカバリエ。あのカバリエのこの女優役にはうっとり夢心地。見た目はあんな大きいおばさんなのに、作品中の皆の賞賛がそこまで白々しく聞こえません
http://youtu.be/-MIMa_4KZnM 東京公演・日本語字幕つきの「神のしもべ」最後ぶちっと切れます)
こんなわざとらしいタリラリラリラリ、ラリラリラーって何度も繰り返す思わせぶりのオケの盛り上げのあと登場、ときたらどんな凄い女優がでてくるのか、そして「いやしい僕」の出来に相応の結果を期待する、のが人情ってものでしょう。

このブイヨン妻は、あの鋭い突き刺さるようなソプラノ風味があるめずらしいメゾの声質のコッソットが、女って怖い、を感じさせてくれるし、カレラスのは自分の気持ちがあっても、いかにも社会的しがらみに身動きがとれなさそうなのが納得できるマウリッツィオなんじゃないかな。
そういえばカバリエはカレラスのLa dolcissima effigieで一緒にくちづさんでいて、あれは愛する人の言葉を思わず繰り返して心に刻む、という演技とも取れるのかもしれませんが、随分あからさまに応援してたのかな。全幕日本語字幕つきも見つけました(http://youtu.be/CanP_5IFygE)La dolcissima effigieは0:20あたり
この版が最高・唯一とは思ってませんし、コンサート形式じゃなくって、ゲオルギュー&カウフマンもROHの舞台上のDVDだと全然違う印象でまた違った面白い解釈を魅せてくれるのかも知れませんけれど。

あの日のゲオルギューのアドリアーナの残念なrenditionは今回のネトレプコのアディーナのとちょっと共通項があるような気がします。
ブーイング屋デビュー (CSTM)
2012-10-20 02:36:37
Kinoxさま。

この間このリンクを頂いた時は時間もないし、眼が悪くて長い記事を読むのは辛いので待ちました。そうして今讀んで驚いてる所です。 Kinoxさまの頭の良さ、オペラを劇芸術として、音楽として、人間ドラマとして理解なさる力に何時も驚くのですが、それと、短時間の間にさっとこれだけの批評をお書きになる力はどうしてもプロだと思います。この間ちょっとユロスキイのコンサートを聴きに行くためにお仕事を休んだとかおっしゃっていたので、どんなお仕事なんだろう、やはり音楽に深く関わっていらっしゃるのだろうと思っていました。そうして物を書くお仕事、ジャーナリストかな?それとも音楽理論の教授?

そうして何でもよく調べていらっしゃる事。まあ此のごろはインターネットのブラウザーのおかげで色んな事がすぐ調べられるようですけれど、私のようなぶきっちょな人間はそれも出来なくてうろうろし、のろのろ人の後について行っています。

それにしてもお仕事を持っていらっしゃる方がブログ主としてすべてを上手に管理し、サイトはいくつもあるのでしょうがそれを全部仕切るのはたいへんでしょう。私が特に感心するのは皆さんのコメントに対して一々義理堅く、几帳面に御返事なさる事です。礼儀正しいだけでなく、実に責任感のつよい、思慮に富んだ立派な御態度だと思います。

それで、この妙薬評は実に的を射たいい事がたくさん書いてあるので、一々同感したり意見を述べたいのですけれど、私の意見なんて自己満足のためだけで、 役にはたちませんから。

始めにおっしゃった事から大同感で、『新作を出すのはより意味深い、前回言い切れていない作品の魅力をみせる、あるいは新しい観点から観客の作品への理解を深めるきっかけとなるようなもの、を やろうとするからこそ価値がある、投資の意義がある、たとえそれが失敗したとしても、というのが普通の人間の発想というか、観客が新プロダクションものを 見に行く大きな理由の一つなんじゃないかしら』
私など、オペラをあまり見ていない部類(まあある程度見てるんだけど何もわかっちゃいない部類)に入るでしょうから、それほど新プロダクションに画期的な発見の喜びを見いだす事は少ないだろうと思いますが、 Kinoxさまやみやび様や Madokakipさまや、素人耳様、皆さましょっちゅうオペラをごらんになってよくわかっていらっしゃる方達にはこれは全く真実だろうと思います。だから『解釈も表現も最高に素晴らしかったフローレス&ダムラウ版の妙薬をあんな最近に観ていなかったら』とおっしゃったので、成る程なあ、この前のを御覧になってたんだなあ、と羨ましく思いました。
最近のメトの『妙薬』は見ていないけれど、たしかにこのプロダクションには何も新鮮実が感じられず、伝統のプロダクションの線に沿ったにしても統一性がないので、心をうたれる所がなかったのはたしかです。私はネトコちゃんの涙を見たのですが、それまでのアデイーナとは関係がない、性格的に納得がいかない感じで感激しませんでした。

