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小松基地問題研究会

20190825『改元 我れ世に勝てり』(島田清次郎、1923年)を読む

2019年08月24日 | 島田清次郎と石川の作家
20190825『改元 我れ世に勝てり』(島田清次郎、1923年)を読む

 本書の大まかな構成は、フランスで開催された第3インターナショナルの大会に出席した野島民造がアメリカへの船上で、澄子との「恋」が始まり、噂になり、全米に報道され、澄子の夫の知るところとなり、決闘に発展する。民造が生き残り、紐育(ニューヨーク)の兄聖造のところに転がり込む。聖蔵は怪しげな宗教団体を立ち上げており、アメリカの政財界を支配しようとしている、というところだろう。

 聖造の日本脱出の経緯を、処女信仰「聖道教」と信子との「結婚」のいきさつから話す。東北へ信子を迎えに行き(島清と豊との結婚のいきさつと同じ)、結婚の了承を得て、「聖道教」の集会で信子を紹介し、初夜を迎えるが、信子はすでに処女ではなく、兄由太と性的関係が出来ていて、処女信仰の崩壊の危機を迎える。信子とともにフランスに向かうインド洋上の船中で、信子を殺し、フランスからアメリカに向かった。その目的はアメリカ資本主義(ニューヨーク)の爆破なのだが、何故そうなのかは意味不明である。

 民造は「世界の王」となる意志は兄弟の胸に強く脈うって来た、と言って本書を閉じるのだが、島清は表題の「改元」に何をこめたのか、「世に勝てり」とは何に勝利したのかはほとんど語られず、島清の駄弁に終始していて、意味不明な小説である。

国際主義からの撤退
 本書には、「5月初旬巴里で開かれた国際共産党大会へ…日本を代表して出席…ニューヨークへひきかえす」、「新しいロシヤは彼の夢見た『新しい日本』を捨てて、…太平洋を超えて来た民造の唯一の幻影であった」、「民造が感じねばならぬ『人種的嫉妬』の感情」、「巴里のコンミュニストの大会で、最後の幻が破られた後に世界は彼れにとって幻滅そのものでしかなかった」など、第3インターについての感想を書いている。

 著書には第3インターナショナルの第1回大会が「1919年5月巴里で開催」されたと記述されているが、事実は「3月モスクワ」である。小説だから、それはよいとして、大会にに参加した主人公民造は「人種的嫉妬」の感情(白色人種による黄色人種への差別)から、共産主義思想への「最後の幻想」が破られ、帰りの船上で澄子に会って、「同じ民族の血にめぐりあうた歓喜」に戦慄したと書いている。

 第3インターの第2回大会(1920年)では、「農業・農民問題および民族・植民地問題に関するテーゼ」が確認されており、本書は1922年以降に執筆されているから、あえて、第3インターナショナルの国際主義には背を向け、民族主義へと転落している姿がある。

侵略戦争に反対しない
 日露戦争と韓国併合に関する島清の考えを見ておこう。それは、国際主義と民族主義を見別けるリトマス紙だからだ。結論を言えば、島清は幸徳秋水や堺利彦とは比べものにならないくらい、ブルジョアイデオロギーに侵されていた。

 島田清次郎は、本書で、日露戦争について、「ロシヤと戦ったのはロシヤの侵略的極東政策を制するためであった。…日露戦争はあきらかに極東の平和を確立するために、日本の独立を保全するために、日本人が日本そのものゝために戦ったものである」(112頁)と書いている。

 他方、日露戦争開戦の前年1903年10月12日の『万朝報』に、幸徳秋水と堺利彦の2人の社会主義者は連名で、「対露開戦」の主張に傾いた新聞『万潮報』からの「退社の辞」を掲載した。同じ紙面には、内村鑑三も反戦の立場からの「退社の辞」が掲載されている。

 1903年11月、幸徳、堺らは平民社を創設して週刊『平民新聞』を発刊した。開戦直前の1904年2月7日付『平民新聞』13号の社説「和戦を決する者」では、戦争が資本家、銀行家といった少数特権階級の利害の産物であることを批判した。戦争が始まって以後も「吾人は戦争既に来るの今日以後といえども、吾人の口あり、吾人の筆あり紙ある限りは、戦争反対を絶叫すべし」(「戦争来」)と戦争反対の覚悟を語った。

 韓国併合・植民地化については、島清は「朝鮮の独立に就いては、もし朝鮮人が政治的にも経済的にも独立しうる実力さへ持ってゐれば、いつでも喜んで独立してもらふつもりである」(115頁)、「朝鮮の独立は直ちに実現されねばならぬといふものではあるまい」(116頁)、「吾々は朝鮮人を朝鮮人とは思ってゐない、同じ日本人だと思ってゐる!」(117頁)と述べている。まさに当時の支配階級の思想である。

 島清は1920年発行の『早春』で、「彼等(注:朝鮮人)を愛し、彼等を真に平等にあつかはなくてはならない。彼等に選挙権を与へ、彼等に兵役の義務を与へてよい」と、朝鮮併合を強行した日帝批判はなく、朝鮮独立運動への共感も支持もない。「兵役の義務」を与えて、朝鮮人に日本国を守れとまで主張しているかのようだ。

 1923年の本書『改元』でも、1920年の『早春』をそのまま、より明確にひきつぎ、より体制内化を果たしている。

 『平民新聞』は、戦争のなかで進められた韓国併合の動きを、「日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨する所に非ずや。韓人が日本人と合同せんとする事あらば、そは合同に非ずして併呑なり。韓人は到底使役せられんのみ」(「朝鮮併呑論を評す」、同紙36号、1904年7月17日)と、厳しく批判した。

 『朝鮮を知る事典』(平凡社)には、「〈領土保全〉の美名が韓国滅亡のためにあることを看破し、〈朝鮮国民の立場〉から帝国主義外交を批判し、そのために〈国家的観念〉を否認する必要のあることを説いた。当時にあって彼(秋水)は最も傑出した朝鮮観の持主であった」と、幸徳秋水を評価している。

 『平民新聞』は政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至った。

 島清は1922年の洋行過程で、思想的変質を完成させ、朝鮮略奪のための日露戦争を支持し、韓国併合・植民地支配を支持している。そして、島清の主要な意識は、社会主義から離れ、得体の知れない「宗教的観念」へと転向していくが、小説『地上』では社会の矛盾的角逐を描いたが故に、多数の青年たちから受け入れられたが、ここに至っては、文壇に限らず、民衆からも見放されたのである。

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