3月28日金曜日です。
ライブ情報はこちら↓
■5月4日(日) 12:00~ 新冠町 阿部卓馬 とっておきの♪Spring ライブ in cafe ゆるり(ランチ付き!)
■5月23日(金) 札幌市 cube garden ほしのしほ 活動10周年&ニューシングルリリース記念ワンマン企画 2025『つながる絆 コンサート』
■5月31日(土) 新ひだか町静内KAVACH
詳しくは→ライブ・メディア情報を!
さて、前回の記事「#80 セフィロトの樹」ユダヤ教の神秘主義カバラに伝わる、世界創世のモデルともいわれるセフィロトの樹について、簡単に導入としてお伝えしました。

今回からセフィロトの樹を構成するそれぞれのセフィラ(丸の部分)について、上から順に考察していきたいと思います。
あらかじめ言っておきますが、この考察は僕の我見が著しく入ることになるかと思いますので、一般的解釈とは別物だということを踏まえてお付き合いください。
しかしこうして考え書き出してみることで見えてくる地平もあったりするので、ゆくゆくは理解を深めていけたら幸いかと思います。
■第1セフィラ ケテル(王冠)
セフィロトの樹の最上部に位置するのがケテル(王冠)です。
一般的には思考や創造を司る、存在の原初と言われていますが、カバラではこのケテルの前にさらに「非存在」を記述しています。
それらについてWikipedia 生命の樹(旧約聖書)から引用すると、
三種の無(アイン)
アイン(Ain)は「無」と訳され、0と表記される。
アイン・ソフ(Ain Soph)は「無限」と訳され、00と表記される。
アイン・ソフ・オウル(Ain Soph Aur)は「無限光」と訳され、000と表記される。
アインからアイン・ソフが生じ、アイン・ソフからアイン・ソフ・オウルが生じた。アイン・ソフ・オウルから後述のケテルが流出した。
このように創造の原初には「無」があり、そこから「無限」、「無限の光」が生まれ、続くケテルが流出してくる、としています。
井筒俊彦さんによれば、この無の想定はカバラ独特のものであり、一神教のユダヤ教からすれば異端の思想であるとしています(「意識と本質」)。
僕も含めこちらのブログをご覧の皆さんも、普段はこの世界やご自身の内面などを観ているかと思いますが、その発端・原点は「意識」です。
意識がなくなれば、この世界を認識することも出来ない。
これは「死」ということではなく、もっと深いところ、例えば「死後の世界」さえ「意識」がなければ認識すらできないわけです。
もっと言ってしまえば、創造の始まりの神や仏でさえも、意識がなければその存在を認識できません。
これは、創造の神もまたしかりで、世界を創造したということは、それを観るものがセットで同時に必要になる。
なぜなら、誰にも観られない世界というのは、存在しないのと同じとなるからです。
井筒さんは著書「意識と本質」において、この原初の「無(アイン)」を「意識のゼロ・ポイント」としています。
存在・即・意識、意識と存在は同時的に発生する。そしてその原初には「絶対無」がある。
「無」と言えば、何もない、我々の普通の想像からすればどうも居心地が悪いイメージがありますが、それは意識ある者からすれば当たり前の感覚で、まったく意識する対象がない状態というのは意識の「片手落ち」の状態とも言えるかもしれません。
意識があれば同時に対象が欲しい。それゆえの感覚かと思われます。
しかしここで言う「無」というのは井筒さんの言うように「意識のゼロ・ポイント」であり、この「無」はすべての存在の潜在可能性を持つ意味での「無」であり、簡単に表現してしまうと、「世界創造のスタンバイ状態」としての「無」、ということも言えるかもしれません。
無い、けれども有る、そんな「無」です(禅の公案のような表現になってしまうあたりが、井筒さんがカバラが禅などの東洋哲学に通じる思想であると指摘するところなのかもしれません)。
「世界創造のスタンバイ状態」としての「無」がいよいよ光を伴って「有」へ向けて流れ出してきます。
それが第1セフィラの「ケテル(王冠)」です。いわゆる「有」の原初の形。
ここにきて、先ほどの逆の状態、有る、けれども無い、そんな「有」の状態となります。
えー、なかなかな文章になってきましたね(笑)
自分も考察しながら文章を書きだしているので、意味不明だったりつながりが悪かったりあるかと思いますが、まぁ、読み流してください。
次回も続けます。
ライブ情報はこちら↓
■5月4日(日) 12:00~ 新冠町 阿部卓馬 とっておきの♪Spring ライブ in cafe ゆるり(ランチ付き!)
■5月23日(金) 札幌市 cube garden ほしのしほ 活動10周年&ニューシングルリリース記念ワンマン企画 2025『つながる絆 コンサート』
■5月31日(土) 新ひだか町静内KAVACH
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さて、前回の記事「#80 セフィロトの樹」ユダヤ教の神秘主義カバラに伝わる、世界創世のモデルともいわれるセフィロトの樹について、簡単に導入としてお伝えしました。