シェアが影響を受けたというフェニーチェ劇場でのトロヴァトーレのシーンの参考クリップをわざわざつけて下さったので、 ヴィスコンティ好きの私は早速昔見た『夏の嵐』を拝見しましたが、Kinox様がかろうじて見つけてお上げになった、紳士のシルクハットや、オーストラリア兵や、政治的宣伝ビラ、などのヒントさえ飛躍し過ぎの感じでした。それとドニゼッテイと何の関係があるの、という感じ。まあ、自分を天才だと思っている演出家にはどんな飛躍した暗示でも発表の価値があるのでしょう。

“シェアという人は今までホフマン、理髪師、オリー伯爵などでわたしは真似っこ乞食的な演出家という印象があって、どこかで見たことがあるような演出を表面だけ新しくした感じでやってるな、オリジナリティはなくて面白くないけど無難”という点付けは面白くて、私たちのようなわいわい連中にはどんぴしゃりの評価です、少し酷だけど。ほんとに Kinox様の失望がよくわかりました。

でもその失望の根底にある原因をちゃんと見て覚えていらっしゃるんだから溜め息が出ます。ノートでもとっていらっしゃるんでしょうか?

評のなかに面白い事がたくさん書いてあって何度か笑ってしまいました。『 ---もともとHD日―――お取替え、面倒がらずに普通の日に替えてほんとに良かったです。シェアも挨拶に加わるだろ うHD日のマチネのままだったら、幕後の挨拶の時、わたしはブーイング屋デビュー、なんてことになったかもしれなかった、あぶないとこでした。』
ぷーっと吹き出してしまいました。ブーイング屋のデビューは観ものだったでしょうに。
ずいぶん不満が溜まってきてるので (Kinox)
2012-10-23 12:32:08
> ブーイング屋のデビューは観ものだったでしょうに
もうこれ以上我慢できないかも、ちょっとつっつかれただけで、今シーズン、実際にデビューしてしまいそうで怖いです。
こんな演出、どこか他のハウスでやってるのを見たら、あははと大笑い、で終わってたんじゃないかと思いますが、どうなのかな、やっぱりメトにはある一定の質を保ってほしい、という地元の誇りというか期待があるのかもしれません。自身が持っている過去の素晴らしい財産を生かす・学ぶことさえせず、ただ放り捨てて下らないものに走る、ということが最近続きすぎのような気がして、堪忍袋がいっぱいいっぱいかも。

もうゲルブご推薦の舞台出身の演出家たちにはうんざり。
グノーのファウストじゃなくてゲーテのファウストをやりたいんだったら勝手にブロードウェイでせりふ劇としてやってくれればいいし(あれはそうしてたらわたしも随分高評価した演出だったかもしれません)、大掛かりなサーカスをやりたいんだったらリングのCD流してシルク・ド・ソレイユ使ってアトランティック・シティでもラス・ヴェガスで、でも好きにやりゃあいいじゃない。

