阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 補遺」      記憶の交換 その1

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

(本エントリーの初掲載は2010年5月31日です。文章中の年数は当時の年数です。)
 同時に現地で震災を体験した栗田さんとメールの交換を続けています。

『第三者として、写真を見るのは、感慨深いです。
老夫婦が一休みしているショットがありますね。奥さんは、きりっとしています。
ご主人は、ぼんやりとしていました。
奥さんは、背中に何をしょっているのでしょうか?
着物? お二人とも着ている服装は、きちんとされているので、
良いお屋敷に住まれていたのではと思いました。

15年たっても、自分の歩いた神戸地震の空気は、忘れられません。
半壊の家の間を歩いている間の余震は、恐かったです。
被災された人々も 余震は、恐怖だったと思います。』

阿智胡地亭:
『余震の事ですが、震災後に出社してお客さんの所へ行く車が高速の渋滞で
高速道路上で停止すると、高速道路が振動していることを体が感知しました。
即、無意識のうちに恐怖で体が硬直しました。

同乗の人は平気な顔をしているので、悟られないようにしてましたが
やはり私の異様な雰囲気を感じて、どうかしましたか?と聞かれました。

それほど本震のあとの余震(2ヶ月以上、毎日かなりの頻度で
大きいのもありました) に恐い思いをしたことを思い出しました。
身体がまず反応するということがあることを 知りました。
 
その高速の振動は心臓が本当に止まるかと思うほどの恐怖でした。

○噂では暗闇でいろいろな不祥事があったと流れましたが、
幸い身近では実際にそういうことはありませんでした。
外国の取材者が驚くのも無理はないと思います。

 一つの理由に当時の日本は、欧米社会ほど階層社会が分化してなかったので
お互いおんなじやという気持ちがあって、略奪とか人のものに手を出さない
ということがあったような気がします。
あれから15年たった今の日本はどうなるでしょうか?

○それにしても、公共交通機関の始発が動き出す午前6時前にあの地震が起こったこと、
真夏ではなく寒い冬だったので汚物の臭いや腐敗の臭いがまだましだったこと
などは、不幸の中の幸いでした。

もし出勤、登校時間帯にあの地震が起きていたら大変な数の人が
亡くなっていました。

私自身も出勤途上の六甲道駅で圧死していた可能性が高いです。
おそらく夫や子供や息子、娘などの家族の安否を訊ねて多くの人が
狂乱状態で右往左往したと思います。

あのような、ある種の平静さがなんとかあったのは
そういうめぐり合わせのお陰がありました。

もし、首都圏などの大都会で、真夏の通勤、通学時間帯にあの規模の地震が
起こったことを想像すると恐ろしいです。

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