粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

郡山二中合唱部「日本のウィーンを目指して」

2014-02-18 18:56:13 | 音楽

郡山二中合唱部について以前から特別注目していて過去2回(2011年11月7日2013年3月24日)ほどブログに書いてきた。これまで何度も大きな合唱コンクールに優勝してきて、その実力は依然トップクラスといってよいだろう。どこか他のブログで郡山をこの学校の功績により、「日本のウィーン」と呼んでいた。この中学校の長きにわたる栄光をみると、あながち大袈裟ではないと思う。

特に自分自身、彼らのクラシック曲に注目している。それを聞いているとその合唱は玄人肌といってよく、商業ベースででているCDや動画を聴いても決して見劣りしない。例えば2012年声楽アンサンブル全国大会での合唱を動画で聴いてみるとその明朗で伸びやかな声は清新さがみなぎっていて素晴らしい。

歌われている曲はモーツアルトのミサ曲で雀ミサ(K.220)という愛称で呼ばれている。作曲年代が不明だがおそらく18、19歳の頃とされている。ミサ曲などというとクラシックでも抹香臭く一番堅苦しいジャンルに見られている。厳かな教会で歌われる荘厳な曲で聴く方が肩肘張って聴くようなイメージがある。

しかし、モーツアルトの場合はこれとは真逆である。人間の生の感情が思い切り出ていて世俗的でさえある。実際モーツアルトの他のミサ曲では、その旋律の一部が世俗のオペラ曲に登場したりする。したがって、クラシックの硬い専門家はモーツアルトのミサ曲を邪道扱いしたりもする。あるいはカトリックの総本山がバチカンでも異端扱いされた時期もあった。

この雀ミサはヴァイオリンの演奏に雀の鳴き声を思わせる部分があるためだが、特にどこかというのがよくわからない。それはともかく、このミサ曲はモーツアルトが10代の若さ故に創られた青春の曲であるといってよい。堅苦しいカトリックの教義とは無縁で、若者の溢れるばかりの感情の発露がそこにある。

そして、この郡山二中の中学生たちの合唱は、まさに若きモーツアルトの心の叫びが具現化されているといってよい。ソロパートの4人の伸びやかな歌声もさることながら、全体の合唱も素晴らしい。各個人の歌唱レベルが高い。それが一つに結集して清く強く鳴り響く。

理屈などこねずに真っ正直に歌い上げる。曲全体はどこまでも明るい。生きる喜びに溢れている。曲の最後に何度も繰り返されるdona nobis pacem.(ドナ・ノビス・パチェム=われらに平安をあたえたまえ)(動画13分辺りから)は聴いていて心が弾む。まさに天使の合唱である。

音楽の都にはウィーンには、その輝かしい伝統を誇るウィーン少年合奏団がある。郡山二中合唱部もそれに負けないパワーがほとばしっている。そして名実共に郡山が「日本のウィーン」になることを希求してやまない。