2月13日木曜日です。
ライブ情報決まりました!
■5月4日(日) 12:00~ 新冠町 阿部卓馬 とっておきの♪Spring ライブ in cafe ゆるり(ランチ付き!)
■5月23日(金) 札幌市 cube garden ほしのしほ 活動10周年&ニューシングルリリース記念ワンマン企画 2025『つながる絆 コンサート』
詳しくは→ライブ・メディア情報を!
前回の記事「#37 五井野正博士①」からの続きです。
前回の記事では、日本にリサイクルの取り組みを世界に先駆けてもたらすなど、大きな功績を残した五井野正博士に傾倒していったことについて書きました。
その著作や講演会などから多くのことを学ぶことが出来たのは、自分の人生においてとても大きなことになりました。
しかし、多くの知識を得る反面、自分にとっては大変な問題が浮上してきました。
その2点についてまとめてみます。
①信念における排他性の問題
国家や民族、宗教を背景に構成する社会組織においては、その信念の在り方によっては、少なからず「排他的」な性質を帯び始めます。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など世界的な影響を持つ宗教においても、排他的な性質がもたらした過酷な状況は歴史が証明するところで、それは現在進行形で世界に今もなお影響をもたらしています。
五井野博士を尊敬する自分にとっても、傾倒するあまり内的にその「排他性」を持ってしまうことになります。
自分としては善意として「より多くの方々に伝えなければ!」と、ある種の使命感・焦燥感のようなものを感じながらブログ等でいろいろと情報発信をしてきましたが、なかなか伝えることが出来ないジレンマからそのような見方に陥ってしまったのかもしれません。
また、五井野博士を取り巻く方々においても、少なからずそのような傾向が見られたように感じますし、また同じように考える人同士では妙な一体感を感じ、安心感を感じてしまうのも事実でした。
渦中の状態ではなかなか一歩引いて自分自身の在り方というものを冷静に見られなくなる典型かもしれません。
更に、叡智に富んだ五井野博士の著作ですが、失礼ながら部分的には「独善的」傾向があったように感じることも、このような排他性を帯びる要因であったように思います。
それは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの大宗教を始め、新興宗教などの少数団体でも見られる傾向で、いわゆる「信じる者は救われる、信じない者は地獄へ落ちる」や「終末論」というような教義を含んでいるということです。
しかし、それぞれの宗教の信者全員がそのような傾向になるわけではなく、個人個人において純粋な信心をもって宗教的に平和に生きる人々もたくさんいらっしゃいます。
このことから、国家や民族、宗教というのはあくまで媒体であって、究極的には個人としての在り方に集約されるように思います。
国家や民族、宗教を上手に自分自身に取り込んで魂の浄化を進めていく人もあれば、逆にそれらを利用して攻撃的性質を増大させてしまいかえって自身の苦しみを増やしてしまう人もあるということで、自分はどちらかと言えば後者の部類に入ってしまったように思います。
②個人としての在り方の問題
先の話を踏まえて、結局は個人の在り方として集約されるものと考えれば、常につきまとうのは「自分自身の在り方としてはどうなのか?」という自問です。
この問題において、自分はこれ以上五井野博士の元で学ぶ資格がないと判断し離れることになりました。
いくら知識や情報を得たところで、それらを有効に利用して自分自身の人生や在り方を根本的に変えることが出来なければ、無意味どころかさらに自分を縛り付ける毒にもなってしまいます。
逆に言うと、その自分自身の変化を起こすことが出来ないがゆえに、外的なものに依存してしまう、とも言えるかと思います。
それは例えば、ダイエットをはじめとするノウハウ本が世の中に多数ありますが、知識を得ただけで変な満足を得て、実践に至れない人のようなものでしょうか。
これらは歴史から鑑みるに、ノウハウはあるのに実践に至れないというのは、人類の根本的な問題なのかもしれません。
何故なら、イエス様やお釈迦様をはじめとする、地球に現れた偉大な賢人たちが残した教えや書物はあらゆるところにあり、現代ならばおおよその人々が閲覧可能であるにも関わらず、政治や教育などに生かし切れていない現状と同じように感じるからです。
この記事の結論として、世界平和は誰もが望む希望ではありますが、社会や誰かを変えるのではなく、やはりまずはひとりひとり、身の回りからの平和を実現していく、ということに真摯に取り組んでいくことなんだと思います。
「自分自身の在り方としてはどうなのか?」
という自問は永遠の課題として、地道に進んでいきたいですね。
ライブ情報決まりました!
