粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

まだやってる学校給食拒否運動

2014-02-01 15:15:49 | 過剰不安の先

原発事故から3年近くにもなって、被曝への不安にも世間的に冷静さを取り戻りつつあると想像してしたが、こんな報道に接してやり切れなさと怒りがこみ上げてくる。

田中龍作ジャーナル放射能汚染の学校給食「母親たちは限界にきている」

この反原発ジャーナリストの主張そのものは失礼ながら全く信用していないが、反原発運動の活動状況を知る上で是非はともかく、情報源としての意味はある。今回の記事で、被曝を心配する父母(実際は母親)が政府の関係省庁に出向き学校給食の被曝の不安解消を訴え交渉したようだ。

こんな母親の「訴え」があった。

福島県郡山市の母親の最大の悩みは学校給食に福島産の牛乳が使われていることだ。「地産地消はやめてほしいと申し入れても地産地消は繰り返される」と訴えた。「薄められているから(検出される放射能の)数値が低いのではないか。不信ばかりが募る」と続けた。

地元福島の「地産地消はやめてほしい」とはどういうことだろう。政府の食品基準が緩く実際福島の食品は放射性濃度が高い、とかいう話ならば少しはわかる。しかし、頭から「地産地消は駄目」というのでは話にならない。今はやりの「思考停止」そのものではないか。これでは宗教やカルトの領域に近い。ある宗教団体の「輸血禁止」と同類ではないか。

こうした母親たちの「悩み」に対応しなければならない若手官僚も気の毒に思う。「食品の安全は厚労省が決めた基準にもとづいて出荷制限をかけている。基準値を超えるものは出ていない」と答えるのが精一杯のところだ。

「被害」を心配する母親の最終手段は「子どもへの弁当持参」ということになる。しかし、「(学校で)イジメに遭う。校長先生からは叱られる。」(同記事)ということになる。校長先生も叱るのか?いじめはまずいが、こうした弁当児童への対応には学校の先生も苦慮していることだろう。

こういう報道に接して常に思うのは、過剰な不安をもつ母親たちに付き合わされる子どもたちのことだ。「みんなと一緒に給食を食べたいけどママに駄目といわれる」そんな子どもの心境はいかばかりであろう。敢えていわせてもらうともはや母親のいじめに近いのではないか。

福島のスーパーが地元消費者の毎日の食事に含ませるセシウムの摂取を定期的に調べているが、ほとんどが1日1ベクレル以下最近は不検出が圧倒的に多くなっている。これを毎日食べても年間で0.006ミリシーベルト程度の被曝だ。ごく稀に平均の10倍のセシウムを摂取している人がいても年間の被曝は0.06ミリに過ぎない。

福島のスーパーだから地元の産品も少なくないだろう。しかし、今や全く問題にするレベルではない。もはや世界一厳しい日本の食品基準をクリアしている食品を食べていれば、内部被曝など心配することはおこがましい話といえる。

今や、給食拒否問題は被曝による実際の健康被害というより、それを過度に心配する人々の心の問題といえるのではないか。