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シベリア抑留に屈しなかった男たちの面目      辺見じゅんさん   リベラル21  横田 喬 (ジャーナリスト)

2020年07月24日 | メディアからの引用記事

2020.07.21 私が出会った忘れ得ぬ人々(26)
     辺見じゅんさん(続)――シベリア抑留に屈しなかった男たちの面目
                      
横田 喬 (ジャーナリスト)


前回に引き続き、ノンフィクション作家・歌人として異色の活動を重ねた故・辺見じゅんさんの足跡を偲んでみたい。彼女から頂戴した五冊の本のうち、『収容所から来た遺書』は「大宅壮一」「講談社」両ノンフィクション賞を受けた力作だ。

 前回にも触れた通り、父は角川書店の創立者で俳人・国文学者でもあった角川源義。デビュー作『呪われたシルクロード』を発表した時のこと。源義から夜中に「すぐ来い」と電話があり、行くと本に赤い傍線が引いてある。「ここはどうして自分で調べなかったんだ。(他書からの引用で)楽しようなんて泥棒根性だ」と、ものすごい剣幕で怒る。
 
 ――ひどく応えてワアワア泣きましたが、後々ためになった。父は「行李いっぱいの原稿ができなければ、発表してはいけない」が口ぐせで、安直な仕事を何より嫌う人でした。
 と、彼女は亡父に対する感謝の念を口にした。
 
 二つのノンフィクション賞に輝いた『収容所から来た遺書』は、生き地獄さながらのシベリア抑留に屈しなかった男たちの面目を鮮やかに伝える感動作だ。「楽してはダメ」という亡父の戒め通り、辺見さんは関係者四十四人に綿密に取材し、的確な証言を引き出した。

 日本の敗戦直前に旧満州に攻め込んだソ連軍により約六十万人もの日本人がゆえなくシベリアに連行され、強制労働に従事させられる。食事は一日に黒パン三百五十㌘と朝夕に少々の粥か野菜の切れ端が浮かぶスープ、そして砂糖が小さじ一杯。毎日が空腹との闘いで、営内や作業現場で捕えたネズミや蛇・蛙・カタツムリまで口にしていた、という。

 俘虜たちは長時間にわたる土木建築作業などの重労働を課され、冬は零下四十度にも達して土が凍結し、穴掘り作業などは困難を極めた。劣悪な環境下での理不尽な処遇により、抑留者の一割強に当たる約七万人もの人々があえない最期をとげた、といわれる。

 それでも、大多数の一般俘虜は戦後処理が進んだ昭和二十四年(一九四九)までに帰国がかなう。不運にも収容所になお留め置かれたのは、旧関東軍幹部や旧満州国高官に旧満鉄調査部関係者ら。ソ連側はこれらの人々を欠席裁判などで戦犯として一方的に断罪し、「重労働二十五年」を宣告。過酷な日々をさらに強制し続ける。

 ちなみに、共同通信社会部記者による後年の取材に対し、旧極東ソ連軍総司令官ワシンスキー元帥の副官を務めたコワレンコ元情報将校は「旧関東軍将兵らのシベリア抑留はスターリンの命令だった」と明言。一部で囁かれていた瀬島龍三ら旧関東軍高級参謀ラインによる「密約」説を明確に否定している。

 島根県出身の元満鉄調査部員・山本幡男(敬称略)は希望を失えば生きる気力を失い、衰弱死につながると考える。ロシア語が堪能なためラーゲリ(収容所)の文化部長を任され、タス通信などから得た有用な国際情報を分かり易く知らせる壁新聞を作成。映画鑑賞会では堅苦しい宣伝映画を同時通訳し、気転の利いた風刺で満場の笑いをとり、娯楽映画に替えてしまう。一見飄々とした物腰ながら、芯の強い人柄だった。

 ――生きて、みんなで帰国しよう。その日まで、美しい日本語を忘れぬように。
 と、語句を五・七・五と連ねれば誰でもできる「句会」の発足を呼びかける。少将から一兵卒、民間人まで様々な人々が加わるが、階級名や実名は控え、みんな平等に雅号で通す。句会の集まりは、ラーゲリ内のとげとげしい空気がウソのような別世界を生む。

 ――「文は人なり」と同様「俳句は人なり」。俳句を磨こうと思えば、まず自らを磨こう。
 と、山本はみんなを励まし、選者として秀句を発表する。作品の批評と感想を告げ、褒められた面々は格別の喜びようだった。「天・地・人」の秀句は、例えば「天の川今年も過ぎし思ひかな」「大寒を行とし日々を逆らはず」「明けを待つ塀の高さや初仕事」・・・。

 が、ラーゲリの「希望の星」山本は不運にも喉頭癌を病んで入院。療養ほぼ一年半、昭和二十九年夏に四十五歳で他界する。彼はノートにして十五頁、四千五百字にも及ぶ遺書を故郷に暮らす母や妻と四人の子供たちに宛てて書き遺す。子供ら宛てには、こうあった。

 ――君達はどんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。
 ――最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。(中略)人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。(中略)自覚ある立派な人間になれ。

 俳句仲間など山本を敬慕する人々は、これは彼個人の遺書ではなく、ラーゲリで空しく果てた人々全員が祖国の日本人全てに宛てた遺書――力強いメッセージなのだ、と受け取った。ソ連側は文字を書き残すことをスパイ行為と見なすから、遺書自体は持ち出せない。ならば、銘々が手分けして遺書の文言を頭の中に必死で暗記し、遺族に伝えればよい。

 鳩山内閣による日ソ交渉が進展し、残存抑留者一千余人は山本が死去して二年後の昭和三十一年、無事に帰国がかなう。日本に帰りついた俳句仲間ら七人は、山本の妻のもとへ遺書の自分が担当した分を紙に書きつけて郵送するか、直接自分で届けた。稀有の出来事だろうが、全て事実である。筆者の辺見さんの感動がそのまま伝わり、思わず胸が熱くなる。


 ちなみに、山本の妻は小学校や特殊学校の教師として家計を支え、長男は東大を出て後に大学教授になり、三人の弟妹たちもみな一流国立大学へ進学している。山本の遺書は立派に趣旨を全うした、と見てよかろう。
 前回にも記した通り、辺見じゅんさんは二〇一一年、七十二歳で亡くなった


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