道元さんの教えを書いた「正法眼蔵随聞記」を、ひと月かかってようやく読み終えた。おそらく半分も理解できなかったが、とりあえず若い頃ならすぐに投げ出しただろう本を、最後まで曲がりなりにも読み切ったので、そのことだけでも満足だ。
道元さんという人は、若い頃本物の仏教を学びたいと中国、その頃の宋に渡った。宋に着くと日本船に位の高いお坊さんが椎茸を求めてやって来た。お寺で修行するお坊さんたちに食べさせたいからと言う。理想に燃えて宋までやって来た道元さんは「料理の仕度などはお坊さんがやらず、お寺の雑用係にでもさせて、その分お経を読んだ方がいいのでは」と忠告した。と、そのお坊さんは「おまえは仏道を究めにわざわざ日本からやって来たと言うが、そもそも仏道のなんたるかを知らないのではないか」と言われ、真っ赤になってしまったという。その後の道元さんは、経典を学ぶことよりも、そこにある仏道の心を知ることに全力を注ぐのである。
こういう話を読むと、例えば江戸から明治の世の中になり、西洋に追いつけ追い越せとせっせと日本人を海外に留学させて、外国の進んだ文化を取り寄せたときも、同じことをやっていたのである。銀行にしろ民主主義にしろ、それが生まれた文化的な背景というものが常にある。ところがその頃の日本は、物質的なものやシステムばかりを持ち帰るだけで、その底流にある心までは理解していなかったのである。
これは今でも同じで、クリスマスだのハローウインだのの行事は持ち込んでも、それが生まれた背景やそこにある心はないがしろにしている。
あるテレビ番組で、日本の文化を外国人がYoutubeなどで知り、見よう見まねで寿司を提供したり、社交ダンスのような柔道を教えたり、カラフルなテープを貼りまくったバチで和太鼓を叩き、奇妙なダンスをする人たちに、日本人が行って本物を教えてくるというものがある。それを見て日本人は、なんと奇妙な日本文化の理解なんだろうと笑う。が、道元さんが真っ赤になって恥じたように、日本人は今でも同じことを繰り返している。他人のことは笑えない。
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