■5月4日(日) 12:00~ 新冠町 阿部卓馬 とっておきの♪Spring ライブ in cafe ゆるり(ランチ付き!)
■5月23日(金) 札幌市 cube garden ほしのしほ 活動10周年&ニューシングルリリース記念ワンマン企画 2025『つながる絆 コンサート』
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前回の記事「#37 五井野正博士①」からの続きです。
前回の記事では、日本にリサイクルの取り組みを世界に先駆けてもたらすなど、大きな功績を残した五井野正博士に傾倒していったことについて書きました。
その著作や講演会などから多くのことを学ぶことが出来たのは、自分の人生においてとても大きなことになりました。
しかし、多くの知識を得る反面、自分にとっては大変な問題が浮上してきました。
その2点についてまとめてみます。
①信念における排他性の問題
国家や民族、宗教を背景に構成する社会組織においては、その信念の在り方によっては、少なからず「排他的」な性質を帯び始めます。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など世界的な影響を持つ宗教においても、排他的な性質がもたらした過酷な状況は歴史が証明するところで、それは現在進行形で世界に今もなお影響をもたらしています。
五井野博士を尊敬する自分にとっても、傾倒するあまり内的にその「排他性」を持ってしまうことになります。
自分としては善意として「より多くの方々に伝えなければ!」と、ある種の使命感・焦燥感のようなものを感じながらブログ等でいろいろと情報発信をしてきましたが、なかなか伝えることが出来ないジレンマからそのような見方に陥ってしまったのかもしれません。
また、五井野博士を取り巻く方々においても、少なからずそのような傾向が見られたように感じますし、また同じように考える人同士では妙な一体感を感じ、安心感を感じてしまうのも事実でした。
渦中の状態ではなかなか一歩引いて自分自身の在り方というものを冷静に見られなくなる典型かもしれません。
更に、叡智に富んだ五井野博士の著作ですが、失礼ながら部分的には「独善的」傾向があったように感じることも、このような排他性を帯びる要因であったように思います。
それは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの大宗教を始め、新興宗教などの少数団体でも見られる傾向で、いわゆる「信じる者は救われる、信じない者は地獄へ落ちる」や「終末論」というような教義を含んでいるということです。
しかし、それぞれの宗教の信者全員がそのような傾向になるわけではなく、個人個人において純粋な信心をもって宗教的に平和に生きる人々もたくさんいらっしゃいます。
このことから、国家や民族、宗教というのはあくまで媒体であって、究極的には個人としての在り方に集約されるように思います。
国家や民族、宗教を上手に自分自身に取り込んで魂の浄化を進めていく人もあれば、逆にそれらを利用して攻撃的性質を増大させてしまいかえって自身の苦しみを増やしてしまう人もあるということで、自分はどちらかと言えば後者の部類に入ってしまったように思います。
②個人としての在り方の問題
先の話を踏まえて、結局は個人の在り方として集約されるものと考えれば、常につきまとうのは「自分自身の在り方としてはどうなのか?」という自問です。
この問題において、自分はこれ以上五井野博士の元で学ぶ資格がないと判断し離れることになりました。
いくら知識や情報を得たところで、それらを有効に利用して自分自身の人生や在り方を根本的に変えることが出来なければ、無意味どころかさらに自分を縛り付ける毒にもなってしまいます。
逆に言うと、その自分自身の変化を起こすことが出来ないがゆえに、外的なものに依存してしまう、とも言えるかと思います。
それは例えば、ダイエットをはじめとするノウハウ本が世の中に多数ありますが、知識を得ただけで変な満足を得て、実践に至れない人のようなものでしょうか。
これらは歴史から鑑みるに、ノウハウはあるのに実践に至れないというのは、人類の根本的な問題なのかもしれません。
何故なら、イエス様やお釈迦様をはじめとする、地球に現れた偉大な賢人たちが残した教えや書物はあらゆるところにあり、現代ならばおおよその人々が閲覧可能であるにも関わらず、政治や教育などに生かし切れていない現状と同じように感じるからです。
この記事の結論として、世界平和は誰もが望む希望ではありますが、社会や誰かを変えるのではなく、やはりまずはひとりひとり、身の回りからの平和を実現していく、ということに真摯に取り組んでいくことなんだと思います。
「自分自身の在り方としてはどうなのか?」
という自問は永遠の課題として、地道に進んでいきたいですね。