> 物を書くお仕事、ジャーナリストかな?それとも音楽理論の教授?
えぇ、まさか。わたし普通のお金儲けの仕事、しかし例の「46歳の曲がり角」的に、今後の人生これでいいのか、non profitな道に転換したいかな、などは頭をかすめたりしているのですが。
あはは、素人だからどう思ってもどう書いてもいいんだ、という気持ちがあるので、いつも好き勝手に書いているので、ほんと恥ずかしいです。まぁただ自分で決めてることはあって、できるだけ jargon は使わないようにしようとか、いいとか悪いとか好きとか嫌いと言うだけじゃなくて、なんでそう思ったか、という理由は後から自分でも思い出せるように、具体的に残しておこうとは心がけている(あくまでつもり)なんですが・・・
述懐 (CSTM)
2012-10-26 01:56:08
御意見全くわかります。
<もうゲルブご推薦の舞台出身の演出家たちにはうんざり。グノーのファウストじゃなくてゲーテのファウストをやりたいんだったら勝手にブロードウェイでせりふ劇としてやってくれればいいし...大掛かりなサーカスをやりたいんだったらリングのCD流してシルク・ド・ソレイユ使ってアトランティック・シティでもラス・ヴェガスで、でも好きにやりゃあいいじゃない。> 全く!
あなたはとてもMadokakip様に似ていらして,お二人とも,同じようなオペラへの理解と純粋な愛情を持っていらっしゃるのね。だからマーケットリサーチか何かから編み出したゲルブの間違った経営方針が(彼自身の趣味もあるんでしょうが)オペラをとんでもない方向へ追いやって、あなたたちがこよなく愛し、proprietary interest的な誇りと保護心をもってみていらっしゃるメトをだんだん堕落させている。あなた方の期待と希望はもう何度となく裏切られてもう限界に来てるのですね。ゲルブの考えから言えばオペラをなるべく大衆化させて芸術と経済を両立させているつもりなんでしょうが,昔からオペラを見守って来た理知的なNY人はそれでは承諾しませんよね。ゲルブはこの二三年聞こえる轟々たる非難を『bad publicity is better than no publicity』とでも思ってるんでしょうか。
ぼやんとした生半可なオペラ愛好者である私などにはそれだけの洞察はありませんし,メトの事情や活動を知ってるわけじゃないのでお聞きしてやっと成る程なあ,と共感にたどり着いたわけです。
Madokakip様のサイトありがとうございました。これから暇を見つけて讀ませていただきます.あなたのブログにはずいぶんオペラをよくご存知で頭のいい方がよくいい御意見を発表なさるので時々讀ませていただくのですが,皆さん時間をとてもお上手に活用なさるのね。齢を取るとだんだんそれが下手になります。そうして毎日演劇、音楽会、美術展バレーなどへ行ってると何もかもごちゃまぜに混乱して実になる物は結局皆無ということになります。
ファウストじゃないけれどもう一度若い日に戻りたいですね,そうしたら今度は時間をもっと有効につかうつもりなんだけど。
どうなのかな (Kinox)
2012-10-26 13:18:10
うーん、わたし多分Madokakipさまほどの熱意というかintensityはないと思います。メトに関しては、ラジオであんまり酷いと(一人ぐらいの歌手がよくても、とか主役が酷くて指揮者がよい、とかの場合)、わざわざ出かけませんし、オペラもコンサートも基本的には1シーズン同じ演目は特別なことがない限り1回、本当にお好きな方々のように、2度、3度行こうと思うような愛情は全然ないです。
実際に行かなくともHDものはライブで映画館で見る、というのも今シーズンはどうかな、これは冬以降、タダのTV録画で時間のある時に飛ばし飛ばしで見ればいいや、と思ってるものも既にありますし。

多分、わたしの場合は、作曲家に対する尊敬、そして真摯な音楽家に対するadmirationが一番大きいのかな。作品を自分なりに解釈するのは、たとえ自分自身が好きじゃなくとも、それはそれで尊敬します。ただ作品によっては一生分の思い・時間をかけたものもあるかもしれないのに、質より人気優先とか、とかちゃらちゃらしたこざかしいことをやっているように見える人たちに対しては、ふざけんな、と思ってしまうんでしょう。妙薬なんかはドニゼッティはさっさと書いたようだけれど、だからといってこりゃないんじゃない、しかも開幕公演なのに。一体メトはどこへ行こうというの? という感じです。
そうですね、ゲルブは「いいものと売れるものは違う」と堂々と発言してるような骨の髄までの商売人ですから。こういう支配人の時代だからこそ、ある程度の質を維持する役目として音楽監督は大きな存在でいてほしい、まずいときにはけん制をかけてもらわないと。

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