今回からセフィロトの樹を構成するそれぞれのセフィラ(丸の部分)について、上から順に考察していきたいと思います。
あらかじめ言っておきますが、この考察は僕の我見が著しく入ることになるかと思いますので、一般的解釈とは別物だということを踏まえてお付き合いください。
しかしこうして考え書き出してみることで見えてくる地平もあったりするので、ゆくゆくは理解を深めていけたら幸いかと思います。
■第1セフィラ ケテル(王冠)
セフィロトの樹の最上部に位置するのがケテル(王冠)です。
一般的には思考や創造を司る、存在の原初と言われていますが、カバラではこのケテルの前にさらに「非存在」を記述しています。
それらについてWikipedia 生命の樹(旧約聖書)から引用すると、
三種の無(アイン)
アイン(Ain)は「無」と訳され、0と表記される。
アイン・ソフ(Ain Soph)は「無限」と訳され、00と表記される。
アイン・ソフ・オウル(Ain Soph Aur)は「無限光」と訳され、000と表記される。
アインからアイン・ソフが生じ、アイン・ソフからアイン・ソフ・オウルが生じた。アイン・ソフ・オウルから後述のケテルが流出した。
このように創造の原初には「無」があり、そこから「無限」、「無限の光」が生まれ、続くケテルが流出してくる、としています。
井筒俊彦さんによれば、この無の想定はカバラ独特のものであり、一神教のユダヤ教からすれば異端の思想であるとしています(「意識と本質」)。
僕も含めこちらのブログをご覧の皆さんも、普段はこの世界やご自身の内面などを観ているかと思いますが、その発端・原点は「意識」です。
意識がなくなれば、この世界を認識することも出来ない。
これは「死」ということではなく、もっと深いところ、例えば「死後の世界」さえ「意識」がなければ認識すらできないわけです。
もっと言ってしまえば、創造の始まりの神や仏でさえも、意識がなければその存在を認識できません。
これは、創造の神もまたしかりで、世界を創造したということは、それを観るものがセットで同時に必要になる。
なぜなら、誰にも観られない世界というのは、存在しないのと同じとなるからです。
井筒さんは著書「意識と本質」において、この原初の「無(アイン)」を「意識のゼロ・ポイント」としています。
存在・即・意識、意識と存在は同時的に発生する。そしてその原初には「絶対無」がある。
「無」と言えば、何もない、我々の普通の想像からすればどうも居心地が悪いイメージがありますが、それは意識ある者からすれば当たり前の感覚で、まったく意識する対象がない状態というのは意識の「片手落ち」の状態とも言えるかもしれません。
意識があれば同時に対象が欲しい。それゆえの感覚かと思われます。
しかしここで言う「無」というのは井筒さんの言うように「意識のゼロ・ポイント」であり、この「無」はすべての存在の潜在可能性を持つ意味での「無」であり、簡単に表現してしまうと、「世界創造のスタンバイ状態」としての「無」、ということも言えるかもしれません。
無い、けれども有る、そんな「無」です(禅の公案のような表現になってしまうあたりが、井筒さんがカバラが禅などの東洋哲学に通じる思想であると指摘するところなのかもしれません)。
「世界創造のスタンバイ状態」としての「無」がいよいよ光を伴って「有」へ向けて流れ出してきます。
それが第1セフィラの「ケテル(王冠)」です。いわゆる「有」の原初の形。
ここにきて、先ほどの逆の状態、有る、けれども無い、そんな「有」の状態となります。
えー、なかなかな文章になってきましたね(笑)
自分も考察しながら文章を書きだしているので、意味不明だったりつながりが悪かったりあるかと思いますが、まぁ、読み流してください。
次回も続けます。


多分自分自身の認識と一致すると、納得するのかもしれません。初めて聴く内容でも、受け入れるときは、潜在意識の中に積み重ねられた経験等が、無意識に受け入れてるのだと思います。
よく考えると、自分の価値観の範囲でしか受け入れない、ということになりますね😂
ありがとうございました。次回も楽しみにしてます。
わかりやすかったようで何よりでした。
身近な話題も併せながら出来るだけ理解しやすいように、何より自分がわかりやすいように(笑)を心がけております。
何よりも、新しい角度から考えるきっかけになれれば嬉しいですね。
引き続きどうぞお楽しみにしていただければ(^^)