前回のブログで「カーネーションの花びらは一点から出ている」と書きました。それについてあれこれ考えていたら、花びらが一点から出ているのとアットランダムにあちこちから出ているのとの差は、自分のちからがギューッと一点に絞られていてそこから行動が起こされるのと、自分のちからがあっちこっちで拡散されていて起こる行動の差とも考えられるな、と想像しました。
カーネーションの花びらが一点からでてなくて、アットランダムにあちこちからでているというのは、自分の行動を考えてみてもなにかある一点に自分が動く動機の軸があるというのではなく、こっちに面白そうなものがあるから行ってみるとか、あっちにみんなが行くから行ってみるとか、なにか根無し草のようにあっちふらふらこっちふらふらの状態です。
それとちからと何の関係があるのだろうと思ってしまうと思いますが、ちからは、今まであったちからをパッと消すことはできません。津波で押し寄せてきている水のもつちからをパッと消すことはできません。
根無し草のような行動も、それを突き動かしたちからがあります。そのちからはそこで消えるのではなく、次の根無し草の行動を突き動かす潜在的なちからとしてとどまります。
自分では自分なりに一生懸命考えて行動しているように思っていますが、自分を超えたところのちからに突き動かされて行動しているのかもしれません。それを仏教では輪廻とも呼んでいるし業とも呼んでいます。
ではそれでは、私はこのカーネーションのおばけ花びらのように死ぬまでパシッとしないこころもちでいなければならないのでしょうか。
その輪廻から抜ける方法は、私を根無し草の行動を突き動かすのがちからであるのならば、ちからにヒントがあるように思えます。「毒には毒を」「目には目を」のように「ちからにはちからを」です。
それに関連して人工衛星のロケットが思い浮かびました。人工衛星のロケットが打ち上げられているのをテレビで時々見ます。打ち上げるときはものすごいエネルギーを吹き上げて大気圏を突破します。でも地球を循環する軌道に乗ったときは、なんのちからもつかわずに地球の周りを回ることができます。
それと同じように輪廻のちからとは違うこの宇宙を動かしている法というちからがギューッと一点に絞られている強いちからの流れがあって、その流れに便乗して流れれば、私たちはなんのちからもつかわずに流れることができると仏教では考えているように思えます。
我が家の猫が4月に亡くなってから、カーネーションのおばけ花びら状態のように私は、ふにゃふにゃとしてしまっています。なんか軸がなくなってしまったようなのです。愛別離苦の苦しさは避けられないのでしょうけれども、無理に元気をだそうとしないで法の流れに身をまかせているしかありませんね。
l