前回のブログで、観念という人工的な紛い物のない世界と一体になった瞬間に「おまえは仏である」とささやかれる、と「授記の巻」では言っていますと書きました。
観念のない世界と一体なんて書くと、いったい何をわけのわからないことを言っているんだ、頭のついている人間が、観念のない世界にいれるわけないだろうと99.9%の人が最初から取りあわないと思います。
人工的な紛い物の観念というのは、自分から使う頭です。
実在の思いというのは、自分から頭をつかわなくても、自然にでてくる思いです。頭というのは、自分から頭を使わないと何も考えは浮かばないと思っていましたが、自分から頭を使わない方が自然に頭はフル回転するんだそうです。
「正法眼蔵 弁道話の巻」には、この人口的な紛い物の観念のことを、「水中の月」「かがみのうちのかげ」という表現であらわし、実在でないものとしています。
もし、「バカッ」と言われた時に、頭の中で問題にし始めることが、人工的な紛い物の観念です。『何で「バカッ」と言われなくてはいけないの、もう絶対に許せない。私だって、それをやったのには理由があるのよ。あの人だって、前に同じようなことやったじゃない。こんないやな感じははやく消したい。・・・・・・・・・』などです。
実在の思いというのは、「バカッ」と言われた瞬間、身体全体で感じたムッときた怒りや何でという感情や考えです。よく間違われることは、仏教では、怒りの感情はおこしてはいけないとか、常に平常心でなくてはならないと思われてますが、怒りやいやな感じは体験としてはっきり感じます。身体全体で明瞭に感じたままにして、それ以上頭で理解したり感情をまじえて問題にしないことが仏教です。ブツブツ言いながらも、仕方なく料理をしたり風呂を洗ったりして身体を動かしていると、怒りもだんだん薄れて意外と良い対処策が浮かんだりします。
「バカッ」と言われたことを火種とします。そうして、身体全体で感じたことを煙とします。火種もいじくらないし、部屋の窓を開け放して風通しをよくさえしておけば、煙は窓の外に流れてしまうものです。火種も自然に消えてしまうものです。
頭の中で問題にしはじめることから大火事になってしますのです。
私は、以前はこの火種は自然に消えるわけなどないから、自分で消さなくてはと、常に身体全体で身がまえて緊張状態にありました。でも「正法眼蔵」の‘刹那消滅の道理’やこの前読んだ「生物と無生物のあいだ」(注1)からもわかるように、私たちの身体は脳細胞も含めて瞬間瞬間に壊れる前に壊して再構築され動的平衡を保っているのです。このことからも実在の思いは、火種や煙は自然に消えていくのではないかと思いはじめました。
でも、人工的な紛い物の観念は、それに気がつかない限り自然に消えないのかもしれないし、観念に観念を重ねて大火事になってしまうのかもしれません。
参照:板橋興宗「良寛さんと道元禅師 十六版」光雲社
注1:福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書
観念のない世界と一体なんて書くと、いったい何をわけのわからないことを言っているんだ、頭のついている人間が、観念のない世界にいれるわけないだろうと99.9%の人が最初から取りあわないと思います。
人工的な紛い物の観念というのは、自分から使う頭です。
実在の思いというのは、自分から頭をつかわなくても、自然にでてくる思いです。頭というのは、自分から頭を使わないと何も考えは浮かばないと思っていましたが、自分から頭を使わない方が自然に頭はフル回転するんだそうです。
「正法眼蔵 弁道話の巻」には、この人口的な紛い物の観念のことを、「水中の月」「かがみのうちのかげ」という表現であらわし、実在でないものとしています。
もし、「バカッ」と言われた時に、頭の中で問題にし始めることが、人工的な紛い物の観念です。『何で「バカッ」と言われなくてはいけないの、もう絶対に許せない。私だって、それをやったのには理由があるのよ。あの人だって、前に同じようなことやったじゃない。こんないやな感じははやく消したい。・・・・・・・・・』などです。
実在の思いというのは、「バカッ」と言われた瞬間、身体全体で感じたムッときた怒りや何でという感情や考えです。よく間違われることは、仏教では、怒りの感情はおこしてはいけないとか、常に平常心でなくてはならないと思われてますが、怒りやいやな感じは体験としてはっきり感じます。身体全体で明瞭に感じたままにして、それ以上頭で理解したり感情をまじえて問題にしないことが仏教です。ブツブツ言いながらも、仕方なく料理をしたり風呂を洗ったりして身体を動かしていると、怒りもだんだん薄れて意外と良い対処策が浮かんだりします。
「バカッ」と言われたことを火種とします。そうして、身体全体で感じたことを煙とします。火種もいじくらないし、部屋の窓を開け放して風通しをよくさえしておけば、煙は窓の外に流れてしまうものです。火種も自然に消えてしまうものです。
頭の中で問題にしはじめることから大火事になってしますのです。
私は、以前はこの火種は自然に消えるわけなどないから、自分で消さなくてはと、常に身体全体で身がまえて緊張状態にありました。でも「正法眼蔵」の‘刹那消滅の道理’やこの前読んだ「生物と無生物のあいだ」(注1)からもわかるように、私たちの身体は脳細胞も含めて瞬間瞬間に壊れる前に壊して再構築され動的平衡を保っているのです。このことからも実在の思いは、火種や煙は自然に消えていくのではないかと思いはじめました。
でも、人工的な紛い物の観念は、それに気がつかない限り自然に消えないのかもしれないし、観念に観念を重ねて大火事になってしまうのかもしれません。
参照:板橋興宗「良寛さんと道元禅師 十六版」光雲社
注1:福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書