一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

ひとりではない

2013年08月22日 | Weblog
 「三界はすなわち唯心のみである。」と華厳経に書かれている。

 この言葉は魅力的な言葉です。

 この世界は心がつくりだしたものであって、目の前の世界は本当はなんにもないんだという意味です。

 それに対して、紀元400年頃のインド人のヴァスバンドーをいう人は『唯識20論』のなかで、次のような質問をしています。

 1.若し目の前の世界が無いのであれば、ある一定の場所にいくと、みんな同じものをみるのはどうしてなのか。たとえば、富士山の前にいくとみなが富士山を見るように。

2.また、若し目の前の世界がないのであれば、ある一定の時間になるとみんなおなじものをみるのはどうしてなのか。たとえば、朝になるとみな朝日を見るように。

3.若し目の前の世界がないのであれば、同じ場所と時とにいて、業の報いによって見るものが違うのはどうしてか。

4.若し目の前の世界がないのであれば、実質的効果があるのはどうしてなのか。目の前の世界がないのであれば食べ物を食べても満腹にならないのではないか。

と、この4つの質問をだしています。

 「三界は唯心のみである。」の心というのは、目の前に見えている世界はなくて、心が見えているものをつくりだしているんだということです。心というと私たちは何かに向かって意識をはたらかせることを心だと考えています。意識が勝手に世界をつくりだしているならば、同じ場所と時間にいてもみんなてんでんばらばらのものを見ているはずです。

 でも、この『唯識二十論』では、みんなが同じ場所で同じものをみる。一人だけではない、といっています。

 みんなが同じ場所で同じものをみる。一人だけではない、ということは、この『唯識二十論』でいっている心というのは、意識ではない、何かほかのものを指していることになります。
 
 みんなが同じ場所で同じものをみる。一人だけではない。ということは、私たちの心には段階があって、ある段階にある人は皆同じものをみているということになります。
 
 人それぞれ生まれ育った環境や、知能レベルがあってそれで何かに向かっていく心にもくせがあって、それで、段階に分かれるんじゃないの、と私は考えてしまいますが、仏教では、何がこの段階に分けるかというと、業をうちだしています。私たちのエネルギーです。そして、私たちの持っているエネルギーの状態の段階を五つにわけています。天上・人間・地獄・餓鬼・畜生です。
 
  仏教では、“心”を意識とするのではなく、業(エネルギー)のはたらきだとしました。

 私は、不安なことがあると、あたまでこうしたらいいか、ああしたらいいかと必死で考えて不安をやわらげようとします。それは私一人がやっていることでみんなには関係ないことで、逆にいえば自分一人でなんとかしなければならないと袋小路に閉じ込められたような閉塞感をもちながらその不安をどうにかしようとしていました。

 でも仏教では、その不安をどうにかしようとやっていることは、私一人がやっていることではなく、みんな同じ事をやっているんだという考え方です。

 その不安にはさまざまなかたちがあって千差万別のようにみえるけれども、その不安の根っこはみんな同じだということです。なぜなら今もっている不安を解決したとしても、また別の新たな不安をつくってどうにかしようとするからです。

 千差万別の不安をそのつど一人で解決しようとしたら自分の手におえるものではないと落ち込んでしまいますが、みんなと同じものをどうにかしようとすればそれほど難しそうではありません。ある意味逆に“心”がコントロールできることになります。

 みんなが同じものを見る、一人だけではない、と“心”を定義してくれたとこは、私たちにとってとてもやさしい慈悲深いことだと私は思うのです。



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