お祭り 歴史探索の旅   ~尾陽雑記抄~

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中日ドラゴンズ日本一を逃す 魔将、ラストマジック

2011年11月21日 00時52分16秒 | プロ野球(きょうろぐ)
わが地元名古屋を本拠地とする中日ドラゴンズは、ソフトバンクと最終戦までもつれましたが、日本一を逃しました。
中日を率いた落合監督の1年目は2004年、僕がアキとして「尾陽雑記抄」を書き始めた時です。この年は球界再編の年。選手会のストライキなどがあり、野球ファンが「このままではいけない」という危機感に包まれたときです。

2004年も中日は日本一に王手をかけました。この時、僕はホリえもんの名古屋での講演会に出ていました。数分ですが、ホリえもんと中日の試合をテレビで一緒に観ていました。この年は巨人から「バントの神様」川相選手が移籍してきた年で、僕は中日に釘付けになりました。

 元々僕は巨人ファンでした。もっとも巨人ファンだった頃は、故藤田元司氏が巨人を率いていた時で、4番には原辰徳、エースに斉藤ら、投手を中心とした守り勝つ野球ながら、生え抜きで選手を育てていました。

 藤田野球の申し子、川相さんの移籍と中日の落合監督も投手力を前面に打ち出し、守り勝つ野球でしたので、名古屋だし、中日ドラゴンズの正式なファンとなったのです。

 旧ブログでは野球についても色々書いていました。とりあえず、野球が好きだったのです。
 また、10代より藤田氏の著書を読んでいました。藤田式の育て方は、僕が湯取車の囃子方でちびっ子に笛を多少教える機会があった時は、かなり参考にしました。

藤田野球から落合野球に変わって好きになった。ついでに言うと、故仰木彬監督も好きだったりします。「魔術師」に憧れていたんでしょうね。

 今年で落合監督は退任しますが、落合1年目は僕がブログを書き始めた時期と重なっていて、それなりに胸にくるものがあります。2011年、中日が日本シリーズで敗退した時、一つの時代の終わりを感じました。2006年は日本ハムの新庄選手、中日の川相選手が引退した年で、この時の日本シリーズも強く印象に残っています。

 落合監督の任期中は間違いなく中日の黄金時代でしょう。中日を名門とする人は多いですが、50年近くも日本一から遠ざかっていたし、リーグ優勝もそんなに無かったので、僕が言うと語弊がありますが、弱小球団と言ってもよいでしょう。その弱小球団を強くした、その功績は大きい。

 僕が考える、落合退任の理由は、中日生え抜きのコーチが少なく、そして後継者となる次期監督を育てなかった、いや育てられなかったことでしょう。初期には宇野勝さんが、コーチにはいっていたので、自分が2,3年で辞める時は、後継監督になっていたかもしれません。二軍の井上一樹監督は、まだ若いです。数年の経験の後、一軍の監督に昇格するでしょう。

 どうせなら、落合退任まで、祭礼ブログを書き続けていればよかったかな?と考える時も。

 鍼灸関連の文章を書いている、つまりやいと屋知足斎の日記ブログを書いていると、はっきり言って、老けちゃったな、と感じちゃうのです。老けちゃったけれど大人になりきれていない。祭礼ブログ書いていた頃は文章に勢いがあったのです。それに祭礼ブログでも、今のうちに書いておかなければいけない事もあったりするのです。

 僕が鍼灸で落ち着いたら、またもとのブログで連載しようとも考えています。僕が祭礼ブログ「尾陽雑記抄」に戻る時、何かが起こる!?

 何はともあれ、ソフトバンクファンの皆様、おめでとうございます!!



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