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阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

#108 セフィロトの樹考察⑤ 第4セフィラ 「ヘセド(慈悲)」第5セフィラ「ゲヴーラー(厳正)」

2025年04月18日 | テーマブログ
4月18日金曜日です。

昨日から始まった「1週間でどこまで開脚できるのか???【1週間チャレンジ】」ですが、相撲の新弟子状態でヒーヒー言ってます(ーー;)ケツが硬いんだなぁ~

ライブ情報はこちら↓
■5月4日() 12:00~ 新冠町 阿部卓馬 とっておきの♪Spring ライブ in cafe ゆるり(ランチ付き!)
■5月23日(金) 札幌市 cube garden ほしのしほ 活動10周年&ニューシングルリリース記念ワンマン企画 2025『つながる絆 コンサート』
■5月31日() 新ひだか町静内KAVACH

詳しいライブ情報は↓
https://blog.goo.ne.jp/abetaku19780107/e/b3d6b71fa216b4505246e169c0677f85

さて今日はテーマブログ、引き続き「セフィロトの樹」を追っていきます。
前回までの記事をまとめます↓

#80 セフィロトの樹
#87 セフィロトの樹考察② ケテル(王冠)
#94 セフィロトの樹考察③ ホクマー(叡智)
#101 セフィロトの樹考察④ 第3セフィラ ビーナー(理解・分別知)



第3セフィラ「ビーナー(理解・分別知)」ではホクマー(叡智)で起こった純粋な主観「私」が、ビーナーにおいて鏡として無数の形に映し出される、しかし「多」でありながら「一(いち)」、すべては「一」から生まれ出たもので、それが無数に分節されているだけである、と、井筒俊彦さんの著作「意識と本質」の記述をベースに読み解いてみています。
仏教における禅や密教を踏まえて、ユダヤ教神秘思想カバラのセフィロトの樹を読み解くという、非常に難解な解釈ですので、読み流していただければと思います。

さて今回は第4セフィラ「ヘセド(慈悲)」についてです。
これも井筒俊彦さんの著作「意識と本質」の引用から見ていきましょう↓


第四、「ヘセド」​(eed)、​「慈悲」。「ホクマー」を父とし、「ビーナー」を母として生れる最初の子供。神の「慈悲」は広大無辺四方八方に拡がって、至るところ、あらゆるものに生命と生命の歓びとを与える。言い換えれば、神的「有」のエネルギーは存在すべきすべてのものに存在を与えるのである。

すなわち「慈悲」は神の創造性の肯定的側面を表わす。何ものをも排除せず、何ものをも否定せず、どこまでもすべてを肯定するのだ。この肯定的「元型」が人間の宗教的生活を規定する律法の領域に現われると、​「​せよ」という肯定的命令となる。人間の性質では、善(への傾向)。物質界の元素としては水。理想的人間像としてはアブラハム。


井筒 俊彦. 意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫) (p.251). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.



第4セフィラ「ヘセド」は神の創造性の肯定的側面。
ビーナー(理解)において分節された「多」において、それらをすべて肯定する、そういった感じでしょうか。
しかしここで、次の第5セフィラ「ゲヴーラー(厳正)」も併せて考えてみたいところですので、こちらも引用いたします↓


第五、「ゲヴーラー」​(Gvūrāh)、​「厳正」。第四の「ヘセド」が肯定的であったのに対して、これは否定的、抑止的原理。神の「慈悲」はあらゆるものに惜しみなく存在を与える。しかし、さっきも言ったように、それは存在すべきすべてのものに存在を与えるということであって、何にでも見境いなしに存在を与えるということではない。すなわち、神の存在賦与には自ら厳正な制限が課されるのであって、ここに「ゲヴーラー」が存在エネルギーの抑止力として現われてくる。万物をあるべきように存在させるには、峻厳な基準がなくてはならないのである。「慈悲」の段階ではまだそれぞれ一定の自性を得ていなかったすべての存在可能性が、ここではじめてはっきり識別され、厳正な基準による存在範型となる。

「厳正」は別名を「ディーン」​(Dīn)​ともいう。「ディーン」とは「裁き」「審判」の意。すなわち、存在顕現の道を正しく制御するだけでなく、一たん顕現した存在が少しでも邪道に向えば、神は仮借なく正義をもってこれを裁き、その罪を罰する。  この側面において「ゲヴーラー」は、律法的には​「​するなかれ」という否定命令、すなわち禁止、として現われる。が、同時にそれは、この「厳正」な神に対する人間の正しい態度としての「恐れ」​(paad)​でもある。なお、人間の性質に現われては、悪(への傾向)。物質元素の中では、炎々と燃える火のイマージュ。イサクが理想的人間として、この「神名」(「元型」)を具現する。


井筒 俊彦. 意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫) (pp.251-252). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.



このあたりから解釈が様々に…例えば参考にした本「ヘルメティックカバラ」では、ヘセドでは「愛」を、ゲヴーラーでは「意志」を学ぶ場所ということで、これだけでも井筒さんの解釈とはかなりかけ離れているところでもあります。
それだけこのセフィロトの樹というのが多くの解釈を誘発させる深遠なパワーを持っている、という風にも言えます。

とにかく、井筒さんの解釈を軸に進めていきますと、単純に第4セフィラ「ヘセド」を肯定的・善的側面、第5セフィラ「ゲヴーラー」を否定的・悪的側面、と捉えてみるのは簡単です。
これをどの方向から捉えるのか?によって、また更なる解釈も変わってくるところでもあります。

まずは、上(ケテル)から見ていく方向で捉えてみると、ホクマーにて神の自意識の観想、ビーナーにて自身を鏡に映したところで、ヘセドとゲヴーラー、と考えれば、神は自分自身を観想したところで、良い部分(肯定的部分)と悪い部分(否定的部分)を区別された、ということだと思います(もともとは「一」ですが)。
これは、肯定的部分には良い感じ、否定的部分には嫌な感じ、とちょっと説明が雑ですが、神がそれぞれ付与された、ということで、我々がなんとなく良いと感じる、あるいは嫌だと感じる、その感覚はそれぞれの生命体に先天的に、理屈抜きに獲得している感覚、ということになるかと思います。

例えば、生きていること(生)を肯定的に捉え、死を否定的に捉える感覚は、「死にたくない、生きたい」という、生得的・根源的な価値観、あるいは衝動、という部類に入るかと思います(概念としての生死はまた別?になるのかな)。
人間以外の、植物・動物など他の生命体も、基本的には「生」に突き動かされ「死」を拒み、それらを見事に全うしている姿は疑うべくもありません。

このあたり、まだまだ解釈のし甲斐があるので、もう1週考えてみましょうかねぇ~。

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