阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

翌年に暗殺された朴大統領が浦頂製鉄所の式典に出席した日に現地にいた。  昭和53年      昭和50年代の海外あちこち記  その10 韓国篇         

2024年07月26日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1978年(昭和53年)11月、韓国の浦頂に出張しました。

韓国出張は浦頂製鉄所の竣工式セレモニーに出席の役員に随行など、2泊3日の出張を含めれば、10回以上の回数になります。

 随行の仕事は、どうしても新米の貿易部員にまわってきます。

役員のお供で浦頂製鉄所の操業が始まって間もない頃の何かの現地式典に行きました。この式典に故 朴正煕大統領が出席することになりました。

 其の日の数日前から浦頂の町は警備の人間の方が多いと思えるくらいの厳戒体制に入りました。

ソウルの青瓦台にある大統領府を北朝鮮の潜入ゲリラが襲ったりした頃で、北のテロ、破壊活動を警戒して

市民の夜間外出禁止令が継続されていた時代です。

 軽機関銃を入れたような箱を抱えた目付きの鋭い人間や、戦闘服をきた警護隊員が威圧的に徘徊していましたが、

外国人は指示有るまでホテルから出るなと言われていたので、そうっと窓から見ただけで詳しいことはわかりませんでした。

浦頂の町は無論、製鉄所の構内すべてに空気が凍ったような緊張感がみなぎり、不審者は誰何(すいか)なしに射殺されると言われ、

気楽なお供の出張やと思ってやってきた是一個的能天気日本会社員のボクとしては大いに焦りました。

 巷の噂では空からヘリ、海からフリゲート艦、陸から装甲車の、どのルートで現地入りするかは当日の朝少数の人にだけ知らされるということで、

どのルートで来ても警護出来るように3倍の体制が敷かれているということでした。いつもは随行者も式場に入場の許可が出るのですが、

この時は役員だけの参加許可だったので後で伺うと、時間寸前に会場に大統領を乗せた武装ヘリが降り立った、とのことでした。

不謹慎ながらゴルゴサーテイーンの劇画の中に身を置いたような気がしました。

  当時のこの国営製鉄所の経営幹部は殆ど前身が韓国軍の将官、士官で固められており、厳しい規律で建設、運営がなされていました。

北に対して太陽政策が取られる時代が来るなど誰も想像もせず、朴大統領のカリスマ性のもとで、

ひたすら強国化のための重工業インフラ整備に邁進していた時代です。

 その後、これらの建設で国家からバックアップされ資本を蓄積した現代など8大財閥の興隆時代があり、大発展時代あり
バブル没落がありと

隣国の変化も日本にまけず、大変なスピードで移り変わっています。

 韓国料理が大好きだからという訳だけではなく、この見た目は同じでも、ここまで違うかと言うこの隣国には

(あのタフな連中と少しくお付き合いをしただけに)、関心をずっと持ち続けています。

ただ中国、台湾の町であれば看板を見れば何の店かわかるのに、韓国では看板は全てハングルですから、わからないのが困ります。

   ( 2000年 記)

 画像はネットから引用。

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