一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

慈悲心(2)

2007年11月20日 | Weblog
 前回のブログで私は今まで「無明の自分」としての人間関係をしてきたのに気が付きました、と書きました。そして「無明の自分」的人間関係でよく言っていたのが、「価値観が違うから付き合わない」でした。でもオギャーと生まれてきたときは、誰も価値観なんて持ってなかったんですね。赤ちゃんはどんな人にでも、あやしてくれる人にはニコニコ笑います。動物もどんな人にでも、自分を可愛がってくれる人にはなつきます。
 私は、今まで一生懸命幸せになりたい、良い人間になりたいと思って作ってきた価値観が、結果的には自分の人間関係を狭くし、自分自身に垣根を作り縛り付けていたというこのパラドックスに唖然とします。どこに「落とし穴」があるのでしょうか。良かれと思ってやって不幸になるのならば、人間は悪魔に魅入られた存在になります。
 私は、この「落とし穴」は、現実をしっかり観ていないことにあるような気がします。
幸せや良い人間というものが、‘現実’と‘アタマでこうすれば幸せ、良い人間になれる’という間に‘ずれ’があるのです。その‘ずれ’が‘造作’です。‘造作’の現れが、不安であったり、怒りであったり、もっともっとであったり、体の不調であったりだと思います。
 「正法眼蔵」を貫いている教えに因果論があります。「原因結果の関係には一分一厘の狂いもない。」という教えです。これは‘現実’と‘アタマ’の‘ずれ’があれば、どんな些細でも人間にとって悪い結果として現れるということです。「正法眼蔵」はこの現実とアタマのずれの因果関係をとことん追求しています。
「仏教がその因果論に関し、他の思想体系におけるそれとの特段の差異を主張した根拠の一つは、おそらく仏教の因果論が因果の法則に関して数学的が厳密さを認め、いささかの偶然も、いささかの誤差もみとめないという主張の強さ、その強さを支えている哲学的な基盤の深さに求められると思う。」(注)と西嶋先生も言われています。孔子や老子等の教えとは因果関係の厳しさにおいては問題にならないとさえ言われています。私は仏教の教えの‘現実’と‘アタマ’の‘ずれ’を認めない精緻さ基盤の深さに魅せられて今まで勉強しています。
 ‘現実’と‘アタマ’の‘ずれ’を、‘アタマ’で解決することはこの語句の並びから見ただけでも出来なさそうです。そのために現実を観るための修行法の坐禅、身心をいやでも現実を観ることができるような体を作っていく修行法の坐禅をお釈迦様は見いだしました。
 現実は平衡のとれた落ち着いた心持ちです。ですので、どんなに自分の価値観の正しさを主張しても、興奮したり、後味が悪かったりするのは‘造作’だと思います。自分が‘造作’なしの現実に近づいた「本当の自分」になれば、相手の‘ずれ’を客観的にみることができるようになるでしょう。どんな人でも、‘現実’と一体になりたいというのは現実だと思うんですね。心のふるさとに帰りたいということは、自分で気が付かなくても誰でも望んでると思います。だから、価値観に価値観を返すのではなく、相手も気が付かない相手の‘現実’と一体になりたい心、こころのふるさとに帰りたい心が観ることが出来るようなれれば、それが慈悲心ではないでしょうか。
 
(注)西嶋和夫「仏教 第三の世界観 六版」金沢文庫 144頁

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。