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阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

#101 セフィロトの樹考察④ 第3セフィラ ビーナー(理解・分別知)

2025年04月11日 | テーマブログ
4月11日金曜日です。
今日で記念すべき100日目!!!皆様ありがとうございます!!!

で、ちょっと調べてみたんですが、
31日(1月)+28日(2月)+31日(3月)+11日(4月)=101???
コピーとかしてたから、どこかで一回ずれていたかな??????

…まぁとりあえずこのままいきますか(笑)
(※先週に通番が間違ってまして、この記事が101番になりました。全部訂正しております。)

ライブ情報はこちら↓
■5月4日() 12:00~ 新冠町 阿部卓馬 とっておきの♪Spring ライブ in cafe ゆるり(ランチ付き!)
■5月23日(金) 札幌市 cube garden ほしのしほ 活動10周年&ニューシングルリリース記念ワンマン企画 2025『つながる絆 コンサート』
■5月31日() 新ひだか町静内KAVACH

詳しいライブ情報は↓
https://blog.goo.ne.jp/abetaku19780107/e/b3d6b71fa216b4505246e169c0677f85

さて、前回に続きユダヤ教のカバラ神秘思想・セフィロトの樹の考察を続けます。
前回までの記事をまとめます↓

#80 セフィロトの樹
#87 セフィロトの樹考察② ケテル(王冠)
#94 セフィロトの樹考察③ ホクマー(叡智)



上から順番に見ていきまして、前回は第2セフィラ「ホクマー(叡智)」について考察しました。
神の最初の自意識が起こったところでしたね。

続いて今日は第3セフィラ「ビーナー(理解・分別知)」についてみていきましょう。
今回も井筒俊彦さんの著作「意識と本質」から引用してみます↓



第三、「ビーナー」​(Bīnāh)、​「分別知」。神が自らをそこに映して、自らの内面をあるがままに眺める鏡に譬えられる。第二の「ホクマー」では神は自らをその絶対未分化的純粋一者性において観想した。「ビーナー」では神は自らの一者性のうちにひそむ多者を見る。あたかも多くの小面をもつ多面体の宝石のプリズムを通った光のように、「神の顔」は無数に分れ、小面ごとに異る顔になって映る。ここに最初の存在分節が起る。すなわち純粋「有」(第一「ケテル」)は、この段階において、それ自体では不可知不可見だったその内的存在構造をはじめて露呈するのである。

但し、存在が分節されるとはいっても、それはあくまで可能的に、であって、現実に一者が多化するわけではない。すべては神的実在の一者性それ自体の内面に生起する事態であって、神の内面的事態としては、多者も究極的に一なのである。

この次元で成立する多者の存在論的様態は、密教的な言い方に移せば、「種子」のそれであると言えよう。存在の「種子」は、存在可能性であって、決して現実の存在者ではない。果してカッバーラーは、一切の存在「種子」を内蔵する「ビーナー」を宇宙的「子宮」として形象化する。「ビーナー」の世界は、まさしく胎蔵界だ。如来蔵と言ってもいい。だから、イマージュとしては、第二の「ホクマー」が父であるのに対して、「ビーナー」は母である。ここで神の内面に最初の女性的要素が現われる。


井筒 俊彦. 意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫) (pp.250-251). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.



第1セフィラ「ケテル」では「有の始まり」、第2セフィラ「ホクマー」では「私の始まり」、そして第3セフィラ「ビーナー」では、この私の持つ多面性を見ます。
「私」と「世界」に区別のない状態から、ひとつひとつ名前をつけていく、そんな感じでしょうか。
しかし、名前を付けたとて、元の「私」の一部分を取り上げているわけですから、もともとは同じ「1」なるものです。

物理学の世界では、原子・電子・素粒子…と極限まで微細な世界の探求が行われていますが、このホクマーからビーナーの話を踏まえて考えると、究極的には同じもので出来ている、という結論に至るような気がします。
同じものだけど状態の違いが異なる存在を生む、ということになるのでしょうか。



元素記号表では性質の違いについて先人たちが物質を分類したものですが、これらも状態の違いから生まれているだけで、もともとは同じもの、ということになるのでしょうか?
確かにこのように分類していますが、これらの違いは、中性子や陽子の数、電子の状態であらわされることから考えると、もしかしたらそうかもしれない、と期待してしまいます。

余談ですが、宇宙の太陽系や銀河系などでは、図では星がたくさんあってそれなりの密度があるように見えますが、実際はスッカスカで宇宙空間にはほとんど何もない、ごくたまに星、という状況のようです。
また、微細な世界でも、原子のモデルでは原子核と電子が近くにあってそれなりに密度があるように見えますが、実際は原子と電子の距離は相当離れていて、原子構造自体スッカスカで、そのような原子で構成された物質や生命体は、透き通って見えるのではないか、と単純に考えてしまいます。

つまり、極小の世界ではほとんど同じようなもので構成されていてスッカスカな世界が、少しずつ離れて見ることで、段々とその全貌が見えてくる、ということでしょうか。
例えるなら、油絵の絵画をごく目の前で見ると絵の具しか認識されませんが、少しずつ離れて見ることで、段々とその全貌が見えてきて、絵画として鑑賞できる、というような。
同じ絵の具でも、人によってはまるで違う絵画が描けるように、世界は様々に現れるでしょう。


さらに、セフィロトの樹は井筒さんの引用の下線部にあるように、「第二の「ホクマー」が父であるのに対して、「ビーナー」は母である。ここで神の内面に最初の女性的要素が現われる。」とあります。
セフィロトの樹は右のセフィラを「男性性」左のセフィラを「女性性」と象徴しているという説明が多いです。

井筒さんは、この「ビーナー」を、密教的な「種子(しゅうじ)」という存在可能性を内蔵する「子宮」、そしてさらに仏教の密教マンダラでも表現される胎蔵界と見立てています。
極めて難解な解釈ですが、ユダヤ教の密教カバラも、仏教における密教も究極的には同じものを表現しようとしている、ということだと考えます。

セフィロトの樹の男性性と女性性に関しては、また改めて考察出来ればと思います。
とりあえず「ビーナー(理解・分別知)」について、大雑把に考察しました。

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