(本エントリーの初掲載は2010年6月27日です。文章中の年数は当時の年数です。)報道写真家・栗田格さんの記録シリーズ第5回です。全写真 © Kaku KURITA
☆終戦の時、長野県の叔父の家に疎開していました。お盆は、子供達には一番楽しい時期で、ウキウキしていましたがご馳走等はなくて、
大人は、シ~ンとしていました。終戦の年の8月15日のことです。
その後、2年して小学校3年生の時に家族は、東京に移りました。長野は、戦前も戦後も同じ風景でした。東京に着いた時は、一面焼け野が原でした。
今も覚えていますが、バラックが沢山ありました。その前を子供達は、元気に遊び回っていました。
○神戸地震の時、子供たちが焼け跡を自転車で楽しげに走っているのを見た時に、終戦で東京に戻ってきた時を思い出しました。自分の子供時代と同じでした。
○倒壊した家の前の道路でぼんやりしているおじさんがネコといる写真も、戦後を思い出しました。
あの当時は、おじさんと犬の前には、空き缶がありました。乞食ですね。
○避難所の家族の写真は、母親と子供たちがカップ麺を食べています。戦後の東京では、雑炊がありました。
長野では、家畜のエサだったトウモロコシの粉やくず米を人が食べている事にびっくりしました。
○ 先日神戸の山間部を若い連中がカーレースをしている姿をテレビで見ました。多分、神戸地震の時は、10才くらだったのでは、ないでしょうか?
15年経つと人間は、それぞれ、昔の事を忘れるのですね。震災のあと、何度か、神戸に取材で行きましたが にぎやかで 震災の時歩いた、傷口
も見当たりませんでした。
〇自分は、じーちゃん、ばーちゃん、父から、戦時中の話は、沢山聞きました。我々の役目として若い世代に 神戸の震災を伝える事は、大切だと思います。
自分の出来る事は、写真で見てもらう亊です。阿智胡地亭さんの文章と自分の写真で、体験者の話を伝えるのは、意味ある役目と思います。
天災は、忘れられるのですね。人災は忘れては、いけませんが。
栗田 格 記
☆栗田 格 様
15年前の取材写真を提供して頂き、取材時のご記憶と現在の思いを、五回に亘ってまとめて頂きましてありがとうございました。
自分でも殆ど思い出すこともなくなっていたあの震災のことを、お陰さまであらためて振り返り、その結果、また現在の日常を見直すことができました。
心の準備も物的な備えもあの当時、神戸・阪神間・淡路に住む誰にもなかったと思います。「神戸には地震は起きない」という神話を、誰もが暗黙の了解としていたのです。
しかし、皆が知らなかっただけで、実際は須磨寺などには過去の大きな地震の記録が文書や絵で残っていました。
ああいう震災後の悲惨な事態が、明日にでも自分と家族に起こりうると想定しておくことは、例えそれが心の準備だけであっても違うと思います。
送って頂いた震災の記録のCDを見せて頂いて、子や孫の代にはあのような状況を出来るだけ作らないようにしたいと強く思いました。
つらいことは、忘れるから生きていけるという一面もありますが、戦争のより悲惨な事実と、自然災害の被害も、繰り返し次の世代に伝えていくべきだと思います。
幸い、昔はなかったHPやブログなどを使い、無名の個人やグループが体験や記憶を次の世代や、震災を体験していない人たちに伝えていくことができるようになりました。
あの大震災から15年後の今年に、栗田様とのコラボレーションにより、このような企画が実現しましたことを感謝しております。ありがとうございました。
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